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絵と文章、天才でも秀才でもない私について。

徒然と思うがままに。

文章を書くことで己の伝えたいことを伝えてきた私ですが、ここのところ、絵というものも、その一つに仲間入りをし始めました。

愛も相も変わらず、 伝えたいことがある。
その手法のひとつ、それ以上でも以下でもない存在として、その二つは私のそばにいます。


1. 覚悟などはない

以前もお話しをしたことがあるのですが、実は私は、幼い頃は絵を通じて人に何かを伝えられる人間でありたいと思っていました。それこそ小学生の頃は、漫画家になるとか、イラストレーターになるとか、そんなことを夢見ていました。

しかしその夢は、デザイン学科の高校を卒業し、本当に一握りの「天才」達を見てきた母親に、ものの見事に一刀両断されました。

「あんたは365日、絵を描ける?」
「クラス全員分の絵を並べて下手な順から枠から外される。その一番最初になることに耐えられる?」
「それでも、毎日、絵を描くことを、諦められないでいられる?」

今思えば、クラスで一番絵が上手い、というレベルで漫画家になりたいとか、絵で食べて生きたいとか、そんなことを言うほどに天狗になっていた私に、現実を突きつけ、覚悟を見極めようとしたのだと思います。自分より絵が上手い人間がいる世界でも頑張れるのかと。

そして、お気楽で甘えんぼうだった私は、そんな怖そうな世界が怖くて、咄嗟に「むりだ」と思いました。天才になる気も、秀才になる気も、そんな彼らと肩を並べる覚悟もないことは、自分が一番わかっていました。

ここで、私は何かを伝える手段として、絵、というものを、一度やめました。

代わりにできるのは、じゃあ何があるだろう?
そう考えて、行き着いたのが「文章」です。

文章ならば、コトバがわかれば誰だってかける。上手い下手もない。伝えたいことを伝えられるように、わかりやすく書けばいいだけだと、私は絵を描く時よりもずっと、気軽な気持ちでペンを握り始めました。


2. 生きている世界

今、私はライター兼ディレクター兼編集者として、お仕事をしています。絵も文章も全て、ごちゃ混ぜになった、世界で生きています。

絵を諦めた私は、趣味で気が向いた時にイラストを描くことや、挿絵を手紙に描くなどをして遊んでいるばかりで、本格的に絵を学んだことはありません。文章も、「伝わればいい」とだけ考えて書きつづけていただけです。だれかから、指南を受けたわけではありません。言ってしまえば、全て自己流です。

私は今年に入ってから、組織に所属することをやめ、ひとりで仕事をすると決めました。

その時に、自分の手にあった武器は、誰から教わったわけでもない「絵」と「文章」であったこと。
気がついたら、「絵を通じて人に何かを伝えられる人間でありたい」という夢に、近しい場所にいること。

何の覚悟もなかったくせに、そんなことになっているのが不思議でした。そして、幼い頃に思い描いたものに近づいているというのに、なんの感慨もないことも、なんだか不思議でしたが、「私と絵と文章」の関係が、この上なくドライであったことが、理由なのだと思います。

私にとって一番大切なのは「伝えたいことがある」ことであって、ただ絵が描きたいわけでも、文章を書きたいわけでもない。全ては「誰かに何かを伝えるための手法」であり、それ以上でもそれ以下でもありません。

だから、天才的に絵がうまい人を見ても、嫉妬しません。素晴らしい、と思って記憶に刻み、時にファンになり、魅了され、楽しみます。天才に追いつこうとか、肩を並べようなんてことは、考えたことすらない。秀才のようなストイックさも、私は持ち合わせていません。別世界のひと。嫉妬なぞ湧かない。

文章に関しては、正直、私には「良し悪し」というものが、よくわかりません。伝えたいことが伝われば「良い」ものであり、よくわからないものは「良くない」ものであることくらいしか、わかりません。

文学や詩は、絵に近い芸術であると思います。
けれど、芸術ではない、メディアだとか、何かを伝達するものとしての文章に、そんなに美的なものを見い出すことなく生きてきたので、そのあたりの情緒は残念ながら育まれることはありませんでした。

私の文章や絵は、入れ物であり、空っぽです。それでいいと思っています。
入れ物を飾るより、そこに「伝えたいこと」という「魂」があることのほうが、よっぽど本質的であると思っています。

魂なき伝達物に、何の価値もない。伝えたいものやことがない文章ほど、かわいそうなものはありません。


3. 想いつづけていること

私は文章や絵で、この世にいる、天才や秀才、芸術家や有名な編集者、ディレクターらと張り合う気はありませんが、唯一、引けを取らず、覚悟を決めていることがあります。

この世界を生きるすべての人達に、叫びたい想いが、常に胸の中で暴れていて、それを伝えることを、決して諦めないこと。

伝える内容はつたないかもしれません。天才的な内容でも、世界一素晴らしい内容ではないかもしれません。
けれど、これを絶対に諦めない、どんな手法を使ってでも諦めない、という覚悟だけは、誰に何を言われようと、持っていると自負しています。

例えば、生きることは辛く長い旅路かもしれないこと。人は相手を理解すること、理解されることは、本質的には、できないかもしれないこと。
けれど人と人の間には奇跡のようなことが起きること。それを信じて失敗して、傷つきながらも諦めずに生き続けると、いつか、光が見えるかもしれないこと。
その光を、見失わないように、生きて欲しいこと。

この世界を生きる、たくさんの孤独や生きづらさ、寂しさを抱える人に、少しでも光を届けたくて、私は絵や文章を使います。

誰かの生きる希望になりたい、なんて大それたことは言いません。

でも例えば、疲れ果てて目を閉じて、もう明日など来なければいいと願う人がいたら。
その人に、「明日も目を覚ましてやるか」と、思えるような何かを、届けたい。

それだけを、私は本気で思っています。誰よりも、腹を括って、叫び続けると、覚悟を決めています。そしてその覚悟は、誰にも笑い飛ばせるものでもない。比べられるものでもない。

そのために、絵や文章という媒体が私の手に残ったのは、巡り合わせであり、神様のいたずらのようです。けれど、やっぱりそれらは、どこまでいってもただの手法。それ以上でも以下でもない。そんな距離感だから、私はこの二つを携えて生きて行くことが心地いいのかもしれません。

今日も私はペンを持ち、絵を描き、文章を書きます。伝えたいことを、魂を器に吹き込むために。

私は天才でも秀才でもない。そうでなくていい。
大事なのは、伝えたいことがあること。それだけでいい。

だから、伝えたい想いがある人は、つたなくてもいいから、発信し続けてほしいと思います。なんだかこんな言い方は上から目線のようで嫌なのですが。

そうしたらいつか、誰かが、何かが、もしかしたら世界が、変わるかもしれない。そんなつたない夢を、私は描いています。


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