第6回 音楽という記憶装置 植民地支配の傷としてのトラウマ|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達
労働運動の時代、反乱の連鎖
西洋帝国に正面から立ち向かい、カリブ海の人々がハイチ革命やモラント・ベイの叛乱を通して剝き出しにした抵抗的精神は、1930–40年代の英語圏カリブ海においていわゆる「抗議の嵐」(hurricane of protest)へと繋がった。大英帝国による植民地支配への反乱が、1934年5月から7月にかけてトリニダードの砂糖プランテーションで、1935年1月にセント・キッツで、1935年5月にジャマイカで、1935年9月と10月にガイアナの砂糖プランテーションで、1935年10月にセント・ヴィンセントで、1937年6月に再びトリニダードで、1937年7月にバルバドスで、そして1939年2月にガイアナで連鎖的に発生した。こうしてカリブ海は、その歴史に「労働運動の時代」として刻まれることになる激動の時代へと突入していった。
名著『貧しい人々と力なき人々』において、ガイアナ人経済学者クライヴ・トーマスは、それぞれの島に特有の事情があったことは間違いないとしつつも、1930–40年代にカリブ海地域で反乱の連鎖が発生したことに対し、共通する根本的な原因がいくつもあったと述べる。まず最も大きな原因は、1929年に起こった世界大恐慌によって植民地経済が丸ごと崩壊したことである。世界経済の急激な変動を目の前にして、カリブ海で長い間奴隷制によって営まれていたモノカルチャー経済が、その致命的な脆弱性を露呈したのだ。労働者階級の間では、西洋が欲望のままに実施するプランテーション経営による長年の搾取への怨嗟が積み重なっていた。その一方で、肌の色の違いに応じた社会的分断に基づく富の不平等が世界大恐慌の煽りによってさらに拡大し、実質所得の低下や失業、生活水準の悪化が発生したことにより、彼らの不満がさらに大きくなっていった。植民地当局は、社会福祉制度が不十分であり機能していなかったため、彼らに対応することはできなかった。その結果、労働者たちの間で政治的意識が高まり、彼らは政治的組織化によって賃金と労働条件の改善を求める労働運動を繰り広げた。その運動は自治を求める民族主義的感情の高まり、そして海外で学び帰郷した人々によるリーダーシップへの期待の高まりによってさらに加速され、他地域に伝播しながら大きくなっていったのである[*1]。
特に1930–40年代のトリニダード・トバゴは、この政治的闘争において、植民地主義、奴隷制、年季奉公制を通して人々が経験してきた様々な人種と文化の混淆、すなわちクレオライゼーションが実を結ぶ貴重な歴史の舞台となった。イギリスの退役軍人アーサー・アンドリュー・シプリアニが、1924年にトリニダード労働者協会(TWA: Trinidad Workingmen’s Association)を設立する。その翌年には初めての選挙があり(とはいえ選挙権は、財産を所有し高収入を得ている者に限られていた)、シプリアニが立法評議会に選出された。彼はその後1934年に、トリニダード労働者協会をトリニダード最初の政党であるトリニダード労働党(TLP: Trinidad Labour Party)に改編した。シプリアニとも親しくしていたインド系弁護士エイドリアン・コーラ・リエンツィは、同年に袂を分かち、グレナダ生まれのスピリチュアル・バプティストのアフリカ系伝道師テューバル・ユライア・バトラーとともにトリニダード市民連盟(TCL: Trinidad Citizens League)を結成した。バトラーは1936年に自らの政党である大英帝国労働者市民自治党(BEW&CHRP: British Empire Workers and Citizens Home Rule Party)を結成し、1937年にはトリニダード南部のフォレスト・リザーブにあるトリニダード・リースホールドで石油労働者のストライキを組織した。この1937年の運動は、トリニダード人歴史学者セルウィン・ライアンが「西インド諸島全体の憲法や社会経済の変化のペースを加速させる効果があった」と述べるように、カリブ海の他の島々も巻き込み、大きな政治闘争へと発展していった[*2]。そのため、ライアンはこう述べる。「1937年は、おそらく植民地の歴史の中で最も決定的な分水嶺となった年である。この年は、劇的なゼネストを経て、黒人とインド人が政治的リーダーシップと主導権を握った年であり、それは英国の植民地政策の根本的な変化の始まりを告げるものであった。[……]。それは、旧植民地制度の存続を事実上不可能にしたのである[*3]」。このように1930–40年代は、トリニダードにとってヨーロッパ、アフリカ、アジア由来の人物たちが入り乱れながら政治闘争に関わっていった時代であり、カリブ海の政治的発展においても重要な歴史的チャプターであった。
しかし、こうしてカリブ海が脱植民地化への歩みを進めようとしている中で、ある厄介な記憶にかんする問題が浮上してくる。アルジェリア独立戦争に従事し、多くの患者を診てきたファノンは、『地に呪われたる者』でこのように述べている。「実を言えば、植民地化はその本質において、すでに精神病院の大いなる供給者としてあらわれていたのだ[*4]」。フランスのリヨン大学で精神医学を専攻し、精神科医として(己自身も含めて)植民地主義によって苦しめられる人々に寄り添うファノンは、植民地主義がその犠牲者の肉体のみならず精神にも「消し去ることのできぬ傷」を負わせることに警鐘を鳴らす。「そしてわれわれは、うち寄せる植民地主義の波をわが諸民族に負わせた多くの傷、ときには消し去ることのできぬ傷を、なお幾年間も手当しつづけねばならないだろう[*5]」。脱植民地化へ向かいながら、カリブ海の人々は、植民地支配の「消し去ることのできぬ傷」として自身に刻まれた記憶ならぬ記憶、すなわちトラウマとの「諍い」に従事しなければならない。というのも、ファノンが言うように、「非植民地化は絶対に人目につかずにはすまされない。それが存在にかかわり、存在に根本的な変更を加えるからだ。[……]。植民地化されて『物』となった原住民が、自らを解放する過程そのものにおいて人間となるのであるから[*6]」。
