「生きたい」を失くした話
こんにちは。かしんです。
今回は、うつ病で全く動けなくなった頃から徐々に変化があった頃の話。
うつ病の一番症状が重く現れた時は「生きたい」と言う根幹の気持ちがなくなったような感じでした。泥のように寝ていることしかできない、何もしたくない。そんな日々。
その後、じっくり時間をかけながら、心情がどう変化したのか。
よろしければご覧ください。
失ってみて初めて気づく「生きたい」の存在
うつ病で倒れるまで、わたしは「生きたい」という欲求をわざわざ認識することがなかったように思います。
「もっと良い○○になりたい」とか「もっと○○な生活をしたい」とか、それこそ「幸せになりたい」とか、そういう欲は感じたことがありました。
ですが「生きたい」は失くすまで気づかない存在でした。
あって当たり前と思っていたのかもしれません。
周囲の善意すら辛い
「もっと自分のこと考えなきゃだめだよ」
「転職したっていいんだよ」
「あなた自身が本当にしたいことは何?あなたはどうなりたいの?」とか。
良かれと思って熱心に声をかけてくれる人も周囲には居て、でもそれも負担にもなっていたことも事実でした。
今思い返すと、当時のわたしは何か考えたり判断することはすでに難しく、「今、何か言われても、それどころではない」という状態だったのです。
その言葉が善意から来ていることはわかるからこそ、余計に辛かった記憶があります。
とにかく休む一択
結局「何かする」のはとても無理で今は休むしかないと、寝込むだけ日々を過ごします。
明かりを見るのもつらく、光を避けるように毛布を被りながら「あーもう今後はこんな毎日しか過ごせないんだな」と考えていました。
小さな「○○してみたい」集め
かなりの時間が経ってから、変化が現れます。
ちょっと陽に当たるとか、
徒歩で10分だけ外を歩いてみるとか、
そんなチャレンジができるようになっていきました。
(とは言え、体調は不安定。
洗顔や着替えまでは出来たものの、外に出られず終わる日も多々ありました。)
そんな小さいなトライアルを積み重ねて
「じゃあ今度はお店を見てみたい。駅前までみよう」とか
「カフェでお茶を飲んでみたい。1人で飲食店は不安だけど、行ってみよう、過ごしてみよう」
と、小さな「○○したい」の気持ちを集めてゆっくり進んで行きました。
このようにテキストに起こすと、一見ポジティブで治療経過も順調そうに見えるかもしれませんが、正直怖かったです。
「こんな小さな出来ごとで一喜一憂している自分。もう、とても“普通の“社会的生活には馴染めないんだろうな」と。
それでも、今と向き合っていく
前はバイタリティの塊のような人間だったのに、
前はマルチタスクで幾つもの事柄を並行してできていた人間なのに、
など、過去の自分と現状を比較して悲観したくなる気持ちはやはりありました。
でも、そこは堪えて、とにかく今の自分を受け入れて褒める、褒める、褒めまくる。
「昨日より活動できた、すごい!」
「文字が書けた、すごい!」
「今日はなんと3行日記が書けた、すごい!」
「お皿洗えた、すごい!もう偉業!最高!」
すごい、すごいのオンパレード。
だって一度は「生きたい」がなくて何もかもできなかったのだから。
そうだ、そうだ。
わたし生きているだけですごい。
そう思うしかなかったけれど、継続していくと「ちょっとずつだけど本当にできることが増えているかも」と徐々に実感が湧いてきます。
気づくと「生きたい」のカケラ。それは新しい生き方かも
そんな日々を重ねて、じわじわと気付きます。
自分の中にまた「生きたい」という欲求が存在しているかも。
その頃には様々は気づきを経ていたためか「以前の自分に戻りたい」という感覚はもはやありませんでした。
ゼロベースのわたし。
何もないところからのスタートなら、新しい生き方でもいいのかもな。
そんなふうに思っています。
きっと大丈夫、きっと大丈夫と唱えながら。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今後も、「自分とうまく付き合いながら心地良く生きる」をテーマにnoteを書いていきたいと思います!
例えば「新しい生き方に出会うためにとっている行動」のことなども!(最近まったく未知の領域、「NFTとは何?」を知りに新しい扉を開けております👏)
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