ことばの学校 第2回 ミステリにおける長さと下品さ

第2回は、具体的な書き方に関する内容が中心であった。書き始め、書き進み、書き終わるまでの心構えや技術などである。その中で、ミステリ作品についての言及が多く、講義を聴きながら、自然とミステリについてあれこれと考えていた。

私はミステリを読むのが好きで、創作もミステリが中心である(ゲンロンSF創作講座に参加し、同人誌Sci-Fireに参加していることもあり、SFを書く機会も増えてきたが)。佐々木先生のミステリ・アウトサイダーズの再開を待ち望む一人でもある。

さて、講義の中で、書き進めるための「推進力」についていくつかの例が挙げられていた。保坂和志氏のいう、前の一行が次の一行を生むような推進力もあれば、村上春樹作品のように、何かを探求する設定も小説を進める力となる。

では、ミステリにおいて小説を前に進める力(広義の推進力)とは何か。まず思い浮かぶのは、前述した探求だろう。謎があり、謎を(論理的に)解決するまでの過程は、ミステリの最も大きな推進力であろう。他方で、当然のことながら、謎→解決という流れが設定されているにもかかわらず、推進力がほとんどないミステリもたくさんある。

講義の中では、最後の謎は必ずしもすごい謎でなくてもよい(帯に最後がすごいと書くのは良くない)、ハードボイルド小説は探求する過程が面白いといった話もあった。そうであれば、ミステリの魅力は、謎→解決とその途上の情報の羅列だけではないことになる。

1 ミステリは短い方がいい?

探求する過程は、ミステリに限らず、様々なジャンルで用いられる推進力である。ただし、必ずしも謎→解決という形式をとるわけではなく、部分的にリーダビリティを高めるために用いられることもあるし、探求の対象が空虚なマクガフィンにすぎない場合もある(蓮實重彦『小説から遠く離れて』はそういう分析だったような(うろ覚え))。

これに対し、ミステリはやたら謎→解決(とその形式)に固執するジャンルといったところだろうか。
時々思うのは、謎→解決だけであれば、短編やショートショートが一番適している。トリックだけを集めた本もあるし(つまるところ頭の体操的なもの)謎となる設定から解答まで最短距離で到達する方が、簡便である。

多くの伏線が一気に回収されることに楽しさを覚える場合でも、500頁以上の小説を読む必要はない。むしろ伏線を記憶できる長さに収まる必要がある。実際に、講義で例示されたような海外ミステリとその影響を受けた日本のエンタメ小説が長大化する一方、いわゆるイヤミスのように「長編」であってもコンパクトで、描写や情報も絞り込まれている作品も少なくない。

2 探求することの下品さ

では、特に長編においてミステリの推進力となるのものは何か。それは、探求することそのものがもつ下品さではないだろうか。「下品」という表現には、既に価値判断が含まれているので、ふさわしくないように思われるが、ミステリにおいては、好ましくないことに参加しているという読者の認識(うしろめたさ)が重要なのだ。

ミステリは、他人の秘密を暴く、特に犯罪や社会的に非難の対象となるような行為について暴露する内容が中心である。また、誰が、なぜその行為を行ったかに着目する。遺産相続、不倫などミステリの動機となる部分は、週刊誌のゴシップと変わらない。しかも、関係者に順に話をきいていく伝統的なスタイルをとる場合、これまたワイドショーとそれほど変わりはない。

このようなミステリにおける「探求」の対象及び過程は、科学に基づいてセンス・オブ・ワンダーを追求するSFを比較すると、その下品さが際立つ。
(そのため「どのように」(How)にこだわるミステリは、相対的に下品さを回避できるし、SFに近づく可能性もある)

他人のゴシップなどどうでもよい、むしろ嫌悪感を覚えるという人も多いだろう。他方で、ネットを漁って話題の人の情報を何時間も探ったり、同じゴシップについて複数のサイトで情報を集めたりする人もいる。あるいは、芸能人や赤の他人のゴシップには関心がないが、家族のスマホを勝手に見るか迷ったことがあるという人もいるかもしれない。

