批評における文脈形成と「私」(なぜみんなで批評をやるのか)-ことばの学校演習科山本浩貴回を終えて

山本先生回3回目を終え、最後の質疑応答で、批評の型を突破するのに、「私」性は有効かと質問し、またそれに続く質疑で他の受講者から、最後の一文の重要性が指摘された。

その後、やはり批評はみんなでやる意味があるのではないか(同人誌を作るとか)と提案してみた。その実現可能性はともかく、みんなで批評をやる意味はどこにあるのか、以下簡単に説明する。

1 「私」性の価値

 豊崎・倉本・山本回を終えて、一つの作品を評する際に、視点のオリジナリティを維持することは極めて難しいことを再認識した。特に受講生はみな文章力も高く批評の型も熟知しているので(講師から様々指摘はあるものの)表現の独自性を明確に示すというのも同じく困難である。これに対し、微細な差異化のゲームから逃げるな、覚悟をもてというのも一つのスタンスであろう。

 ただ、山本回では別の回答の可能性が示された。それは大まかにいえば広義の「私」性の導入であった。私の経験、私の身体を強めに押し出すことで、「私」というものがすべからく唯一性をもつという前提のもと、差異化において一歩抜け出すというものである。言い換えれば、私が、私として(私の身体を通して)鑑賞したことそれ自体が独自性であるということである。

 しかし「私」性には二つの壁がある。
 一つは「私」であることは独自性につながるのか、ということである。常森が観た「リリイ・シュシュのすべて」は40代男性が観た「リリイ」と言い換えてもよいのではないか。つまり、いくつかの属性の束に還元され(世代論等)、唯一性という意味での独自性はないのではないかということである(属性の束とか唯一性というと別の議論に流れそうなのでこのあたりで)。

 もう一つは、もう少し俗な話で、無名の「私」の「私」性に(市場)価値があるのかという点である。佐々木敦氏が折に触れて言っているように、何を言ったかではなく誰が言ったかとという点が重視されるということである。「私」性の価値を否定されることはないにせよ、市場価値のない「私」性を押し出したところで、視点の独自性といえるかという問題といえる。市場価値というと、売れるとか多くの人に読まれるという側面が強調されがちだが、無名の書き手の「私」性は、唯一の「私」ではなく、属性(大卒、男性、40代)に還元して読まれやすい(もちろん有名人だとパブリックイメージに還元されるので一長一短ではある)。

2 単独(自分)で作る文脈

 以上のようにみると、「私」性だけでは分が悪そうである。その際、重要なのは文脈ではないだろうか。文脈というとき、二つの方向性がありうる。一つが単独で作る文脈であり、もう一つが複数で作る文脈である。

 単独で作る文脈にはいろいろある。例えば同じく「リリイ」について論じても、岩井俊二のすべての作品評を書いてきた人、小林武史の作品評を書いてきた人、映画製作に携わってきた人など、仮に同じような評になったとしても、各書き手固有の文脈により、読者による評価は異なるだろう。〇〇について~と言っていた人が、△△についても~と言っているということは、~は一つのキーワードかもしれない等。

 文脈とは肩書や有名人であることとは異なる(重なる部分もある)。また、単なる(長きにわたる経験としての)業績とも違う。ある作品を一つの批評だけで論じきれることなどほとんどないからこそ、複数の批評を合わせて「私」性を文脈として提示する。一つの短歌ではなく歌集として、単独の楽曲ではなくアルバムとして提示するのと共通する。

 もちろん困難もある。まず、たくさんの批評を継続的に書かなければならない。そして、「私」性と呼べるような文脈形成に意識的でなければならない。加えて、たとえnoteに一覧があったとしても、無名の書き手の過去の批評を通読する人はいないであろうから、積極的に自分が作った文脈をPRしなければならない(よくてポートフォリオ、悪いと単なる肩書になってしまう)。

3 複数で作る文脈

 もう一つの方法が、複数人で文脈を作る方法である。典型的には批評誌の特集がこれに当たる。

 複数で文脈を作る利点はいくつかある。一つは、文脈そのものが複雑で強度のあるものになるということである。もう一つは、文脈そのものの説明やPRを他者(編者)に委ねることができるということである。ここにより多くの人に読まれやすくなるという点で市場価値が高まることや、制作過程に携われる場合は相互の刺激のようなことを付け加えてもよいだろう。

 もちろん難しさもある。そもそも依頼されない、仲間に入れてもらえないと文脈形成に携われない(業界の形成)。また、依頼されても自分が思った位置づけをされていない、あるいは制作過程に携わっても文脈そのものに納得いかないということもあるだろう。紙幅の制約なども意外と重要である。つまるところ、他人といっしょにやるのだから、妥協せざるを得ない部分も多いということである。

 また継続性もない。依頼があっても次呼ばれるか分からない、あるいは同じような依頼ばかり、特集ばかりになる(逆に同人誌なら毎号思いつきのような特集になってしまうと長期にわたる継続的な文脈形成ができない)可能性もある。

4 まとめ

 とりあえずまとめるなら、批評をやるに当たり、単独での文脈形成は必須といえるだろう。複数で何かをやる場合にも、その人自身の文脈がない人はだんだんと呼ばれなくなるのではないだろうか。他方で、noteで自分の書いたものを細かくカテゴリ分けしても、それだけではいつか迷子になってしまうかもしれない。

 だから、複数での文脈形成は重要である。誰とやるかではなく(それも重要だが)複数であることそのものが重要である。商業誌が、名のある人を集めて特集を組むのは当然である。同人誌でもその方が良いのかもしれない(そうすると私などいつまでも入れないのだが)。しかし、そのことと当該特集によって文脈が形成されるかということは別の話である。

 ただ原稿を集めてきただけの特集はいくらでもある。そこでは、複数集まっているけれども、複数で作っているわけではないといえる。複数で文脈を作ることそのものに価値を置くとき、冒頭の「私」性は、その属する書き手が無名であっても、批評に固有の価値を与えるのではないか。

 


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