生きていく上で楽なカードを切れない。人より苦労すべき人間と思っていた私が最強の武器「自信」を手に入れた話。
「自分は人より苦労しないといけない」。
そんな思い込みとも、もはや病とも呼べるものを長いこと患っていました。
あなたや、あなたの周りにもいませんか?
楽ができない人。サボれない人。人に頼らない人。切れば楽なカードを、切りたがらない人。
イージーとハードがあれば、ハードモードを選んでしまう人。
もしくは、その逆。
楽をしていること、サボっていること、切れば楽なカードを切っていることに自覚的で、イージーとハードがあればイージーを選ぶ。
そんな自分を、弱い人間だと、嫌悪する人。
今ならば、イージーを選ぶことの何が悪いの、と私は言えるようになりましたが、思春期を終えて、社会人になって数年間は、私はイージーを選ぶことに恐ろしさすら覚えていました。
今日はそんなことを、つづらせてください。
1. 私は「ズルい」
イージーを選んだら、ろくな大人になれない。
そんな呪縛を、自分自身にかけていた。なぜだろう?
答えは明確で、私は自分のことをおこがましくも『恵まれて』育った『苦労しらず』と思っていたからです。自分から『努力して手に入れた』ものなんて何一つないと思っていたからです。
私の実家は、特にどっかの社長令嬢とか、資産家とかではない、ただの中流の一般家庭です。
けれど、祖父が物知りで社交的な方で、いわゆる「地元の名士」。小さな村社会ではそこそこ有名人でした。そして、勝手に息子のために、結婚が決まるとともに日本家屋の豪華な家を建ててしまって、我が家は3人家族には広すぎる家に、ローンもなく住んでいました。
そして父が何度も海外転勤をすることで、海外転勤手当が出て、幸い子どもは私一人。お金の苦労はしたことはほとんどありませんでした。
その代わりに、海外に放り込まれるという「ハードモード」を経験したはずなのに、帰国すれば「無料で英語が喋れるようになってラッキーね」なんて言う大人に何人も会いました。
いいわねぇ、おじいさまが建てた大きいお家に住んで。
お母様は、いわゆる駐在妻ってやつでしょう、お手当もらって専業主婦。
娘さんは英語が話せるようになって、本当恵まれているわね。
にこにこと、褒めるように言う大人たちの目の奥にあった真実の感情を、私は子供ながらに察しました。
(あなたたちはズルい。もっと、苦労すべきよ)
大人から向けられるそんな感情が「真実」なのか「嫉妬」なのかの判別もつかなかった私は、槍のように投げかけられるそんな言葉たちに、まだ柔い心臓を射抜かれました。
(そっか、私は「ズルい」のか)
地元の中学に一瞬いた時にも、私はたくさん「ズルい」という言葉をかけられました。英語が話せてズルい。両親が二人そろっていてズルい。豪邸に住んでいてズルい。勉強してないくせに成績がよくてズルい。
勉強に関しては、英語が100点のため平均点をガン上げしてくれているだけで全体はまぁまぁだったのですが、かけられる言葉すべて、「ズルい」と言われたら、そうなのかもな、と私は思いました。
だって、どれも私が望んで、努力して手に入れたものではないのですから。
英語は唯一、自分が努力して手に入れたものだったかもしれませんが、その機会だって、自分から取りに行ったわけではない。しかも、「生きるため」に必要だったから手に入れたものを、努力した、と私は思えませんでした。
だって、あなたは生きるために自分の両足で立てるようになったこと、歩けるようになったことを、「努力した」と言えますか?