知らないことを知りたいと言えば聞こえはよいが、隠されているものを暴きたいというと、途端にうしろめたい気持ちになる。講義の中で(1回目か2回目かは覚えていないが)、小説などを読むとは他人の文章を読むことであるという言及があったと記憶している。ミステリでいえば、ミステリとは他人に関するあれこれ(ゴシップ)を読むということになるだろうか。

このゴシップ的探求が作る磁場を大いに活用しているのが、古典でいえばアガサ・クリスティである(特にミス・マープルはゴシップ探偵である)。横溝正史作品の中で「犬神家の一族」が有名なのは、もちろん映画を含めた角川の戦略のおかげだとしても、例えば名作とされる「獄門島」と比較した時、ゴシップ的探求の興奮が横溢しているせいだといえる。松本清張のような「社会派」も、何度もテレビドラマになるのをみると、実のところ場末の男女関係を暴く局面で作品としてのけん引力を維持しているともいえる。

このようなゴシップ的要素は、ミステリの作品評価にあたり重視されることはほとんどない(まさかあいつとあいつが不倫関係であるとは驚かされた、とか、相続される遺産が〇億円とはすごい、といった評価はされない)。逆に、遺産や不倫といった設定はありきたりだとして低い評価を受け、そんなことで人を殺すのか、という意外な動機や独特な犯罪者の思考回路を創作することが特に本格ミステリでは評価されてきた。
(ゴシップ的関心と動機の意外性のいいとこどりをしようとしたのが、トラウマ+サイコパスものだったが、大方ゴシップの方に回収されたようにみえる)

しかし、バリエーションが増えたとしても、ミステリにおいて、下品さを回避せずにゴシップ的関心を作品全体に組み込めるかは、今までも、これからも重要な要素である。そして、しばしばそのような作品は、ミステリファンが評価するのとは別の場所で広く人々にミステリの楽しさを提供している。

3 イヤミスは下品か?

ゴシップ的探求を軸にすえたのが、いわゆるイヤミスである。イヤミスの定義は難しいものの、読者を「嫌」な気持ちにさせる設定の大半は、前述したゴシップ的関心を煮詰めたような設定である。
(以下、イヤミスを定義せずに「イヤミスは~」と説明するが、自分がイヤミスだと思う作品を思い浮かべてもらいたい)

では、イヤミスはミステリの推進力たるゴシップ的探求を引き継ぐジャンルかといえば、個人的にはそう思わない。イヤミスの特徴は、ゴシップを記号化し、下品さを漂白した点にあると考える。設定の極端さ、展開の速さは、ゴシップを湿っぽく後ろめたい行為のまま捉えていては実現できない。

今までのミステリ(先に挙げた有名な作家、作品含め)も現実の人間や行為を散々記号化していたじゃないか、と言われるかもしれない。確かにそうだ。ただここで重要なのは、金銭や男女関係をめぐるいかにもなゴシップをいったん記号化した後、どう用いるかである。松本清張原作の2時間ドラマをみればわかるように、ゴシップ的探求の力を信じる場合は、結局現実にありそうな(ワイドショーで報道されそうな)形態での記号化を選ぶのである。

これに対し、イヤミスと呼ばれるミステリーの多くは、ゴシップ的要素を記号化したうえで「どのように」(How)のレイヤーに置き直すのである。これは一つの発明であるが、ゴシップ的な後ろめたさは生まれず(それも読者層を広げることに貢献するかもしれない)、従前のゴシップ的探求とは異なる推進力の発生を企図しているのである。

「どのように」のレイヤーに置かれたゴシップは、とても素早く、フォルムもきれいで、全然「嫌」な気持ちにならない(そもそも「嫌」な気持ちになるかどうかでなぜジャンル分けできるのか)。心がざわざわすることもない。

そうだとしても、いや、だからこそ、私はイヤミスが嫌いだ。






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