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「好き」や「嫌い」がわからなくなったあなたへ贈る、生存戦略

こんにちは、カタカナと申します。

30歳前後、東京都在住の、PRや編集の仕事をしている人間です。
この「豊かなのに、なんだか、生きづらい世界」を生き抜くための、生存戦略を少しずつ、noteで綴っています。誰かの役に立てればいいなと思いながら。

今回綴りたいのは、「嫌」なことに耐え続けた結果、自分が何が「好き」で何が「嫌い」で、何を「やりたいか」か、という意志や感情すらなくなってしまった時のお話です。

1.「好き」も「嫌い」も「やりたい」も、すべて消えた時のこと

私の経験談を先にお話したいと思います。お前の経験談は興味ないよー、という方は、下段のほうまで目次でジャンプを。

当時の私は26歳くらい? 仕事に燃えすぎて、恋人を3時間くらい駅で平気で待たせるような酷い女でした。仕事は正直つらく、泣きながら深夜、持ち帰った企画書を叩いているような状況でしたが、成果を出して周囲から認められるのが嬉しくて、もしくは周囲から認められたくて――自分の持てる時間のほとんどは、仕事に費やしていました。多くのことを得られた大切な貴重な期間でしたので、そのこと自体は今でも後悔していません。

けれど困ったことに、段々と異変が起きてきたのです。
最初に自覚したのは、お昼ご飯を買いにコンビニに行った時に、お総菜コーナーの前で、気が付いたら30分以上立ち尽くしていたことでした。「食べたいものが決められない」。疲れてるなぁ、とその日はウィダーインゼリーを購入して帰りましたが、次々と小さな異変が現れるようになってきました。

・仕事の身にならないから物語は読まない(前は本好きでした)
・話すことがないから、友人と連絡を取らない(未読スル―)
・食べるべきものがわからず、食事のメニューを決められない

そしてある日、仕事でミスをしてしまった私に、先輩から「あなたは何がしたいの?どんなキャリアを歩みたいの?」と、問われ、私は非常に困りました。
私の意志を問うているんだろうけれど、私は会社の人に褒めてもらえることが、やりたいことなんです。会社の人に認めてもらうことがすべてで、私の意志はそこにしかないんです。好き嫌いとか、やりたいやりたくないとか、そんなこと、言ってちゃだめなんです。私は当たり前のことのようにそう答えました。
先輩はさすがに私の様子がおかしいことに気付いたようで、じゃあ今すぐできることがあるなら、何がしたい?と問うてくれました。今すぐできること。ぼんやりとした頭で数秒考えて、

「眠りたいです」

気が付いたらボロボロ泣いていました。なんで泣いているのかすらわかりませんでした。ただ、私眠りたかったんだ、という事実に少し驚きました。全然気づいてなかった。
その日から、私はしばらくお休みをいただくことになりました。仕事を巻き取って、すぐさま休ませてくださった先輩には、本当に頭が上がりません。

どうやらストレスと睡眠不足で体が限界だったようで、2週間ほど、最低限の食事と以外ほぼ何もせずにひたすら眠りまくりました。2週間が過ぎたあたりから、段々と心臓の奥の方から、消えそうな自分の「欲求」とも言うべき声がすることに気が付きました。

(オムライス食べたい)

面倒だから嫌だよ。布団にうずくまりながら、私は心に響いてくる小さな欲望の声を無視しました。けれど、この「オムライス食べたい」攻撃は、三日三晩続き、無視することすらめんどくさくなった私はその声の言うことを聞いてあげることにしました。鉛のような体を動かしてオムライスを作って、食べました。
(美味しい。嬉しい)
自分で「食べたい」と思った食事を食べたのは、数か月ぶりでしたが、本当に、本当に、美味しかったのを覚えています。お腹いっぱいになってベッドに飛び込んで、ああ、こういうことなんだね、と私はなんとなく気が付きました。
そして、はしたなく、声を上げて、泣き叫びました。
自分を、自分の欲を、自分で満たす幸せ。それを、私は数か月、もしくは何年・何十年も、失っていたのかもしれません。

2.社会的な私(社会人)と、本能的な私(推定3歳児)

