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御伽怪談第一集・第六話「極楽猫曼荼羅」

   一

 小普請組こぶしんぐみ奉行・阿部大学様の配下に兵庫之介と申すサムライがいた。若くして父を亡くし家督を継いだばかりであった。
 彼の屋敷には広い庭があり、真ん中に接骨木にわとこの大木が生えていた。その木は6メートルほどに育っていて、春には白い花が咲き、それはそれは美しかった。
 近所の者たちも、
——まるで極楽に咲く、たくさんの花を愛でているようではあるまいか。
 と、ため息をついて眺めていた。
 接骨木はまっすぐな横枝が多く、小鳥たちの絶好の止まり木となっていた。春ともなれば美しいうぐいすの唄が競われていた。
 しかし、如何なる子細であろうか?
 いつとはなしに近所の野良猫たちがその木に集まって来た。
 気付いた時はまだ数匹であった。鶯はもう来なかった。猫好きの兵庫之介は、毎日、猫が来ることを楽しみに眺めるようになっていた。
 日毎に猫が増えてゆく。
 最初は、
——何やら最近、野良猫が多いのぉ。いったい、どこから来るのであろう?
 と、家中の者たちも気楽に申していた。
 やがて、日を追うごとに猫の数が増えてゆき評判が立つほどになっていた。
 近所の者たちは、
「あのお屋敷は、猫に好かれておるものか、ずいぶんと、たくさん、猫が集まりおるのぉ」
 と感心し、あるいは、
「ネコ屋敷でござんすなぁ、ハハハ」
 町人にまで指差され軽口かるくちを叩かれる始末であった。
 屋敷の者も評判に困り果てていた。
 そもそも武家にある者が、良いことであれ、悪いことであれ、噂されることは避けねばならない。それが彼らサムライの常識であった。

 屋敷の者たちは、毎日、総出で猫を追い払った。だが、事態は良くなるどころか増える一方であった。
 ある時は、屈強な強面こわおもての犬を借りて来て、猫を追い払おうとしたこともあった。方々をあたって、少し屈強には遠いだろうが、犬は犬だと申すやつを引っ張って来て、庭を見せるとすぐに逃げ出した。
 別なところで借りた犬も同じく無駄な足掻あがきを見せただけであった。
 これだけ猫が増えると、もう野良がどうこうと言ってはいられない。飼い猫も当然、含まれているであろう。それどころか、日増しに増える猫の姿は、やがて誰も想像すら出来ない数に膨れ上がっていった。
——世の中に、こんなに猫がいたんだ。
 あきれて申すことが、誰もの精一杯の感想であった。
 猫は、昼となく夜となく庭に集まっていた。目を細めて見ると曼荼羅でも描いているかのようにも見えた。時々、その曼荼羅の模様が変わるが、それはどうやら、餌を食べに帰っているようであった。

 兵庫之介は、毎朝、庭に描かれる猫曼荼羅を眺めては、
「今朝も極楽、極楽……」
 と、ひとり悦にいっていた。特に朝日が登る頃は、曼荼羅はあらん限りの美しさで輝いていた。咲き誇る接骨木の花を中心にしたこの景色を、極楽と言わずして何と言おう。特に猫好きには素晴らしい限りであった。その庭を、兵庫之介は独り占めしていたのである。だが、やがては数万匹とも申すべき、大量の猫たちが集まるようになっていた。


   ニ

「まるでこれでは、江戸中の猫が来たようではないか」
 噂して笑っていた町人どもも不気味に思ったのか、近づきすらしなくなった。屋敷には猫の鳴き声が溢れ、地響きのようであった。あたり一面、猫に覆い尽くされた光景は、不思議と言うにはあまりな不気味な感じがした。
 猫たちは、かの接骨木の木に登り、あるいはその下に伏して様々に群れ遊び、追っても、打っても、逃げることはなかった。石を投げれば少し避けたが、また、すぐに集まって来る有様であった。

