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からだを育て、腰を育てる

1.手考足思

昭和の初めに、ありふれた日用品の中に「用の美」を見出し、その価値を世に問うた「民藝運動」という活動がありました。

その民藝運動の中心となった人物の一人に、河井寛次郎という人がいるのですが、その人の言葉に「手考足思」というものがあります。

「手で考え、足で思う」とは、まさにものづくりを行なっている作家ならではという言葉ですが、シュタイナーもまた「手で判断し、足で帰結する」と似たような言葉を残しています。

一般的には、人間は「頭で考える」と思われていますが、思考というプロセスには手や足といった他の身体部位も関わってきます。

思考というプロセスは、単に精神的なロジックを脳内で動かしているだけのように思われがちですが、その周縁にある「からだ」や「環境」といった要素も必ず関わってくるのです。

たとえば町中でどこかから懐かしい香りがふわっと漂ってきたとき、「あれ?これ何の匂いだっけ?」と一生懸命に記憶をたどっている際に、決して脳だけが活発に活動しているわけではありません。

それは端から見ていても分かります。手を小刻みに動かしながら、「え~っと…なんだったっけなぁ~」と言いながら空を仰いだり、首をひねってみたり、視線が右へ動いたり、左へ動いたりと、はたまた瞑ってみたりと、非常にさまざまな身振りをしながら必死に考えている姿がそこにあるはずです。

それはまるでからだのどこかにしまいこんでしまった失くし物を探し回っているかのようです。

無駄な手振りをやめようとジッと動かさないようにしたら、思考も一緒に動かなくなってしまったり、話す向きを変えたら急に「え~っと、何の話だっけ?」となってしまったり、さっきと同じ動作を繰り返したらパッと話を思い出したり、そんなことはよくあることではないでしょうか。

現代、思考という営みは人間の営みの中でももっとも高い価値を置かれているにも関わらず、そこで行なわれていることの本質はまだまだよく分かっていないのです。

プロセス指向心理学の創始者であるアーノルド・ミンデルは、『思考は、人間の行為の中で最も催眠的なものの一つです。私たちは自分たちがどのように考えているのかを知らないままに思考しています。』と言っていますが、たしかに私たちは自分が「考える」とき、どのようなプロセスによってそれが行なわれているのかを知りません。

思考というものが脳という臓器の活動だけでなく、からだのいろいろな部分の活動もまた関わってくるならば、やはり教育の方法を考えるときにも、からだ全体を使った授業というものを考えていく必要があるのではないかと思うのです。

言語という抽象化された記号の取り回しをするばかりでは育まれないものがあるということは、誰しも空想することでしょう。

国語も算数も理科も社会も、手を使って足を使って、からだ全体で考えて、からだ全体で学んでゆく「体育」として捉え直すということ。

そんなことができたら、子どもたちにとって学校はもっと愉しいところになるだろうなぁと思います。子どもの本来は、からだを動かしたがっていますからね。

2.腰を育てる

整体では、からだを育てるということを大切にし、また実践しています。その中でもとくに重要視しているのが「足腰(骨盤)」の動きです。

日本語には「腰が重い」とか「腰が軽い」といった言い回しがありますが、それはからだの部位の状態を言い表すだけでなく、その人の身振りや性格もまた言い表しています。

「腰が軽い」という表現は、何かあったときにパッと機敏に動ける人の身振りを指して言いますが、そういう人の腰を実際に触ってみるとやはり弾力があって動きが軽いのです。

反対に「腰が重い」、つまり何かあってもなかなか動きにならないような人の腰を触ってみると、硬くこわばり、動きが小さく重い感じがあるのです。

あんまり腰が硬くなってくると、剛情さや臆病さといったものにまでつながってきます。つまり腰というのは、その人の行動力の状態をそのまま表わしているのです。

シュタイナーの考え方では、人間のからだを「頭部」「胸部」「四肢」と三つの部位に分けて、それぞれを「思考」「感情」「意志」という精神の働きと対応させて語りますが、それで言えば整体で語る「腰」というのは、「四肢」「意志」の部分に対応します。

「腰抜け」という言葉がありますが、実際に腰の力が抜けていると、意志が弱く、行動につながらなくなってくるのです。逆に腰を育てていくと、それは意志を強く育てていくことにもつながります。