カリブ海作家たちによる記憶の詩学は、アフリカ哲学・カリブ海哲学研究者パジェット・ヘンリーが『キャリバンの理性』で述べるように、「植民地化のトラウマに対する総体的なカリブ海的反応」(the total Caribbean response to the trauma of colonization)を描いている[*7]。彼らは、自身の想像性をもって作り出す物語において、カリブ海の人々の「植民地化のトラウマとその実存的逸脱を創造的に肯定することで回復させる[*8]」。1930–40年代の脱植民地化へ向けた労働運動が活発化し、自治へ、そして独立へと進んでゆく時代に、植民地支配によって刻まれた「消し去ることのできぬ傷」と、カリブ海の人々はどのように向き合い、乗り越えようとしたのか。カリブ海作家たちは、植民地支配が引き起こしたトラウマに対する「カリブ海的反応」を、その創造的アプローチで語る。
植民地支配を語れないトラウマ理論
トラウマ理論は、1990年代に欧米アカデミアの人文科学研究において、理論家たちが社会学、心理学、精神医学系の分野で得られた見地を人文学に取り入れ、その新たな転回へと活かしたことにより発展した。1991年、研究ジャーナル『アメリカン・イマーゴ』が「精神分析・文化・トラウマ」と題した特集を掲載した。その特集において、ショシャナ・フェルマンやハロルド・ブルームといったいわゆる脱構築で知られる「イェール学派」と関係の深い寄稿者たちが、精神医学の概念であったトラウマなるものを、人文学の領域に持ち込んだのである。彼らによってトラウマという概念は、シグムント・フロイトによる精神分析的知見から、イマニュエル・カント、ジャック・ラカン、ジャン=フランソワ・リオタール、ポール・ド・マンといった哲学者たちによる様々な概念へと接続された。そしてその結果、「表象不可能性」や「非主体性」、「根源的な不在」といったトラウマ的経験の表象の特徴が認識されるようになった。こうして、トラウマ理論を用いた文学研究は流行を迎えたのである。
特にトラウマ理論のパイオニアとして知られているのが、『アメリカン・イマーゴ』特集号の編集を務めたキャシー・カルースだろう。彼女は1996年に『トラウマ・歴史・物語——持ち主なき出来事』というトラウマ理論研究の金字塔を上梓し、トラウマ理論の流行の中心的存在となった。彼女はフロイトによる精神分析学に依拠して、表象の可能性を完全に断ち切るような極端な破壊的経験をモデルとしたトラウマ理論を打ち立てた。「最も一般的な定義では、トラウマとは、突然の破壊的出来事を経験して圧倒された状況を指す。トラウマ状態に陥ると、たいていの場合、問題の出来事に対する反応は後になってから現われ、その症状として、幻覚やその他の現象が繰り返し人の精神に割り込んできて、本人には制御できなくなる[*9]」。そのような出来事の経験は、「時間、自我、世界に対する心的体験の中に生じた亀裂であり、あまりに早く、あまりに突然に体験してしまったので、何が起こったかを十分に認識することができず、それゆえに、意識に上ってこないものである[*10]」。このように言葉にすることもできない心の傷であるトラウマという現象は、カルースいわく「外に向けて叫び声を発する場であり、それ以外の方法では伝えることのできない現象や真実をわれわれに語ろうとする試みそのものであると言えよう[*11]」。
しかし、このようなトラウマ理論は2000年代に入るとポストコロニアルの観点から批判を浴びることになる。たとえば英文学者のステフ・クラップスは、カルースによるトラウマ理論では非西洋人が他者的存在として軽視され、彼らのトラウマが西洋中心的な議論に搾取されてしまう傾向にあることを厳しく批判する。「私にとって気にかかるのは、非ヨーロッパ人という他者に加えられた暴力を、その暴力に責任のあるヨーロッパ人という主体が受けたモデル的なトラウマを探求するための単なる機会に変えてしまうその傾向だ[*12]」。カルースは『トラウマ・歴史・物語』の序文で、彼女が「傷の中から発せられた声」と呼ぶ倫理的な「呼びかけの声」について語る。「ここで聞かれた呼びかけの声を、自分の過去の出来事に繋がった個人の物語としてではなく、他者のトラウマに自分のトラウマが結びつけられる様子を表わした物語と読むこともできるのではないだろうか[*13]」。そしてカルースはその倫理的な呼びかけの声の実例を、フロイトによる読解を参照しながら、16世紀のイタリアの詩人トルクァート・タッソの叙事詩『エルサレム解放』における主人公タンクレーディ(キリスト教徒の男騎士)とその恋人クロリンダ(イスラム軍の女戦士)の関係の中に見出している。この物語においてタンクレーディは、戦場で敵方の騎士の甲冑を付けていたクロリンダをそれとは知らずに殺してしまう。そしてその後、偶然とはいえ、今度はクロリンダの魂を傷つけることになり、あなたのしたことを見よ、という亡き恋人の声を聞くことになる。しかし、クラップスにとって、カルースによる『エルサレム解放』分析は、タンクレーディをトラウマの主体的な経験者として認識しようとする反面、クロリンダが受けた傷を蔑ろにしてしまっている。「カルースのこのエピソードの読み方で私が問題だと思うのは、クロリンダの経験が、完全に黙殺されるわけではないにせよ、脇に追いやられていることだ[*14]」。トラウマという見えなくも生々しい傷から声を発する張本人はクロリンダであるにもかかわらず、カルースはタンクレーディをトラウマの主体的経験者としている。そしてその過程で、彼女はイスラム軍側のクロリンダを「自分の過去の『意図しない』トラウマ的出来事の記憶に取り憑かれた内部の他者」と表現してしまっているのである[*15]。こうしてクロリンダという非西洋の他者が負った傷は、西洋人という主体であるタンクレーディが受けたトラウマへと書き換えられてしまう。この書き換えを、クラップスは鋭く批判する。「このエピソードが、ヨーロッパの十字軍によるエチオピア人女性の殺害に関わるものであり、カルースが認識していないオリエンタリスト的な側面があることを考えると、彼女のこの物語の読み方は、トラウマ理論が非西洋的な他者の経験を認識することの難しさを物語っていると見ることができる[*16]」。
