書評 沼田真佑『影裏』-ことばの学校批評クラス豊崎先生回 試作

小説が目に見えないものを描けるとすれば、小説は、目の前から頑として消えない悲劇に対して、どのような力を持ち得るのだろうか。第157回芥川賞受賞作である本作は、そのような問いを読む者に突きつける。

本作の語り手である今野は、同僚の日浅と意気投合し、釣りを楽しみ、酒を酌み交わす仲となる。しかし、日浅はある日何も言わぬまま会社を去ってしまう。やがて東日本大震災が起こり、今野は、同僚から震災により日浅が死んだかもしれないとの情報を得る。今野は、日浅の足跡を辿る中で、日浅が周囲の人々を裏切る行為を重ねていたことを知る。

日浅の最も大きな隠し事は、卒業証書の偽造による学歴詐称である。この隠し事は日浅の父親に衝撃を与え、時を経て今野の知るところとなる。偽造を知った時、父親の息子への情愛は消えた。これに対して、今野は、日浅に対するイメージの転換を留保する。今野が想像する日浅の姿は、2011年3月11日に日浅の「顎」が巨大な津波に触れた瞬間で止まっている。言うまでもなく、この瞬間の日浅の姿を実際に見た者はいない。

日浅は、今野を含めて様々な人と出会う一方、出会った人々ときちんと別れることを怠ったまま彼らの元を去る。今野もまた日浅に別れを告げることができない。むしろ今野は日浅との別れを回避するために、際限なく日浅のイメージを組み替える。今野が日浅の父親に捜索願の提出を求める場面には、日浅が死んだことを確かめたいという強い思いと、父親が自分の要求を拒否すれば日浅の死を確かめずに済むという歪んだ安堵感が同居している。

今野が日浅のイメージを組み替えるための重要な素材が二つある。一つは本作のタイトルにもなった「電光影裏斬春風」という故事成語である。これは、稲妻(「電光」)に鋭く切り裂かれても春風は影響を受けない、転じて、悟りをひらいた人間はどのようなことが起こっても動じないという意味である。日浅に裏切られた人間からみれば、「春風」たる日浅は厚顔無恥に見えるだろう。

しかし、今野の立場に立つと別の捉え方もできる。それは文字通り春の風のごとき日浅の姿である。本作の基盤となる巧みで豊かな岩手の自然描写において、ひときわ印象的に描かれるのが川だ。春風のごとき日浅の生き方と、常に流れを変える川、それらを包む岩手の地が重なる時、社会的な地位や家族関係とは別の要素で構成される日浅のイメージが立ち現れる。そして、巨大な自然の力に襲われた場面で、一人の人間の生存をイメージするためには、その人間を春の風として想像するしかない。今野は日浅を春風としてイメージすることで、大災害の中で日浅を生き延びさせたのだ。

映画版には、今野が日浅に無理やり口づけをして、日浅に拒まれる場面がある。この場面は、今野が同性愛者であることを明示する以上に、日浅が春風ではなく、生身の人間であることを示す点に意味がある。日浅がどのような理由で今野の口づけを拒んだのかは分からない。だが少なくとも、拒否という明確な反応により、今野は生身の人間として日浅をイメージするための核を得る。そして生身の日浅をイメージすることは、今野にとって日浅の死を受け入れることにつながる。

小説は見えないものを描くことができると同時に、時に見えるものさえ見えないものとして描いてしまう。小説の中であるからこそ、今野は日浅を春風としてイメージし、彼を永遠に生き延びさせることができた。

今野からみた日浅は「大きなものの崩壊」に心動かされる性格の持ち主だった。大手金融機関の破綻しかり、大火事しかり。大きなものが崩壊した跡を見る日浅は、その崩壊を生き残る者である。大規模な自然災害の後に残る自然と人。岩手の自然と一体になった日浅は、春風のごとく消え、何度も今野の前に現れるだろう。
  

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