幼少時にしっかり腰を育てておくと、やがて頭が育ってきたときに、その頭の中で考えたことを、腰を通じて四肢(手足)に降ろし、しっかり行動できるようになってくるのです。

では腰を育てていくためには、どんなことに気を付けていけば良いのでしょうか。

基本的には直接的に足腰をよく使っていくということです。よく歩き、よく走り、よく跳んで、よくしゃがむ。

それらはどれも人間として基本的な動作ですが、基本的な動作であり身体操法であるからこそ、私たちのあらゆる活動の文法構造にもなっているのです。

3.思考と意志と勇気

子どもも三歳くらいになってくると、高いところから飛び降りるということをし始めます。

みなさんも経験があるかと思いますが、この時期の子どもというのは歩いている最中にも、むやみに高いところに登りたがり、またそこから飛び降りたがるものです。それはからだの要求なのです。

高いところから飛び降りるというのは誰だって怖いものです。子どもも登ってはみたものの、下から見上げたときと上から見たときでは、ずいぶんその距離感が違うのでたじろいでしまって、「抱っこ」とか「下ろして」とかなることも多々あることでしょう。

ですが成長するにつれ、「飛び降りてみたい」という要求がどんどん内から湧いてきて、怖さと要求とのあいだで逡巡するようになっていきます。

そして「飛び降りたい」という要求がどんどん強くなって、怖さを上回ってくると、からだの内側の力の焦点が、初めは上部の方にあったものがどんどん下に降りてきて、やがて腰に集まってきます。

腰に力が集まってきたとき、離れていた「あたまの思考」と「手足の意志」とが、初めてからだの中でしっかりつながり結ばれます。

そして、そこから熱が生まれて全身を奮い立たせます。それが「こころの勇気」であり、「ボクは飛び降りるぞ!」という現実を見つめた強い覚悟です。

その強い意志と覚悟の力が足腰に満ちてきたところで、子どもは勇気を振り絞って一歩を踏み出し、飛び降ります。

そして着地の瞬間、足腰には体重の何倍もの衝撃が加わります。それは単なる空想(ファンタジー)ではない、極めて現実的な衝撃であり、現実との衝突です。その衝撃をしっかり受け止め、吸収するのも足腰の仕事です。

勇気ある決断と、そしてそれに伴う現実の衝撃を受け止めること。その一連の過程には、人間の決断にまつわるプロセスがすべて凝縮されています。

そしてそれが腰という部位を中心に行なわれているのです。

この飛び降りるという行為をしっかりやり切ることで、子どもは腰が育って、決断力や覚悟が養われていくのです。

この着地のときのしゃがんだ姿勢。最近の子どもたちはこのしゃがむ姿勢が取れずにひっくり返ってしまうという話をときどき聞きますが、この深くしゃがんだ姿勢もまた足腰や骨盤を育てるにはとても大切な動きです。

しゃがんだ姿勢というのは、着地の際の大きな衝撃を耐える姿勢だけあって、現実的な重さをしっかり受け止めることのできる姿勢です。

4.現実に行動するのはからだ

地上に生まれ落ちたばかりで、半ば夢心地の中を生きている子どもたちにとっては、現実的な重さというものはまだまだ負担の大きいものですが、でも彼らも大人になっていくにつれて徐々に背負っていかなくてはならないものです。

年齢をかさねるにつれ、大きくなる肉体、大きくなる自由、大きくなる義務、大きくなる責任。それらを背負ってしっかりとこの地上を歩いて行くためには強靱な足腰が必要になるのです。

それを育てるための準備が、飛び降りてしゃがむ姿勢の中には動いています。

人間の思考という行為が、頭だけで行なわれているものだという認識によって、知識偏重の教育が行なわれてきましたが、それによって思考が四肢から離れたところで行なわれがちになってしまったような気がします。

そんな教育によって、頭だけで考え、そしてそれが四肢に届かず、現実の行動にはつながらないような、頭でっかちな思考ばかりを育ててきてしまったのかも知れません。

ですが、頭でっかちで自分は動かず、その責任も引き受けないような、そんな人間を育てるような教育は、決して本人も周りの人間も幸せにするようなものだとは思えません。

思考の土台であり、また実行器官でもある、手足や腰を育てる教育ということを、私たちはこれからしっかり考えていきたいものです。

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