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わたしはここからひとりで。【フリーになります】

つい先ほど、明細書にまみれながら、令和2年度分の住民税の申告書を書き終えました。ひどく疲れた。

令和2年は、休職・転職・休職・退職を繰り返し、多大なる額の医療費を支払い続けました(その額に、自分でもちょっと引きました)。そして、この面倒くさい作業を、これまで担ってくれていた会社・組織・部署・仲間のことを考えました。

2021年2月、私はフリーランスになることを決めました。
組織というものには、戻らないと決めました。

目を閉じて思い浮かべたのは、お世話になったたくさんの仲間たち。あぁ、会いたいなぁ。ほんとに、会いたいよ。

これまで私は、組織を去る時に、花束や、はなむけの言葉をもらえるほど上手にさようならができなかった。なので私の門出には、はなむけの言葉も花束もない。だから、ここに綴る言葉は、私から私へのはなむけの言葉であり、送別と激励の花束です。

偶然のような、必然のような経緯で、私はこの道を選びました。その道のりを、過去を振り返りながら、綴らせていただきます。

そんなものを、誰かに届くよう、願いながら、記します。



1. 遠くまで行きたければ、みんなで行け

If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.――「早く行きたければ、ひとりで行け。遠くまで行きたければ、みんなで行け。」( アフリカのことわざより)

新卒入社した会社では、上記の言葉を教えてもらいました。

組織というものは、何か大きな志や、目標を実現するためにある。その目標が遠ければ遠いほど、ひとりではたどり着くことは困難になる。だから、多くの人を巻き込んで進むことが大切です、ということを説いていることわざです。

会社に、組織に入るということは、云わば、その組織の目指す目標に向かって進む船に乗り込むようなもの。
2014年の春、会社の目指す目標に共感をして、私はとある船に飛び乗りました。果てしなく遠くを目指す船に、乗せてもらいました。

正直、入社後の仕事は本当に辛かった。だって、部署異動が激しすぎて、一人前になる前に仕事が変わって、何もかもが中途半端。

部署で言うならば、営業部、制作部、経営企画部までを経験。領域で言うならば、BtoB中心の制作会社でしたが、人事・採用領域、広報領域、IR領域のという、専門性を求められる領域を歩き渡りました。

仕事内容で言えば、営業、ディレクター、総務、秘書、PR、営業補佐と、前線からバッグオフィスまで。途中で出向し、会社が変わったこともありました。これまでお世話になった上司は計14名。半年以上、同じ部門にいたことがなく、あまりにも変わるから、私は歓迎会も送別会も、辞退していました。

こんなに異動が多い自分は、どこででもやっていけるだろう、という期待をかけてもらっていたと同時に、どの部署にいても、特に抜けても問題のない程度の人材だったということを、理解していました。どの仕事も、一人前になれずにいたことがコンプレックスでした。

そんな、何もできない自分が嫌で仕方がなかったし、部署が変わるたびに、自分のことを理解してもらえないことも辛い。年次が上がるにつれて、未経験のことでもある程度のレベルを求められるようになり、期待にこたえられず、何度も唇をかみしめました。

同じ船に乗っているはずなのに、どこにも居場所を作れなかったのは、ただただ、私の力不足でした。


2. 一緒に過ごした日々の景色は、美しかった

けれど、私はそこで、忘れられないほど美しい景色を、何度も見させてもらいました。

例えば、残業して、ひとりで真っ白な提案書を前に苦戦する私に、たまたま斜め向かいの席に座っていたひとつ上の先輩は、「どうしたの」と声をかけてくれて、夜明けまで隣に座って一緒に提案書を作ってくれた。あとから知ったのですが、その人は私が提案書を作り終えて仮眠をとっている間に、後回しにしていた自分の仕事を寝ずに仕上げて、一睡もせずにクライアント先に向かったそう。私にはそんなこと一言も言わないで。

とある育成施策で課題を出された私が、課題提出の一時間前に通りかかった先輩に「もう無理です」と弱音を吐いたら、先輩は課題提出までの一時間、みっちりアイディア出しや使えそうな資料を探すのに付き合ってくれたこともありました。もういいです、と言っても、「いや、困ってるんでしょ、諦めるなよ」とPCから目を離さずに、私以上に頭を掻きむしって考えてくれた横顔を、私は忘れられない。