また『双方向的記憶』で知られる比較文学研究者マイケル・ロスバーグは、2008年に研究ジャーナル『スタディーズ・イン・ザ・ノベル』が組んだ特集号「ポストコロニアル・トラウマ小説」において、1990年代にカルースらが構築したトラウマ理論の言説としての西洋中心性を浮き彫りにしている。カルースは、『トラウマ・歴史・物語』の第2章でフランスの映画監督アラン・レネによる『ヒロシマ私の恋人』(『ヒロシマ・モナムール』とも呼ばれる)について論じ、それぞれ第二次世界大戦に関連した悲劇的体験を持つフランス人女優と日本人男性の間に見られる「呼びかけの声」を考察する。そして、「新しい見方、聞き方——トラウマという現場から見たり聞いたりする方法——は、この映画を見るわれわれの前にも開けている。この映画は大破壊の時代において、文化と文化とを結ぶ可能性を提示している」と述べる[*17]。このようにカルースは、トラウマ理論が異文化間の繋がりをもたらす貴重な可能性を内包していると主張するのだが、ロスバーグは、欧米のアカデミアを中心に発展を遂げたその言説が本当に間文化的になりえるのかと問う。「トラウマ研究は、ヨーロッパとアメリカ合衆国の歴史に焦点を当てる傾向があり、その中で、ナチスによるヨーロッパ・ユダヤ人の大量虐殺が重要な位置を占めてきた。このような狭い焦点は、[……]キャシー・カルースによって立派に語られた『トラウマそのものが、文化と文化の間の繋がりをもたらしてくれるのかもしれない』という可能性に疑問を投げかけている[*18]」。トラウマ理論はホロコーストを中心とする西洋が視認した出来事に焦点を当て、その視界の外で展開された奴隷制度や植民地での大量虐殺などの破壊的出来事を語らない[*19]。つまりトラウマ理論は、欧米の世界が自分たちのトラウマ的経験であると認める歴史ばかりに眼を向けているのだ。そのためロスバーグは、トラウマ理論が西洋中心的な価値観を再生産し続けてしまう可能性を指摘する。「トラウマ研究の対象が『白人的』であることに批判を集中させるより、こう言ったほうがいいのかもしれない。比較研究を放棄し、狭いヨーロッパ中心主義の枠組みに縛られたままである限り、トラウマ研究はそれが扱う(ホロコーストのような)歴史を歪め、それらの歴史の背後にあるヨーロッパ中心主義そのものを再生産する恐れがある、と[*20]」。
また『記憶をめぐる人文学』などで知られる文学研究者アン・ホワイトヘッドは、ロスバーグと同じく『スタディーズ・イン・ザ・ノベル』の特集号に寄稿し、「トラウマの言説を無批判に非西洋社会に輸出すること」に警告を促す[*21]。カルースらのトラウマ理論を「無批判に」非西洋へと当てはめることは、その言説が隠し持っている西洋中心的な価値観や視点をトロイの木馬のように輸出することであり、それは文化と文化の間に繋がりをもたらすどころか、非西洋を搾取する構造の再生産を引き起こすだけかもしれない。確かにカルースが述べるように、トラウマという現象は異質な歴史的経験の遭遇の場であり、異文化間の繋がりを形成するかもしれない。しかし、当の西洋帝国が当事者として加害を働いた植民地支配によって傷を負った非西洋社会が、その傷と向かい合って主体的に生み出すトラウマにまつわる言説を無視し、ひたすらド・マンやラカンなど欧米アカデミアで価値を認められた高尚な理論を駆使して語ることは、植民地支配によるトラウマの経験の思想的搾取とならないだろうか。ホワイトヘッドはこう指摘する。「ポストコロニアルのテクストの関心は、現代社会における植民地支配と暴力の後遺症が継続していることを明確にすることにあるため、トラウマという観点からの読解を促す。ポストコロニアル作家たちはしばしば、西洋社会と非西洋社会の出会いが依然としてトラウマ的なものであることを強調する。なぜなら、帝国が辿った過程と作り上げた制度によって現在が影響され、そして形成され続けているからだ。しかし、ポストコロニアルのテクストを解釈するためのトラウマというカテゴリーの利用は、西洋優位のアプローチを意味しているのかという疑問が生じる。そのアプローチは、必ずしもテクストそのものと関連性があるとは限らず、さらにテクストの様々な側面を沈黙させてしまうかもしれない[*22]」。ロスバーグとホワイトヘッドに従えば、その狭い西洋中心性から抜け出てポストコロニアリズムのようなより開けた言説と融合しないことには、トラウマ理論は間文化的どころか西洋中心主義的なままであり続けてしまうかもしれないということだ。
トラウマ理論を非西洋の作家の作品へと応用する際には、ホワイトヘッドによる「ポストコロニアルのテクストは、個人の自己という観点からトラウマの影響を表現しているのか、それとも自己の代わりとなる概念とそれが持つより広い共同体との関係を強調しているのか」という問いを考慮することは極めて重要である。というのも、カルースが自身の理論の礎としているフロイトによる分析では、個人レベルでの「特定の体験」がそのトラウマの原風景となるからだ。『黒い皮膚・白い仮面』において、ファノンは患者の記憶は無意識のなかに押し込められ、抑圧されている破壊的出来事の記憶が顕在化するように回帰するというフロイトの議論を引用し、このように解釈する。「神経症の発端には特定の体験(Erlebnis)があるのだ。[……]。これらの体験は無意識のなかに抑圧されているというわけだ[*23]」。しかしながら、その議論をそのまま「無批判に」植民地支配、そして奴隷制によって負った傷を持つ人々に応用することはできるのだろうか。ファノンは問う。「黒人の場合はどうだろうか?[*24]」
この観点からファノンは、個人レベルでの「特定の体験」を強調するフロイトの精神分析学だけでは対処することができない黒人のトラウマ経験には、「社会発生学的」アプローチが必要であると語る。「十九世紀末の体質論的傾向に反撥して、フロイトは、精神分析学をとおして、個人的ファクターを考慮に入れることを強調した。系統発生学的なテーゼを、彼は固体発生学的視角によって置きかえた。黒人の疎外が個人の問題でないことは明らかであろう。系統発生学と固体発生学とならんで社会発生学がある。[……]ここでは、社会診断学が問題なのだ、と言ってもよい[*25]」。つまり、西洋帝国による植民地支配の暴力が与えたトラウマ的経験を持つ社会にとっては、フロイトが語っていた「反復強迫」のように個人の夢や妄想の中でだけその記憶が回帰するわけではないということである。むしろ、植民地支配や奴隷制は今もなお後遺症としてその社会の構造や政治的状況を決定し続け、直接植民地支配を経験したわけではない子孫の前にも姿を見せる。そのような「植民地支配の傷」を西洋中心的なトラウマ理論の範疇で語ることは、クラップスが言うようにその傷を思想的に利用するだけになってしまうかもしれない[*26]。
