書評とのりたま-ことばの学校批評クラス豊崎先生回雑感

SNSのXで、子どもがご飯にのりたまを振りかけすぎるので、その原因を考えてみると、パッケージどおり山盛りにしようとしているのではないか、という推測を披露する投稿を見た。
(遡っても上記ポストが見つからないので、記憶違いかもしれないが)

とは言え、パッケージどおり山盛りにすると、美味しくない(しょっぱい等)と感じる人も少なくないだろう。ただ言うまでもなく、ちょろちょろっと振りかけただけの写真がパッケージに採用されることもない。

何より、パッケージどおり山盛りにかけて、(パッケージどおりかけたのに)美味しくない!と怒る人もあまりいないだろう(パッケージどおり振りかける人はそれくらい振りかけるのが好きな人だろう)。

のりたまのパッケージは批評ではない。
では、書評はどうか?

1.書評は広告か?

豊崎先生の2回の講義及び合評では、初めて読む人に向けて書くこと、読みたい(買いたい)と思わせることの重要性が説かれた。これらは広告の機能と重なる。実際に、ほぼ広告として書かれている書評もあるだろう。
(講義では作家におもねる書評が批判的に言及されていたが、広告としての書評は読者や消費者に過剰におもねる書評と言い換えることもできる)

書評と広告の違いは何か。

広告は購入させることがゴールである。だから「ネタバレ」は禁じられない。洗濯機の新しい機能を、「買ってからのお楽しみ」と謳う広告はない。
広告は、実際に使うか否かよりも、購入するか否かを重視する。
他人の家で新製品の洗濯機を使いました、とメーカーに電話すると、嫌な顔をされはしないだろうが「気に入ったなら買ってくださいね」と電話ごしに微笑みかけられる可能性が高い。

また、広告は購入後、改めて読まれることは少ない。
実際に使った後、チラシと仔細に比較する人は多くないだろう。
(そうする必要が生じるのは、トラブルの局面であり、だからこそ消費者契約法や景品表示法がある)
洗濯機の新機能に惹かれて買ったけれど、結局その機能は使わないことも珍しくない。

一方、書評ではネタバレが制約される。
なぜか。書評は購入されること以上に読まれることを重視するからだ。
(もちろん買ってほしいだろうけれど)
だから読んでいる時の楽しみを最大化するために、ネタバレを制約する。
書評は、実際には積読されているとしても、本を買った読者がその本を(最初から最後まで)読む前提で書かれている。

また、書評は読後再読されることも想定されている(ここでいう「再読」には一度読んだ書評を思い出すことも含まれる)

以上のように考えると、書評はのりたまのパッケージとはずいぶん異なるといえる。

2.書評は予告編か?

のりたまや洗濯機と比較すると話がずれそうなので、もう少し近いジャンルでいうと、書評は映画等の予告編と類似した機能をもつ。
1で述べた要素で言えば、広告の機能をもつと同時に、実際に観ることを前提にしているから、ネタバレは制約される(アクション映画でクライマックスが予告編に含まれていることはよくあることだが)。
また、ジャンルの明示や分かりやすいパッケージング(「全米が泣いた」)、受賞歴の付加といった手法も似ている。加えて、本編を観た後予告編を思い出して騙されたと思う楽しみがあるのも同じだ。

では、書評は本の予告編なのか。

そう言ってもいいような気がする。

どこか違う気もする。

予告編は、本編の映像を編集して作られている。
編集はマジックと呼びうる技術なので、予告編製作は広告としてのパッケージングも、作品解釈も反映させることができる。
しかし、予告編はあくまで本編の映像の切り貼りである。
(本編の映像が含まれない「特報」や本編にない映像が使用される予告編もあるが)
そのため、ネタバレを回避したとしても、本編を先に観るという帰結を伴う。

書評は、たとえあらすじを紹介する部分であっても、小説そのものではない。書評を読んでも、小説を先に読んだことにはならない(よっぽど詳細なネタバレを伴う書評とよっぽど単純な小説ならもしかするかもしれないが)。

そうであるなら、書評のあらすじ紹介には、広告でも予告編でもない要素が含まれ得る可能性があり(多くの書評(あらすじ)が広告か予告編にすぎないとしても)、ここに書評のうち広告でも予告編でもない部分が批評として機能する可能性が生まれる。

3.書評は批評か?

広告でも、予告編でもなく、書評が批評としての機能をもつためには、
書評を読んだ読者が対象となる本を読むこと、また、対象となる本を読んだ読者がまた書評を読むことを前提として書く必要がある。

対象となる本を読んだ人が書評を読むとき、あらすじ部分も再読すると想定しよう。その結果、書評のあらすじがよくできている(不出来だ)との感想を持ったとしても、書評そのものを書きたい人以外にとって、得るものは少ない。そうであるとすれば、対象となる本を読んだ人が、自身で構築したあらすじやあらすじを構築した視点に、何らかの変化を被る「あらすじ」でなければ批評たりえないことになろう。

また、書評とは対象となる書物(あらすじ)の切り貼りではないという認識のもとに書かなければならない。
だからこそ、小説の場合には、対象となる書物の長い引用には慎重でなければならない。対象となる書物とは全く異なる文脈に、その一部を移植することになるからである。
その点で、本編を切り貼りする予告編とは異なる。

その本を読んだことがない人に向けて、その人がその本を読んだ後に読むことを想定して書く(ただしその本とは別のやり方で)。
これが批評としての書評、批評としての「あらすじ」の前提となるのではないか。そして批評たりうるかという点も、書評を評価する基準の一つとなると考える。

のりたまのパッケージは書評ではないし、批評でもない。
同時に、批評たり得るのりたまのパッケージを構想することもできるのである。











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