歩けるようになることと、英語を話せるようになることは、当時の私にとって同等に生きるために必要なもののひとつと思っていました。それを「努力した」と胸を張ることには、違和感がありました。
私は何も「努力」せずに生きてきた。「苦労」をせずに生きてきた。
だから私は、自分のことを「苦労知らずのロクデナシ予備軍」だと思いこむようになりました。
2. 楽なカードを切らなければ、まともな人間になれるはずだ
人より「苦労」しなきゃろくな人間になれない。
そう思い込んで、切れるはずのカードである「英語」を封印して大学受験し、入学後は第一外国語として「ドイツ語」を選択しました。
部活は、弓道部を選びました。実は中学高校で、日本の集団行動や、上下関係を学ぶために弓道をやっていたのですが、へたくそすぎて3年生になっても唯一大会に出ることなく卒業をした落ちこぼれでした。できれば避けたい武道の一つでしたが、だからこそ私は弓道で努力しなきゃ、と思い入部をしました。
私は英語を使って楽なんてしない。苦手なものから逃げたりしない。
これまでしていなかった「努力」を、私はして、まともな人間になる。
そう決めこんで、就職時も学歴や英語スキルというカードを切らずに、ベンチャー企業に入りました。
英語なんて一切使わない、むしろ母がデザイナーだったからこそ避けていたクリエイティブ系の会社に入って、自分がいかにデザインやクリエイティブから目をそらしてきたかをまざまざと見せつけられる苦しみに耐え続けました。
クライアントから怒鳴られ、給湯室で体を洗って、乾かない長い髪を切って、椅子を並べて徹夜して、実家にもほとんど帰らず、荷物で送られるような仕送りすら一切断って、自分で稼いだお金だけで生活をしました。
それでも、満たされない。
「お前はまだまだ苦労をしらない」「お前はまだまだ逃げている」と後ろ指をさされるのです。私の想像の中の「誰か」から。
3. 結局、自分を否定するのも肯定するのも、自分でしかない
周囲から言われる「頑張りすぎだ」「休んだほうがいい」という言葉すら、気休めやお世辞だとしか思えませんでした。
中には本当に心配して、労基に電話をする、と言う友人もいましたが、こんなの、どの会社も同じだよ、と私はへらへらしていました。
けれど、ついに身体が追い付かなくなり、休職して退職。
私は動かない身体をベッドに横たえながら、努力しきれなかった自分を恥じて泣き続けました。
私はやっぱり弱くてダメな人間で、努力できない。ロクデナシだ。
生きていてごめんなさい。ごめんなさい。
泣いて泣いて、しばらくの間、毎日涙でいっぱいの日を過ごして、ある晴れた日の朝、カーテンを開けた時に、朝日とともに、ふと天啓のように、自分に対して全く違う光が当たりました。
そういえば英語にどっぷり浸かった3年間を過ごしたのに、私は日本語が上手だ。
そして中学校2年生で帰国したのに、いまだに私は英語が話せるし書けるし、いわゆる「こども英語」ではない「大人の話す英語」を扱える。
そもそも帰国子女の中には、英語が全く話せないまま、もしくは日本語が英語とごちゃごちゃになってしまう子たちが多くいる中で、私は両方をネイティブ的にわけて使うことができている。
哲学科に入って、私は哲学的なものの考え方ができるようになって、論理的に物事を整理できるようになった。
クリエイティブ系の仕事に入って、その論理的に整理したものを、論文以外で、例えば図解にすることができるようになった。
仕事で徹夜した次の日でも、困っている人がいたら休むことなくその人を手伝った。例えお礼を言われることがなくても、会社の業績に繋がればいいと思って、当然のことだと思ってやっていた。
なんだ、私、十分、努力しているじゃないか。
私、十分、苦労を乗り越えて、強くなったじゃないか。
強すぎるほどの朝日に照らされながら、私はふと、自分の中からエネルギーが沸くのを感じました。
「お前はまだまだ苦労をしらない」「お前はまだまだ逃げている」。
私が満たされることを許さない心の中の「誰か」の声は、まだ聞こえていましたが、身体を休めて、脳みそを休めて、私は何にも負けないエネルギーを、武器を手に入れました。
「自信」という、最強の武器です。
結局は、周りが何を言おうと、すべて「私は私」と流せる強さがあったら、私はこんなにも長年、呪いがかかったように自分を追い込むことなどなかったのでしょう。
その自信のなさは、きっといろいろな理由によって生まれてしまったのだと思いますが、自信というものは、後天的に手に入れられるものなんだ、と知りました。
根拠なき「自信」はまだまだ手に入れられないけれど、少なくとも私は、経験に裏付けられた「自信」は手に入れました。
幼少期に孤独に耐えて海外の学校に通い続けて英語を手に入れたこと、日本語も勉強して日本で過ごした人と変わらないレベルで扱えること、頭のいい人に囲まれて吐きそうになりながら哲学の勉強をし続けたこと、どれだけしんどくても案件から逃げずに仕事をしたこと。
それを否定できる人間は、誰もいない。
私はそれらを、誇りに思います。それが私を支える「自信」です。
*
老婆心からお伝えしたいのですが、成長したいから、ハードモードを選ぶのは、挑戦的だけれどポジティブな未来が見えるならば応援します。
しかし、何かを選択する際に「こっちの方が、より苦労しそうだから」という理由だけで、ハードモードを選択するのはやめたほうがいい。
成長しなきゃいけないから、と義務的な理由で、本当は心が「いやだ」と叫んでいるのに、その感情にうそをついて「やりたいことだから!」と口を笑顔の形に歪めて足を踏み入れるのは、危険です。自分を失います。自我を壊されます。身体もボロボロになります。
取り返しのつかないことになることだってある。
これまでの人生で、「苦労」してこなかった人間なんていないはずです。生きていればみんな何かしら、苦しい思いをする。
それを乗り越えて今、生きているのであれば、あなたはそれを誇っていい。「自信」にしてよいと、思うのです。
でも、幸せになるために挑戦が必要なら、それを心も頭も本気で望むなら、切れるカード全部使って、挑んでください。躊躇なく、カードを切って、全力で進んでください。
そんなあなたも、私は素敵だと思います。