西洋由来のトラウマ理論では、(そもそも彼らが当事者として引き起こした)植民地支配によるトラウマという問題を十分に語ることはできない。ファノンに言わせてみれば、それは植民地支配の被害者たちが取り組んでいる脱植民地化の一次元のみしか対象にすることができないのだ。「黒人は二つの次元で戦闘を行わなければならない。歴史的にこの二つの次元は互いに条件づけ合っているので、一次元だけの解放はすべて不完全なものとなる[*27]」。植民地支配のトラウマは、個人的体験だけではなく社会発生学的な観点でも捉えられなければならない。カリブ海におけるトラウマという問題も、社会的で集団的な次元の記憶の問題なのである。
記憶のエンコード——フォノグラフ的記憶
『フォノグラフ的記憶——大衆音楽と現代カリブ海文学』において、カリブ海文学研究者のンジェール・ハミルトンは、カリブ海の記憶の問題に取り組むにあたって、音楽という観点から、「フォノグラフ的記憶」という理論を展開している。「『フォノグラフ的記憶』は、音楽的美学へ地域全体が行ってきた投資の理論化において、周縁化された記憶や声を記録し、響かせるための倫理的な物語モデルを現代の小説家に提供する上で、カリブ海諸国の音楽が引き続き重要であると断言する[*28]」。「フォノグラフ」(Phonograph)は、アメリカの発明家トーマス・エジソンが、自身が所長を務めるメンロパーク研究所において完成させた蓄音機に付けられた名前である。ギリシア語で「音声」を意味する「フォネー」と「書く」を意味する「グラフェー」を合成したこの造語は、すなわち「音声を書くこと」を意味している。この言葉を、ハミルトンはこのように解釈する。「私たちはしばしば、録音された音楽を文字技術としてではなく純粋な音として考えるが、フォノグラフという言葉は 『音声の文字』を意味する。グラモフォン、グラフォフォン、フォトグラフ、そしてフォノトグラフという言葉はすべて、自分たちが確かに音声を文字化しているのだと発明者たちが信じていたことを示している[*29]」。
「フォノグラフ的記憶」においてこの「音声を書くこと」と引き合わされる「記憶」の意味を、ハミルトンはカリブ海思想から引き出す。「カリブ海の記憶論では、個々の主体を通して説明される場合であっても、集合的記憶と歴史との諍いに焦点が当てられることが多く、自伝的記憶も文化的記憶も、忘却と喪失という観点から枠取られている[*30]」。第1回で述べたように、この「歴史との諍い」を実践するためのカリブ海の創造的アプローチは、エドゥアール・グリッサンとデレック・ウォルコットによってそれぞれ「過去の預言的ヴィジョン」と「アダム的ヴィジョン」と表現されている。ハミルトンも彼らの「記憶論」に触れ、彼らにとって「記憶の場はまさに文化的生産の場なのである」と述べている[*31]。グリッサンによれば、中間の航路の経験は、カリブ海の人々が生きる時間にトラウマ的ショックに似た断絶をもたらした。この断絶によって、カリブ海の人々は過去を「剝奪」され、記憶は「一掃」されてしまった[*32]。しかしカリブ海作家たちの「過去の預言的ヴィジョン」は、その歴史の中で具体的な出来事の記録としては残らず、消去され、隠蔽されてきたカリブ海の人々の記憶を再認識する。またウォルコットによれば、カリブ海作家たちは、カリブ海におけるあらゆるものを新しく生まれ変わったものとして捉える「アダム的ヴィジョン」によって歴史を創作し直す。そうして描かれる記憶は「本物」ではなく、作り直された代替的記憶であり「枝」なのである[*33]。このふたりのカリブ海思想の巨人たちから知を借り、ハミルトンはカリブ海において、「記憶は取り戻されるのではなく、作り直される」ものであると説明する[*34]。
この「記憶の作り直し」を「音声を書く」ことによって行うのが、カリブ海アーティストである。ハミルトンいわく、「アーティストは不在となった記憶の代わりに記憶のアーカイブを創り出す[*35]」。彼らが想像性/創造性を通して行う記憶の作業とは、植民地支配によって破壊された歴史の断片を寄せ集め、そのバラバラの状態からカリブ海特有の記憶として再構築することである。「西洋の記憶研究における『事後性』や 『アナムネーシス(忘れられないこと)』といったモデルとは対照的に、カリブ海の記憶(Caribbean remembering)はしばしば初めのエンコード(initial encoding)が必要となり、それによってそれまで何もなかった場所に記憶が作られる[*36]」。つまり記憶の作り直しとは、歴史の断片を新たにエンコード(符号化)してゆくことなのである。このエンコード作業を、ハミルトンはレゲエやカリプソ、ソカやメレンゲといったカリブ海の音楽文化の反復的性質に見出す。「私は、音楽の反復的再生によって符号化され、そのきっかけが与えられる記憶をフォノグラフ的と定義する。このようにフォノグラフ的記憶とは、音楽を反復的に聴くことによって内在化し、スイッチの入る記憶作業のことを指す[*37]」。カリブ海地域の音楽の特徴的な反復的性質が、カリブ海の記憶を再構築し、エンコードする装置として機能しているということだ。カリブ海のアーティストは、その反復的性質を持った音楽で社会的・心理的文脈を「エンコード」し、歴史や時代の記憶を書き出すことによって人々の記憶の作業に「スイッチ」を入れるのである。
その記憶の作業の工程でエンコードされる歴史の断片は、カリブ海が植民地支配を通して経験してきたトラウマ的出来事の数々である。ハミルトンが言うように、「カリブ海の音楽文化の反復性は、トラウマによって劣化するどころかさらに強化される疑似技術的な記憶能力を可能にしている[*38]」。カリブ海の音楽は、カリブ海の集合的なトラウマ的記憶を反復的に書き出し、それに接近することを人々に可能にさせるのである。そのためカリブ海の記憶作業は、しばしば人々が歴史として認識できずにすでに忘れている経験、そして意識に現れないような出来事をエンコードすることを前提としている。たとえばそれは植民地以前の記憶、西洋人との遭遇の記憶、中間航路の記憶、奴隷制の記憶といったように、西洋による歴史記述には明確に残っていないものである。そのようにあまりにも破壊的であるがゆえに言語化もされず、「すでに忘却したこと、あるいは部分的に忘却したこと」となった歴史の断片を「修正すること」が、カリブ海のアーティストによる記憶の作業なのだ[*39]。
