ことばの学校 第3回-有名人の透明な対談 星野源×オードリー若林『LIGHT HOUSE』

第3回は水上文氏をゲスト講師に迎えての講義であったが、印象的なのは、批評の書き手が透明ではいられないという話だった(佐々木先生の、社会反映論を経て、ある時代に書き手が透明であることを求められることになった旨の応答も興味深かった)。

第3回の講義動画に少し遅れて配信されたのが、星野源とオードリー若林の対談番組「LIGHT HOUSE」(Netflix)である。佐久間宣行がプロデューサーを務め、全6回の対談各々に星野源がオリジナルの曲を作るという話題の番組である。

対談の内容は多岐にわたるが「悩み」を語り合うというのが番組のコンセプトであるため、人生論、仕事論が中心である。確かに、MCがゲストを迎えて話を訊きだすタイプの番組と異なり、二人が誰であるかということと、何を話すかということが、最初から結びつくわけではない。

1 誰が話しているのか

本番組の対談は、ダイアローグではなく、モノローグである。二人がしたためた1行日記を披露するのだが、1行で、かつ内容も抽象的なので、自然とつながる。この1行日記コーナーに典型的なように、本番組では、二人が共感し、一本の糸をより合わせるように話を進めていく、ように構成されている。

言うまでもなく、二人の異なる人間が対話する時、一つの話にまとまることは稀である。いわゆる対談や鼎談でも、すれちがったまま、対立したまま公刊されたものはいくらでもある(参加者の手で多少校正されても根本的な溝は埋まらない)。2人以上の人間が話すとは、そういうことである。

では、一本の糸のようにまとまる話を語っているのは誰か。対談する2人ではなく、番組の制作者である。街を歩く人にランダムにインタビューしているはずなのに、皆同じ反応をする夕方のニュースと同じである。本番組では、佐久間Pが演者としても知られているためか、若干顔を出すものの、基本的には、まさに透明な語りとして番組を支配している。

2 何を話しているのか

2人が語るのは仕事論である。星野・若林両名が、各々の仕事の内容、価値観を語っていることは間違いない。だが、仕事論にもいろいろある。

某仕事の流儀のように、「プロとは」といった抽象的な問いかけをすれば、ほぼ似たような内容になるか、大喜利になるかのいずれかである。大谷翔平であっても、行列の絶えないケーキ屋のパティシエであっても、似たような答えになる。そうでなければ、視聴者であるサラリーマンが、自分を重ねることができないからである。

このタイプの仕事論は、誰が語っているかは、単なる権威付けの意味しかもたない。それ故このタイプの仕事論にこそ、ネームバリューが必要なのだ。

だが、そうではない仕事論もある。大谷翔平にバッティングについて語らせ、パティシエにケーキそのものについて語らせるものである。このような仕事論は普遍性が後退し、特殊な内容となるがゆえに、彼らが語る意味がある。ただ、多くの視聴者には難しすぎたり、自分と重ねることができず、つまらないと感じてしまうリスクもある。

若林が、笑いが生まれるプロセスを語るなというお笑い好きに対し、プロセスを語る必要、その面白さを説く場面がある。若林の主張は「あちこちオードリー」だけでなく、本番組の擁護にもなりうる。

しかし、ある笑い(ネタ)がどのように生まれるかという話と、一般的に笑い(ネタ)がどのように生まれるかという話には大きな開きがある。

本番組は、キャリアの長いミュージシャンとお笑い芸人の対談であるにも関わらず、固有名詞がほとんど登場しない(もしかすると二人は話しているのかもしれないが、それは見ている側には知る由もない)。固有名詞なしで語られるプロセスは、とても一般的な仕事論にきこえる。

逆に、本番組では、とても一般的な内容がカラフルなテロップで表示される。本番組の制作者が二人に何を話してほしいのか、何を話したことにしてほしいのか、回を追うごとに見えてくる。

3.再び、誰が話しているのか

星野が、星野に憧れる後輩のミュージシャンについて、自分が辿って来た道筋を知らないから(俳優もやりたいと)言えるといい、若林も共感を示す場面がある。上記後輩のミュージシャンの立場は、本番組の視聴者そのものである。

星野と若林のことを観ている側は良く知っている(と思っている)から、本番組は成立する。全く知らない人が、素晴らしい仕事論を語っても、まず誰だ、というところで引っかかってしまう。

同時に、本番組が成立するのは、視聴者が、二人のことをよく知らない、いや全く知らないからこそでもある。これは、本番組を通じて、二人の知られざる悩みを知るといった話ではない。もし二人のプライベートや創作について熟知している人がみたら、(星野・若林は)こんな人じゃないのにとなるかもしれない。
(星野が、自分は最低だと思う人が世間で評価されているともやもやすると話す場面があるが、それと同じ立場におかれるかもしれない)

そう考えると、視聴者は全6エピソードを見終えても、二人のことをほとんど知らないままの方が、本番組の語り手にとっては都合がよいことになる。もし視聴者が二人の事を本当に理解してしまったら、透明な語り手には、都合が悪い部分もあるのではないか。

誰かに語らせられたり、何かを語ったことにさせられたり、何も語っていないことにされたまま終了させられたり。これらは、本番組の中で二人が強く忌避していたことではないか。

星野のエンディング曲だけが、背後の透明な語り手を拒み、あるいはそのためにこそ星野は曲を作ったのでないかとさえ思える。



 


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