 やがて公儀も猫の噂を知るところとなり、
——正式に猫騒動を始末せよ。
 とのお達しがくだされた。兵庫之介も仕方なく、一族、皆で、相談することとなった。
「始末せよと命じられても、いったい何といたせば良いやら」
 皆の心配をよそに、猫好きの兵庫之介にとっては極楽であった。しかし、他の者たちにとってはそうではなかった。
 伯父が困り顔で、
「接骨木を切るか?」
 意見を申すと迷信深い祖母が呆れて申した。
「やれやれ、公儀と、木を切る祟りと、いずれが怖しいやら」
「それでも切らねば、その内、われらが腹を切らねばならなくなるぞ」
「公儀は一代限りのこと。なれど祟りは七代続きまするぞ」
「一代の処分で当家も終わりじゃ」
「たかが猫ごときのことで、当家が処分されまするか?」
母者殿ははじゃびと、たかだか猫のことで誰ぞ処分されたとあっては、末代までの恥辱。それでも良うござりまするか? 笑いものとなりまするぞ」
「そ、それは……」
「あれほどの迷惑なネコ騒動を起こして、接骨木も切られても文句は言えぬでござろう」
「さ、左様でありまするな……では、切りやるか?」
 と、意見がまとまり、ついに解決の一歩を踏み出すこととなった。

 さて、たとえ接骨木とは言え大木は大木である。切るその日はやはり祟りを怖れ、慎重に良い日を占った。また、近所の修験者を出来る限り呼んだ。しかし大半には断られた。それでも江戸は広いもので、ようやくかき集めた修験者や虚無僧などをあてがい、厳かにお祓いの儀式がはじまった。
 だが、どこから聞きつけたのであろうか? たくさんの見物人が屋敷を遠巻きにして現れ、中には猫饅頭なる物を売るやからまで現れる始末であった。人はたくましい生き物である。
 修験者たちは、まさしく足の踏み場もない猫どもをかき分けて、接骨木の前に勢揃いした。総勢八名の修験と、四名の虚無僧、三名の僧侶が加わって、その後ろに植木職人の佐吉と、さらに家の者たちが控えていた。
 儀式はあまりにバラバラな雰囲気であったため、もう何式のお祓いかも分からなくなっていた。最初に修験の法螺貝が吹き鳴らされ、続いて虚無僧の尺八が演奏された。それから修験者のつたない祝詞が響いた。儀式の間中、猫が修験者たちの邪魔をした。ある猫は修験の肩に乗り、またある猫は祭壇を倒したが、猫ごときに怒ったところで仕方がなかった。屋敷の者たちが総出で猫を引き剥がしては、また別な猫が取り付く有様であった。


   三

 やがて僧侶たちの般若心経が響くと、修験も諦めて、数珠を振るい、
——かつ……。
 と大声で叫んだ。しかし、喜んだ猫たちが一斉に甘えた声をあげ、どの音もかき消されてしまった。
 それでも、やがて儀式は何とか終わった。
 修験者たちは、
——これで終わりですけど……。
 とでも言いたげなばつの悪さで、頭をかいて苦笑いした。
 それからひとりの職人が大きなのこぎりを担いで、おもむろに登場した。いわゆる職人姿のその男は、近所に住む佐吉である。中年を過ぎた佐吉のたくましい姿は神々しくさえ思えた。
——待ってました。
 と掛け声でも掛けんばかりに皆が見守る中、さっそく佐吉は接骨木の根本に刃をあてがった。そして、一度、地面にのこぎりを置くと、両手に唾してのこを持ち上げ、とうとう接骨木の大木に傷をつけた。
 もし、祟りがあるなら、この時点で佐吉の死は確定するだろう。しかし、佐吉はピンピンしていた。それを見て祖母は安心して胸を撫で下ろした。
 ギシッ、ギシッとのこぎりを動かすたび、きしむ音がして、大鋸屑おがくずがパラパラと飛び散った。まわりの猫は逃げ出した。しかし、多くの猫は気にもせず、やはり普段と同じように遊び呆けていた。
 佐吉の背中に乗る猫までいて、作業は困難を極める……かのように思えた。
 接骨木は大きかった。
 誰もが、
——切り倒すには時間がいるだろう。
 と考え、覚悟して様子を見守っていた。すると、意外なほどあっけなく切り倒された。
 どどっと不気味な音と共に大木が倒れると、あたりにもうもうと埃が舞った。
 あまりの速さに、皆、不思議に思い首を傾げた。切り口を見ると中が空洞になっていたのである。
 その時のことだった。
 倒れた大木の空洞から、蛞蝓なめくじが、突然、溢れ出た。それも手のひらほどもある大きな蛞蝓である。誰も見たこともないほどの大きさと、やはり誰も見たこともないほどの大量の蛞蝓であった。
 猫たちの頭が一斉に蛞蝓に向いた。猫が驚く顔を見たことがあるだろうか? まさしく目をまん丸にひん剥いて、口をあんぐりと開けると、時を移さず、一目散に逃げ出したのである。
 たくさんの猫が走るドタドタした足音は、まるで地震でも起こったのかと錯覚させた。屋敷の外で見物していた者たちも、驚いて逃げ出すしかなかった。まるで猫の洪水でも起きたような雰囲気であった。人々は足元を救われて、猫に流される者や、猫を踏んで、顔が傷だらけになる者も出た。猫の洪水は、屋敷の庭を中心に四方八方に広がった。やがて、轟音が去ると、どこにもネコの姿はなかった。
 見ていた者たちは、屋敷の者はもちろんのこと、普段から修行している筈の修験者や僧侶に至るまで、地面に転び、あるいは腰を抜かして口を開けたまま泡を吹いていた。
 あまりの気持ち悪さに、ようやく建物に隠れた者たちの圧力で、戸板が外れた。ヌメヌメとした大きな蛞蝓は、見ているだけで吐き気がした。そしてあの独特の嫌な臭い。皆、鼻を押さえて咳き込んでいた。
 それにしても出るわ出るわ、切り株の穴から、次々に蛞蝓が吹き出して来る。それは誰にも止めることは出来なかった。止めるどころか、誰も近づくことすら出来ない。