記憶の音楽的詩学——フーガ
カリブ海の音楽を通した記憶のエンコード作業を、カリブ海作家たちは自身の作品の中で再現している。これをハミルトンは、「環カリブ海地域の記憶の音楽的詩学」と呼ぶ[*40]。たとえばトリニダード人作家アール・ラヴレイスの小説は「小説」と「カリプソ」を掛け合わせた「ノベリプソ」と称されているし、ガーナ人詩人で批評家のクワミ・ドウズはジャマイカ人詩人リントン・クウェシ・ジョンソンらの詩作品に「レゲエ美学」の実践を見出している[*41]。カリブ海作家たちの「記憶の音楽的詩学」は、カリブ海の自然と土地から生み出されるリズムに乗せ、人々の記憶を描くのである。
「フーガ、断片と亀裂——草稿」において、トリニダード出身の詩人マーリーン・ノービス=フィリップは、カリプソが人々の記憶をいかにエンコードするかを語っている。カリプソには多様な文化的伝統が流れ込んでいるためその起源を特定することは容易ではない。その起源がどのようなものであれ、カリプソがトリニダード、そしてカリブ海の過去に由来していることは確かである。トリニダードは頻繁にその支配者が変わっていった島であり、最初にスペインが領有し、その次にイギリスが支配し、奴隷にされたアフリカ人が大量に送り込まれ、その過程でフランス領マルティニークやサン・ドミンゴ、グアドループ、そしてハイチから移民や亡命者が入り込み、そして奴隷解放令後に年季奉公労働者として多くのアジア人が流入した。カリプソはこのようにカリブ海が辿ってきたクレオライゼーションという経過を象徴する、非常に混合的な大衆文化である。イギリス植民地研究が専門の北原靖明は「カリプソの基本的性格は、西アフリカにルーツを持つ賞賛や嘲笑的バラードに由来することはほぼ間違いないと考えられている」と述べている[*42]。この「賞賛や嘲笑的バラード」は、西アフリカの「グリオ」と呼ばれる口承伝承者と関係が深いと言われている[*43]。グリオたちは部族の記録者・風刺家であり、その歴史や伝承を伝統楽器の調べにのせて語り伝える存在であった。グリオを通してアフリカの人々がプランテーションにおいてもその歴史や伝承を絶やさずに歌い続けたことで、彼らの文化が様々な文化と混ざり合い、その過程でカリプソが形成されていったと言えるだろう。
今日ではカリプソはトリニダード・トバゴの文化的伝統の礎となっている。西洋的価値観を内面化し、カリブ海を文化なき空虚な場所としてこき下ろしていたあのV・S・ナイポールさえも、「トリニダード人が現実に触れるのはカリプソの中だけである」と述べ、その文化的重要性を認識している[*44]。彼の弟で作家のシヴァ・ナイポールも、カリプソがなければトリニダードの社会はその歴史を記録し続けることができなかっただろうと語る。「トリニダードが世に送り出したものはあるのだ。トリニダードはカリプソとスティールバンドを送り出したのである。ふたつの紛れもなくオリジナルな創造物が、そもそも都会の貧しい黒人たちの間に根付いていた。それらは純粋にその島のものであり、それ以外のものを参照する必要はなかった。それゆえ、それらは教養ある裕福な人々からは拒絶され、疑惑と敵意をもって見られた。スティールバンドとカリプソは、大都会の文化からは認可を受けていなかったのである。劇場や文学を持たないトリニダードの生活を映し出すのは、幻想を切り裂くカリプソだった。その介入がなければ、多くのことが記録されず、気づかれることもなかっただろう。カリプソニアンは民衆のひとりであり、民衆の生活を記録したのである[*45]」。カリプソニアンは単なるエンターテイナーではなく、カリブ海の人々、特にトリニダードの人々が、自分たちの社会の厳しい現実に対する不満や苦悩を表現するパイプ役となり、そして古のグリオたちのように、民衆の記憶をエンコードするアーティストという重要な役割を担っているのだ。
ノービス=フィリップも、カリプソニアンたちが「自身の記憶の断片を即興で演奏しながら、断片から全体を紡いでいく」様を称賛する[*46]。そして彼女はカリプソが西洋によって粉々にされた歴史——「私たちの記憶の集合的な断片」——を拾い集め、「私たちの記憶の隙間を埋める」ことを可能にしていると語る[*47]。カリプソニアンは、自身のカリプソ作品の中に人々の記憶をエンコードする。だからこそ、「カリプソは覚えている」と言えるのである[*48]。
この記憶装置としてのカリプソがカリブ海のトラウマという問題とどのように関係するかについて語る際、ノービス=フィリップは「フーガ」という概念を用いる。「フーガ」は音楽の形式のひとつで、主題が次々と他の声部に模倣・反復されていくという対位法的でポリフォニー的な楽曲のことを示す。カリプソにも反復やコール・アンド・レスポンスというようにフーガ的な要素がある。そのようなポリフォニックな音楽としてのカリプソの側面を照らし出す一方で、ノービス=フィリップは「フーガ」の元々の「逃げる」という意味に注目し、そのもうひとつの意味をある心理状態に見出す。それが、「遁走状態」(fugue state)である。
遁走状態は実際に精神病理学の対象となっていた心理状態であり、ドイツの哲学者で精神科医のカール・ヤスパースは『精神病理学総論』において、同じくドイツの精神科医カール・ハイルブロンナーから引用しつつ、次のように解説している。「遁走状態というのは、かなり長く続く疾病の結果ではなく、突然に、多くは以前に引きつづいてあった精神状態と充分の了解的関連なしに現われる徘徊である。これは前以て定めた目的なしに無計画に企てられる。『遁走状態は大多数において、変質的素質の人間の、不機嫌状態への病的反応と解される。この不機嫌状態は突発性の不機嫌であることもあるが、又元来些細な外部的動機によって喚起されることもある。遁走の傾向が常習的となることがあり、そうするとますます些細な動機によって起るようになる』[*49]」。一方のノービス=フィリップは、遁走状態の定義をアメリカ文学研究者のロバート・ルドニキによる議論から導入している。『パーシスケープス——20世紀南部フィクションにおける遁走状態』という研究書において、ルドニキはこう述べている。「遁走状態にはあらかじめ決められた長さはなく、数時間から数ヶ月続くこともある。そして遁走はふたつの意味での逃避を意味する。ある意識の様式から別の様式への逃避と、新しいあるいは見慣れない場所への文字通りの逃避である[*50]」。