何もできない自分が嫌で仕方がなかったし、自分のことを理解してもらえないことも辛かった。いつまでたっても半人前で、求められたものを返せない。

そんな私を、彼らは仲間だと思ってくれ、私を助けることを当たり前だと思ってくれたことが、信じられなかったです。自分の仕事を後回しにするなんて馬鹿みたいだし、たかが新人の育成施策に中堅レベルの人が一時間も使うなんて、まったくもって全社最適ではありません。

けれど、その人たちと一緒に過ごした日々の景色は、美しかった。感動と感謝と情けなさで声が出ないほどに、美しかった。
同じ船に乗り、同じ目標を目指す仲間がいるとは、こんなにも心が揺さぶられるものなんだと、私は知りました。

やがて組織は変わって行き、私は身体が病に侵されはじめ、ある日、心が音を立てて壊れるようにして、会社に行けなくなりました。そこからは、いつか終わるとわかる道を、ギリギリの体力で走っているような苦しみを味わいながら、壊れては戻り、また壊れては戻りを繰り返し、ついにタイムリミットが来て、私は本格的に壊れました。

さようならもありがとうも伝えられないまま、私は組織を去りました。


3. 早く行きたければ、ひとりで行け

令和2年の10月に休職をしてから、諸事情で、今年の3月まで、傷病手当金の承認が下りませんでした。

半年近く、無給で生きるのは、想像を絶するストレスでした。夫に助けてもらいながらも、私は甘えすぎることが嫌で、自分の翌日の朝ご飯を買うために、一日10冊の本を売って小銭を稼ぐ、そんな日々を過ごしました。

これじゃあ、生きていけない。そう思った私は、申請が通ったらきちんと申告をしようと決めて、個人で仕事を受けることを始めました。

そこで私は、自分の手にはたくさんの財産が残されていたことを、はっきりと自覚しました。たくさんの部門を渡り歩いたから、どの部門の側の人間の立場も考えられる。営業から納品、バックオフィスまでも経験しているから、どんな仕事もできる。

凸凹を補い合う「組織」という船の上ではすべてが中途半端で役に立ちづらいけれど、ひとりになった瞬間に、経験したすべてが「一本の線」となりました。私は、私一人で、会社という生き物の体全部を巡り歩いていた。苦しかったけれど、そんなこと、そうそう経験できたものではありません。

3/13の金曜日、会社を辞めて、はじめてひとりで請け負ったプロジェクトの納品が完了しました。そして、同時に、傷病手当金が、恐らく受け取れなくなるという知らせも、受け取りました。

その時に、これはきっと、巡りあわせなのだろうと思いました。フリーランスでやっていけるのかとか、誰からも守られないでやれるのかという不安以上に、今私の手にある財産を持って、あなたはひとりで行きなさいと、運命がささやいているような気がしました。

If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.――「早く行きたければ、ひとりで行け。遠くまで行きたければ、みんなで行け。」( アフリカのことわざより)

遠くを目指すひとりになって、私はその美しさや楽しさを知った。そこで見た景色の美しさは一生忘れない。

その景色を知ったからこそ、これからは自分の足でいけるところに旅に出ようと、今思えています。遠い遠い目的地ではなく、早くたどり着くであろう近い場所に、自分のペースで歩める旅に出ようと、息をするように自然と思うことができたのは、あの時私を仲間として受け入れたくれた人たち、美しい世界を見せてくれた人たちのおかげです。

ありがとうなんて言葉では足りない。苦しかったなんて言葉じゃ表しきれない。そんな思いは、きっと一人じゃ経験できませんでした。

この感情を、どう表せばいいいのか私はまだわかりません。だから、今は語りません。こんな時こそ、花束に想いを込めて贈れればいいのに、誰に渡していいかもわからない。

ただ、瞼の裏に思い浮かぶ懐かしいみなさんに、会いたくてたまらないことだけは、確かです。船を降りても、ひとりひとりへの愛が消えることはないんだと思いました。みんな仲間のままだ。

これから私は、自分の足でいける場所に行きます。
どこかで、あなたたちの船を見かけたら、応援の声をかけて、精一杯、手を振ります。

私はここからはひとりで。いってきます。
遠くを目指す船は、みんなで。いってらっしゃい。
旅の途中で、またご縁があったら。

久しぶり、と笑いながら、一緒にお仕事をしましょう。

それぞれの旅路に、幸あれ。



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