   四

 その時、突然、兵庫之介はカラスの鳴き声を耳にした。にわかに空が暗くなる。ふと、見上げると、晴れ渡っていた筈の空に真っ黒なカラスが飛んでいた。大量のカラスが屋敷を中心に円を描いて飛んでいる。その数は次第に増え、大空を覆うと、カラスの鳴き声が耳をつんざいた。
 やがて、カラスは一斉に庭を目掛けて降りて来ると、ナメクジを食べはじめた。ついばむカラスたちの、餌を奪い、むさぼる姿は、さながら畜生道地獄の阿鼻叫喚の景色のようであった。千切れる蛞蝓の肉は、黄色い体液をほとばしらせ、不快な臭いを撒き散らした。カラスの鳴き声があたりに満ち溢れてゆく。
 屋敷の者と言わず、見物の者と言わず、近所のすべての者たちは、あまりの不気味さに戸を固く閉ざしてガタガタ震えていた。江戸中はおろか、関東一円のカラスが集まったかのような光景に、皆、言葉を失った。蛞蝓がプチンと千切れてゆく。カラスが飲み込み、また、千切る。その度に液が飛び散って、地面が濡れた。避けるカラスがぶつかって、バタバタと羽ばたいたと思ったら、また、くちばしが蛞蝓を食いちぎっていた。誰もが無言のまま庭の様子を怖れた。

 やがて一羽のカラスが空を見上げ、ギャァと一声鳴くと、すべてのカラスは空に飛び立った。それこそ、あっと言う間の出来事であった。すべては西の空へ消え、後にはたくさんの喰い散らかされた蛞蝓の死骸と、踏み荒らされたカラスの足跡ばかりが残されていた。
 それからと言うもの、ひたすら何日もの無駄な時間が庭の掃除に費やされた。まさしく一族総出の作業であった。
 もう二度とこの屋敷に猫は寄り付かなくなっていた。
 世間の人々は、口々に、
——誠に怪異のことである。
 と、しばらく噂が絶えなかった。
 やがて掃除を終えると、兵庫之介一族は屋敷を奉行に返し、遠い親類を頼って田舎に引っ越してしまった。武家として奇妙な噂が立った以上、どこかに落とし所がなければならない。江戸で暮すことなど出来事なかった。

 何年かすると、一家は離散して家も滅びてしまった。兵庫之介は出家して慈覚じかく上人と名乗り、諸国の救われない人々のため、残りの一生を捧げることとなった。
 彼の人生は大きく変わってしまった。猫曼荼羅の極楽から、カラスと蛞蝓地獄を見て大きく変わってしまったのである。
 もちろん、人生が変わったのは彼ばかりではなかった。
 あの日、地獄を目の当たりにした、たくさんの人々の人生も各々変わったと言う。
 ある者はやはり出家して寺にこもった。またある者は、異常なほど猫を怖れるようになり、そのことが厄して不幸な人生を終えたとも言う。『寛政紀聞』より。

 さて、この時代、江戸市中にはどのくらいの猫がいたのだろう?
 正確なことは分からない。それは、猫の数を把握するような資料はないからである。しかし、この事件から先の世にかなりいたことは確かなようである。百万人もが住む都市の、ほとんどの人が猫を飼うようになったとの記録も残っている。だが、猫が一箇所に集まった記録は、これ以外には見たこともない。〈了〉

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