ノービス=フィリップは、この個人的な解離的心理状態というフーガを、カリブ海のトラウマという社会全体の問題へと接続する。「普段の生活から逃げることで、その人物は以前の生活を忘れて別のアイデンティティを採用する。多くの場合トラウマがその引き金となり、新しい人格は以前の人格との関連性を認識できなくなる。したがって遁走状態は、圧倒的なトラウマから精神と心理を保護する方法であり、個人が『普通に』生きることを可能にするものとみなすことができる。記憶喪失の状態であり、しばしば徘徊と関連し、『文字通りの意味でも比喩的な意味でもある』[*51]」。彼女によれば、ポリフォニックな音楽様式としてのフーガと解離的な心理状態としてのフーガは、カリブ海社会の混淆的性質とそこに蔓延する集団的トラウマを同時に反映しているのである。
つまりカリブ海社会は、様々な人種と文化が衝突しあい、混淆するポリフォニックな社会であると同時に、人々は植民地支配によって与えられた破壊的経験の記憶(トラウマ)から目を背け、遁走する解離的な社会でもあるということだ。
その社会で、人々は「圧倒的なトラウマ」から逃走する。そのような痛ましい記憶などなかったかのように忘却の奥に押し込み、普通の生活を演じる。しかし、「カリプソは覚えている」。カリプソニアンたちは、カリブ海の人々が植民地主義、奴隷制、そして年季奉公制という500年にもわたる壮絶な歴史の中で経験したものの記憶を、自分たちの作品の中にエンコードしてきた。彼らの歌はそれゆえカリブ海の記憶装置であり、人々にその集団的トラウマを乗り越える力を与える可能性を秘めている。「カリプソには、私たちが経験してきたこと、そして今も私たちを囲んでいる現実から逃避しているその遁走状態から、私たちを救い出してくれる可能性がある。カリプソニアンは、カリブ海の民衆の言葉、日常語あるいは民族言語を用いて、私たちの希望や夢を歌い、植民地支配者や現在の政治家たちの愚かさを批判してきた。彼らは私たちをからかいながら称えてきた。記憶しろ、と私たちに注意しながら[*53]」。ノービス=フィリップが言うように、カリブ海の人々の植民地支配によって負った傷(トラウマ)を癒し、「ポリフォニーを成長させる可能性を持っているのが、カリプソニアンなのだ[*54]」。
カリブ海のフーガとも言えるポリフォニックな要素を備えたカリプソは、人々が植民地支配による傷から逃走するのを助長するのではなく、その記憶をエンコードし歌い続ける。それにより彼らのトラウマを癒す可能性を、カリプソは持っているのだ。カリブ海作家たちは、カリプソニアンたちが迸らせるこの可能性を、自分たちの作品で文学的に再現し、カリブ海特有の「記憶の音楽的詩学」を実践しているのである。そこでは「抗議の嵐」が吹き荒れた激動の1930–40年代は、どのように描かれるのであろうか。
ローレンス・スコット、『ナイト・カリプソ』
トリニダード人作家ローレンス・スコットによる小説『ナイト・カリプソ』(Night Calypso)は、1930–40年代のトリニダード・トバゴのエル・カラコル(実際の名前はシャカシャカーレ)というハンセン病患者隔離施設のある島を舞台に、当時の政治的雰囲気を漂わせながらカリブ海のトラウマ問題を巡る、非常に重厚な物語である[*55]。序章は1983年、名前が明かされない男性が、精神科医との会話の中でエル・カラコルでの出来事を語り始める。その後時間は1938年に戻り、ハンセン病患者隔離施設に勤務する医者であるフランス系白人クレオールのヴィンセント・メティヴィエ、彼の活動を支え後にパートナーとなるユダヤ人修道女テレーズことマドレーヌ・ヴェイユ、インド系の薬剤師クリシュナ・シン、アフリカ系の船頭ヨナ・ルロイ、そしてハンセン病患者たちとフランス系修道女たちが経験してゆく心理的かつ政治的な葛藤が描かれる。ハミルトンによるインタビューで、スコットはこのように語っている。「[……]『ナイト・カリプソ』には、1930年代当時そのままの、インド系、アフリカ系、そしてフランス系クレオールの3人の革命指導者が登場します。私はこう思っています。『ナイト・カリプソ』において、私は1930年代の刺激的な出来事が再び起こり、独立がトリニダードにもたらした変化よりもっと根本的な変化をもたらすだろうという私自身の希望に取り組んでいたのだと[*56]」。この小説は、ヴィンセントにクレオールのシプリアニ(TLP設立者)、シンにインド系のリエンツィ(TCL設立者)、そしてヨナにアフリカ系のバトラー(BEW&CHRP設立者)の姿を投影することで、1930–40年代のトリニダード・トバゴの政治的瞬間を創造的に再現している。そしてその一方で、ハミルトンが述べるように、「トラウマを負い傷ついた登場人物に焦点を当て、カリブ海のポストコロニアル的状況を寓意化している[*57]」。政治とトラウマというまるで対位法のように並走するふたつのメロディーは、共鳴しながらひとつの大きな物語へと展開してゆく。
『ナイト・カリプソ』においてトラウマ的記憶は様々な形で現れる。テレーズの場合は、第二次世界大戦の最中、ヨーロッパに残る父の安否に対する不安、そして自分のユダヤ人としての名前とアイデンティティが露呈し迫害の対象となることへの恐怖が、肉体的にも精神的にも消えない傷となる。ティ=ジャンという少年を含んだハンセン病患者たちの場合は、治療法が大風子油(大風子という木の種からとった油)の注射に限られた劣悪な環境で生きることを強いられ、人間としての尊厳が奪われるという壮絶な経験がその意識に刻まれる。その中でもテオという背中に傷跡がある8歳の孤児の謎めいたトラウマ的記憶が、カリブ海の「記憶の音楽的詩学」を実践する本小説における大きなプロットとなる。ヴィンセントはこのテオという少年と同居し、その世話をすることになるのだが、そのきっかけは彼のもとに届いたロザリオ聖母修道院のドミニク・ルフェブルという神父からの手紙である。その手紙には、こう書かれていた。「あなたの治療に対する姿勢、そしてあなたがハンセン病療養所で子どもたちと接する様子に私は感銘を受けました。/今私たちはある少年を世話しています。この少年は、アンヘル・デ・ラ・バスティード神父が教区司祭を務めるミッションのひとつから1年前に来ました。ある問題があって、私たちはどうにかする用意ができていた。しかし、うまくいかなかったのです。その問題は日に日に悪化し、深刻な結果を招いています。/多くの理由から、私たちはこの少年を島から出す必要がある。金もないのです。そこで私は思ったのです。ああ、エル・カラコルのメティヴィエ医師、彼こそ適役じゃないかと[*58]」。ヴィンセントはそれに応じるのだった。