もしかしたら心理学的にはもっと適切な表現や分析方法があるかもしれませんが、私は自分が陥った現象を、このように捉えました。

私の中には2種類の「私」がいる。
ひとりは、理性的で、社会的で、規範的な私。仮に「社会人ちゃん」と呼びます。周囲からの評価や、見られ方をとても気にする人格です。
もうひとりは、本能的で、根源的で、わがままな、こどものような「私」です。仮に「3歳児ちゃん」と呼びます。この子はTPOをわきまえません。眠たい、痛い、欲しい、といった欲に関わる声を発する人格です。

誰しも、とても大切な会議中に「アイス食べたい…」などという全く関係ない欲がぶわっと溢れてくる時がると思います。それは3歳児ちゃんの仕業です。「早く帰りたい」「コレやりたくない」「ねむい」など。社会的規範にのっとって生きている社会人ちゃんは、3歳児ちゃんの求めることにすべて応えることはできません。逆に、企画書を仕上げたいのに「遊びたい」「眠たい」なんて、邪魔でしかありません。

なので、社会人ちゃんは、3歳児ちゃんの声を無視し始めます。無視し続けると、段々3歳児ちゃんの声は聞こえなくなっていきます。3歳児ちゃんの声=本能や欲。自分の好き・嫌いなどの感情や欲を、無視していくことになるのです。

自分の本能がわからなくなると、体の声も段々と聞こえなくなってくる。体の声が聞こえなくなると、体の不調がわからなくなる。社会人ちゃんは気づかない。体が限界を訴えるまで動き続けてはじめて、3歳児ちゃんが悲鳴を上げていたことに気が付く。あの時に、私がぽろりと呟いた「眠りたい」という言葉は、3歳児ちゃんの悲鳴だったのでしょう。

休み始めても、すぐには3歳児ちゃんの声は聞こえません。あまりにも無視し続けたから。なので、身体症状にただただ従いました。眠って、食べて、時に泣きわめいて。そうすると、少しずつ、3歳児ちゃんの声が聞こえていきます。
仕事着以外の服を買いたいな、髪を素敵に切りたいな、一日中YouTubeを見たいな、ひとりでずっとお布団にくるまってゲームをしたいな、友達のあの子に会いたいな、夜にお散歩がしたいな、理由もなく泣きたいな。そういう3歳児ちゃんの要望に付き合っているうちに、体の不調は治ってきて、自分がどんな人間だったか、思い出しはじめました。
何が好きで何がしたいのか。何が嫌いで何がしたくないのか。

3.「弱さ」を見捨てずに生きる、生存戦略

私は彼女の声を、存在を、自分の「弱さ」として切り捨ててきたことに気づきました。何かに立ち向かわなければならなかったとき、彼女は真っ先に悲鳴を上げて逃げ出そうとしたから、私にとって彼女は邪魔でしかありませんでした。私とって彼女は情けない、乗り越えなきゃいけない存在だと、ずっと思っていました。

けれど、彼女は私が私であるために必要な存在だったんだと、すべての「好き」も「嫌い」も失って、愚かな私は気づきました。

仕事は好き。けれど本当は人と競い合うのも、人の目を気にするのも嫌いで、逃げ出したかったことにも、気が付きました。
あぁ、やっぱりこの世界は、私にとっては生きづらい。けれど私はこの世界に生れ落ちてしまったのだから、この生きづらい世界で、生きていくしかないのです。

なので、私は社会的に生きていくために強く、立ち向かう私も、本能的に根源的に、私を守ろうとしてくれる私も、どちらも大切にすると決めました。
3歳児ちゃんな「私」、怖いときに怖いと、嫌な時に嫌と言ってくれてありがとう。もっと君の声を聞かせて。もう無視したりしないから。私の「好き」も「嫌い」も、大切にしながら、生きていくね。
社会人ちゃんな「私」、3歳児ちゃんを、構ってあげてください。あなたにとって不都合で、やりづらいかもしれないけれど、あなたが存在するためにも、彼女は必要だから。

そうやって私は、「社会的規範」と「本能的欲求」、「強さ」と「弱さ」どちらのわがままも聞きながら生きることにしました。
それが、私の「生存戦略」のひとつです。

自分の「好き」も「嫌い」も失って、見えなくなっている人へ。
あなたはそれらを、自分の「弱さ」として、切り捨てて生きていませんか。それはあなたがあなたであるために大切な一部かもしれません。
どうか、切り捨てたものがあったら一度拾い上げて、向き合う時間をとってみてください。

これが誰かの人生の生きづらさを少しでも緩和するヒントになりますように。


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