手紙を受け取って1週間後、ヴィンセントはテオを引き取りに修道院を訪れる。テオを紹介したドミニク神父は、ヴィンセントにこう告げる。「覚えておいてください、彼は口がきけないのです。何週かけても、彼から一言も引き出すことができませんでした。あらゆる策を試したのですが[*59]」。しかし、ヴィンセントは医者としての立場からテオに対する彼らの扱いの妥当性を疑い、こう考える。「原傷(the original wound)に気を向けた医者はいたのだろうか[*60]」。テオには悪魔が憑りついており、それを祓うことで彼が救われると考える修道院の面々とは異なり、ヴィンセントはテオがなぜ「原傷」を負うに至ったのかを理解するために、彼が辿った「歴史」を知らなければならないと主張する。「私が遭遇するのは悪魔ではないと思うんです。私は、このようなとんでもないほのめかし以外に原因があるはずだと感じています。[……]。この少年がどこで誰と育ったのか、歴史を知りたいと思います[*61]」。
こうして「口がきけない」少年テオを預かり、彼との共同生活を始めたヴィンセントは、すぐにテオの「問題」が何であるのかを知ることになる。夜、ヴィンセントはある声に目を覚ます。「どこに行けばいい? 自分が話したくない、というのはまずわかる。猫に舌を噛まれたような、魚の骨が喉に刺さったような。喉が詰まるんだ(I choking)。あなたがぞっとするのはわかる。私が自分の言葉に喉を詰まらせるのを見て、ぞっとするんだろう[*62]」。日中のテオの「喉が詰まる」という失語の状態は、言葉で表現することのできない彼のトラウマ的記憶が無意識の中に埋もれていることを示唆している。そして夜になると、眠った彼の口から不思議な声に乗ったトラウマ的記憶が吐き出される。その声は、少年から出ているとは思えないほど不思議なものだった。「それは時にもっと小さな子どもの声だった。しかしそれは峡谷ほど深い声だった。それは男の声を持つ女である子どもの声であり、時には非難するような声であった。[……]。彼は複数の舌で、大人の声で話しているのか?[*63]」それは祖先たちの集合的な声のようであり、それが運ぶ物語は集合的記憶のアーカイブなのである。こうしてテオが歌う「ナイト・カリプソ」は、ヴィンセントが彼の、そしてトリニダードの「歴史」に近づくための手掛かりとなるのである[*64]。
ヴィンセントが初めて聞いたテオのナイト・カリプソには、「ママ」という人物と「ミスター」と呼ばれる人物が現れた。この人々とテオはどのような関係だったのか、どのように影響を受けたのか、ヴィンセントは考える。「このドラマは何だったんだ? ヴィンセントは慄きながら聞いた。彼の母エメルダについてドミニク神父から聞いたが、彼は彼女のことを話しているのか? ミスターとは誰だ?[*65]」また別の夜に「海ほど強烈な複数の声」に目を覚ましたヴィンセントは、テオから聞こえてくるナイト・カリプソに耳を傾ける[*66]。このナイト・カリプソでテオは、シプリアニやバトラーに触れながらまたしても「ママ」と「ミスター」を登場させる。「あいつはイギリスに行って労働党のイデオロギーを持って帰ってきた、とミスターは言う。あいつは苦力やニガーと裸足で歩いているんだ。[……]。彼らは彼を狂人扱いしている。/彼らがバトラーを狂人扱いしているようにね[*67]」。シプリアニを狂人扱いし、自分たちとは異なる存在として距離をとっている様子から、「ミスター」は白人であることが伺える。ヴィンセントは、この夜のナイト・カリプソで当時の労働運動についてスラスラと語るテオに驚きながらも、この語りにはテオの「口がきけない」状態の原因となっているものが隠されていると感じる。「この物語を動かしているエンジンは、別の何かに燃料を供給されているんだ。なぜ彼は昼には無口で、夜には饒舌なんだ?[*68]」
それからしばらくはテオが夜な夜な語り始めることはなかった。だがある夜、トリニダードで地域的に「幽霊鳥」(The jumbie bird)と呼ばれ、不吉の象徴と見なされているアカスズメフクロウの鳴き声に目を覚ましたヴィンセントに、テオのナイト・カリプソが聞こえてきた[*69]。「ママ、エメルダ。[……]彼女も歴史にかんする教訓を持っている。それを彼女は息子に授けた。[……]。/彼女はコリンスのデラコート家の娘クリスティーナ・デラコートまで遡る長い記憶を自分の中に持っている[*70]」。つまりテオがナイト・カリプソで語る「長い記憶」は、母エメルダが彼に授けたものであり、それは彼の曾祖母にあたるクリスティーナ・デラコート(マ・デラコート)にまで遡る。クリスティーナはカカオ業を営むフレンチ・クレオール系の白人地主ド・マリノー家のプランテーションで、マリノー夫人の要請を受けて年季奉公人として働いていた。そこでマリノー家当主の息子ピエール・ド・マリノーに性的虐待を受ける。「当時のマリノー氏がその体に入り込んで、彼女はマ・デラコートになった[*71]」。クリスティーナのまだ幼い娘アリス(テオの祖母にあたる)も、ピエールによって性的虐待を「被る」(get take)ことになった[*72]。こうして、ピエールに象徴される白人クレオールのド・マリノー家の男性たち——「ミスター」——が、元奴隷であるアフリカ系のデラコート家の娘たちを凌辱することで始まった、「そのような干渉によってできた家系」(Ancestry of such interference)の「歴史」が、テオまで続いてゆくのである。テオは、「曾祖母の物語、祖母の物語、母の物語に臍の緒で繋がれた少年」だったのだ[*73]。
続くナイト・カリプソで、この「干渉」の「歴史」が世代を超えて繰り返される様が語られる。アリスはエメルダ(テオの母)とその双子のルイを出産するのだが、その後中絶を経験し、木に首を吊って自殺する。エメルダもまたクリスティーナとアリスと同様に、ド・マリノー家の「ミスター」によって性的搾取の対象とされる。テオを通して、彼女の声がこのように語る。「私のテオ。私はあなたを何に縛りつけてしまっているのでしょう。ねぇ、あなたを何に縛りつけているのでしょう。それはミスターが見ているものよ。もう女の子どもはいないの。そう、ピエール坊やを見てみなさい、彼がどんな苦い顔をしているか。あいつにはもうひどい目にあわせる女の子どもはいないのよ。身籠らせられる腹違いの妹もいない。汽車が渓谷を通るとき、寝室に連れ込む女の子どももいない。カカオ畑に連れ込む相手もいない。[……]手すりに十字架を打ちつけながら、父親と母親のベッドで凌辱する相手もいない。あいつには何もないの。彼には、床を磨いている間に襲うような小さな女の子どももいない。[……]。私には女の子どもがいないから。これを続けるための子どもはいないから[*74]」。デラコート家の女性たちは、ド・マリノー家の「ミスター」による「干渉」が続かぬように、自分の娘を堕胎するか殺害する。そして女の子どもがいなくなり、男子であるテオのみが世に残ることを許されたのである。
ところが、さらなるナイト・カリプソで、デラコート家の女性たちの抵抗が、テオにとってトラウマ的経験へと繋がってしまったことが明らかになる。ド・マリノー家のミスターは、テオをカカオ畑で発見すると、その場で背中に傷跡を残すほどの鞭打ちをした後、彼を性的に凌辱したのだった。それによりトラウマを抱えたテオは、ド・マリノー家のコリンス邸に奴隷たちの反乱のように火を放つ。「火があの家全体を包むまで見ていた。その後は待って見るまでもなかった。その場すべてが焼けていくままにしたんだ[*75]」。だがこの大火のなかで、母エメルダを死なせてしまったのだった。さらにその後、テオは修道院に送られるのだが、そこでも彼は性的虐待の犠牲者となってしまう。正体が明かされない神父のひとりが、テオの部屋に鍵を置き、テオ自身にそれを渡させることで部屋に入ることができるようにした。夜になるとその神父は馬に乗って現れ、テオの部屋に入り彼を欲望のままに凌辱していたのだった。「呼吸を止めなきゃ。そして寝て。そして死ぬんだ。死んだふりをする。そうしなきゃだめとママは言っていた。死んだふりをする。死んだら何もできないし、誰も何もしない。あなたはそこにいない。あなたは死んだから。僕は死んで、死んで、死んで、死んだ[*76]」。こうしてその連鎖が断ち切られたと思われた「干渉」の「歴史」は、ド・マリノー家のプランテーションから修道院へと場を移しながら続いていたのだ。テオの背中の傷は、曾祖母から母へ、そして母から息子へと受け継がれてきたトラウマ的記憶の痕跡なのである。彼のナイト・カリプソは、彼とデラコート家の女性たちが被り耐え続けてきたトラウマ、言い換えればカリブ海において植民地支配が人々に与えた表現のしようのないトラウマを、いわばエンコードしているのである。
このエンコードに、修道士たちは気づくことができなかった。テオのナイト・カリプソを聞きながら、ヴィンセントは修道院で彼らがテオの「問題」に対処することができず、彼をエル・カラコルへと追い出した理由を理解する。
修道士たちは、テオが母親たちから引き継いだ「長い記憶」の物語に耳を傾けるのではなく、それを「悪魔」に憑りつかれた状態だとして、その悪魔を祓おうとしたが、結局何もできなかった。そして孤島に住む医者に彼を押し付け、遁走した。こうしてテオは見捨てられたが、彼のナイト・カリプソを聞き続け、愛をもって彼に接し続けたヴィンセントが、ようやく彼の「トラウマ」もしくは「原傷」をその手で掴んだのだった。
ナイト・カリプソを通して、テオのトラウマの全貌はヴィンセントによって徐々に認識されていく。そしてエル・カラコルでの人々とのやり取りや、ヴィンセントとテレーズからの愛情により、テオは心を開き始める。その一方で、シンとヨナが患者たちに植え付けた政治意識がカーニヴァルのようなドラムを使った大きな抗議運動を引き起こす[*78]。この運動によって結果的に患者たちの治療環境の改善が促されるようになるのだが、その最中に患者の少年ティ=ジャンが亡くなってしまう。ヴィンセントは悲痛に暮れるが、シンとヨナが彼に歩み寄ることによって、人種間のいがみ合いや軋轢を超えて互いを尊重する関係になる。「彼らは今や互いを理解していた。ヨナがそれぞれに言っていたように、『愛は計画できない』のだ。テオはクリスティアーナ[シンとの恋仲が示唆されるインド人の少女]とともに見守っていた。ヴィンセントとテレーズ、シンとクリスティアーナの関係に気づき、彼もまた愛についてより理解していたのだ。ヴィンセントが前から思っていたように、彼のナイト・カリプソには癒しの魔法があった[*79]」。ヴィンセントは、テオが実践するナイト・カリプソには、人種間の争いが生んだトラウマをも癒し、愛を理解させる魔法があるのだと知る。こうしてヨーロッパ系、アフリカ系、そしてインド系がそれぞれ参加した1930–40年代のカリブ海の政治闘争を再現したドラマは、人種間の差異を超えて互いの尊重に支えられた政治のあり方を描き出すのだった。
エピローグで物語は1940年代から1983年へと戻り、プロローグに現れた男性が再び精神科医のセラピーを受けている光景が映し出される。そこで男性と精神科医は、このような会話をする。
この男性は、大人になったテオだった。テオはヴィンセントとテレーズのもとで育ち、その後も生を全うしている。自分自身の身体に刻まれた「長い記憶」であるトラウマ的記憶は、彼にかつて生を放棄させるほどに追い込んでいた。しかしナイト・カリプソを歌うことによって、そのトラウマに屈服することなく自分自身と向き合いながら、テオはこうして力強く生きているのである。
もしファノンが述べるように、植民地主義の暴力に由来するトラウマは個人ではなく社会の水準での問題であるならば、テオのナイト・カリプソが吐き出すのは、カリブ海社会を蝕むトラウマ的記憶である。ところが、その社会はそのトラウマに向き合うのではなく目を背け忘却する遁走状態にある。しかし、カリブ海の音楽にはトラウマ的記憶をエンコードする力が備わっている。スコットのようなカリブ海作家たちが自身の作品で想像的/創造的に表現するカリブ海特有の「記憶の音楽的詩学」は、西洋のトラウマ理論が語ることのできない植民地支配の傷を、音楽という記憶装置がいかにエンコードし、歌い、記録し、癒してくれるかを見せてくれるのだ。
参考文献
凡例
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