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猫と手紙

《あらすじ》
順風満帆に生きてきた主人公の僕。ある時、ふと自分の人生に疑問を抱く。
何を求めて生きてきたのか。そんな疑問を抱えながら日々を送っていると、とある小柄な女性に出会う。
自分とは違う考え方を持つその女性と一緒にいることで自分の過去、自分の本心、いろいろなものに向き合うようになる。


第一話  猫と手紙

僕は眺めていた。自分の人生を。

たぶん、順風満帆。

そういう人生だ。

学生時代はそれなりにモテてきたし、勉強も嫌いじゃなかった。

そんなに頑張ってやらなくても、程々に良い成績だった。

器用な方で、何かと新しい事をするのも苦ではなかった。

ただ、大体ある程度やると何となく上手くこなせたので、こんなもんか。とハマる事もなかった。

色々な事を声を掛けられるままにやってきたけれど、ずっと続けたいと思うほど熱中するようなものには出会わなかった。

場の空気は読める方で無駄な事は言わなかったし、誰かと特に揉めるような事もなかった。

何となく喋らなくても人に囲まれていた。

高校生になって、ぐんと背が伸び、身長は185センチ程あった。

細身で、制服のシャツとパンツまでも着こなしていると言われた。

顔立ちは、得意げに「昔はよくもてていたのよ」と話す母親似だった。

他校の女子から声をかけられる事も珍しくなかった。 

幼少期から中学、高校と学生時代、容姿を褒められる事が多かった。

別に悪い気もしなかったし「ああ、どうも」と返していた。

「いや、そんな事ないよ」と言っても、相手は「いやいや、またそんな事言って」みたいに返してくるので、面倒になってやめた。

そういうやり取りの時間は無駄に感じた。

みんなが言うには、スラリとした長身と、整った横顔が良いらしい。

まぁ、何の変哲もない評価だ。

あとは、クールな眼差しらしく、低い声も良いと言われた。

クールと言われるのは眼差しだけではなかった。

別に気取っていたわけでもなく、喋りたい時は喋っていたが、言葉数は少ないと言われた。

その辺は自分でも、良くしゃべる方ではないと自覚していた。

そもそも、わざわざ喋り出したい言葉が僕にはなかった。

 

単純に話を聞いているのも好きだったし、友達は良い人ばかりで毎日は充実していた。

休日になると遊びにも誘われたが、特にどうしても行きたい訳ではなかったので、何となくそれらしい理由をつけて断っていた。

休日は家で、一人で過ごす事が多かった。

趣味は映画鑑賞と読書。

ひとりでいる時間、特にサスペンス映画を字幕で観るのが好きだった。

予測不可能な展開や、まさかの結末を見るのは面白かった。

映画は部屋を暗くして、集中して観るのが好きだ。

部屋を明るくして、何かをボリボリ食べながら観る人の気持ちなんて分からなかった。

本は小説を読む事が多かった。

あまりジャンルを絞ってはいなかったが、恋愛小説はどれだけ話題になっていてもあまり興味がなく読まなかったが、他のジャンルは読み始めたら何時間でも読んでいた。

みんなが使うSNSはほとんど見なかった。

特に人がしている事に関心が持てなかったし、自分のことを誰かに見せたいとも思わなかった。

流行りの歌も自分から調べてまでは聴かなかったし、誰かに熱狂する事もなかった。

ただ、友達が良いというアーティストの曲を何となく一緒に聴いていたので、流行りの曲も知らない訳ではなかった。

小学生の頃は好きな子ぐらいはいたが、それ以降は特定の誰かを好きになることはなかった。それなりに美人を美人だなと思うことはあっても、特にそれ以上興味は持てず、男友達の言う、女子のこの仕草が可愛いだとかいう類の話にはピンとこなかった。

それでも告白をされてなんとなく付き合ってみた人は何人かいた。でも、冷たいだの何だの言われることが多く、自分では冷たくした覚えはなくても、すごく気にかけた記憶もなかった。ただ、彼女たちの話すことに関心がなかった。

何人かと付き合ってみて、ふと、もう良いや、と思う瞬間が来た。以降、彼女を作るのをやめた。いても良いけど、いなくても良いような気がした。僕の見た目だけで寄ってくる女性たちに少しうんざりしていたのかもしれない。

一人の時間が増えて、何かから少し開放された感覚だった。

 

高校を卒業してからは、モデル事務所に前々から声を掛けられていたこともあり、自分の容姿を生かしたモデル活動を本格的に始めた。

高校卒業ギリギリまで将来何になるか迷っていた。

ただ、真剣に考えても自分の将来がモデルという事以外思いつかなかったし、他の職業は想像出来なかった。

自分から動かなくても、周りの大人達がうまく話を進めてくれていた。

なんの障壁もなく、ただ僕が返事さえすればなれる。そういうものだった。

周りからもそうなる事を期待され、僕自身も、きっとこの道が自分の進むべき道なのだろうと思った。

望んだからと言って進める道ではないだろうし、僕は恵まれている。

モデルの仕事を始めてからは実家から通えない距離なのもあって一人暮らしを始めた。

一人暮らしの家も、周りの大人達が探してくれた。

事務所まで程よい距離で、部屋の大きさも充分。建物も綺麗で近くにコンビニもあり、日当たり、風通しも良く、初めての一人暮らしも快適に過ごすことが出来た。

一人の時間がさらに増えたが、一日のルーティーンはほとんど変わらなかった。

朝、仕事へ行き、それなりに仕事をこなして家に帰る。

シャワーを浴び、弁当を食べる。

モデルの仕事をしていたが何を食べてもあまり太ったり肌が荒れたりもしないので、食生活だとか特に気を使ってもいなかった。

毎日同じような生活を十年近くして、僕はもう今月で二十八歳になる。

ふと僕の頭に疑問がよぎった。

僕はモデルになって何をしたかったのだろう。

どこに向かって進んでいるのか。

いつものように何となく選んで買って帰った弁当を食べながら思った。

 

 

今日はブランドの新商品の撮影だった。

ヘアメイクをしてもらい洋服を整え、商品が綺麗に映るようにポージングをとる。

何年もやっているとどういうものが求められているのか、言われなくてもある程度分かるようになる。

こういうのを求められているのだろう。

カメラの前に立ち、今日も僕はそれに応える。

憧れの職業につけて、給料も良い。

仕事も順調で別に不満とかがある訳ではない。

モデルは自分でそうなろうと決めた道だ。

こんなに順調で別に困る事は何もない。

 

モデルの仕事を始めたばかりの頃は、上手く仕事をこなすのにただ必死だったが、最近では誰かに仕事で怒られるようなこともない。

充実しているはずだ。

……でも、何かが欠けている気がした。

何かが満たされていないような。何かを思い出せない感覚。

何を得たかったのか。

ゴールは何なのか。

そんな考え事をしていた。

 

……いや、仕事は仕事だ。

ぼんやりとして止まっていた箸で、弁当の残りをかき集めて食べ切った。

きっと疲れていた。

無駄な考え事だ。

段々と大きな仕事も任されるようになった。

期待されている。

明日の為、今日はもう寝よう。

いつもより早めにその日は眠り、朝になると無駄な考え事は消えていた。

「よし、今日も頑張ってくるか」自分に言い聞かせるように小さく声に出した。

今日も、いつもと同じ一日が始まる。

 

僕は幼い頃にもモデルの仕事をしていた。

初めてモデルの仕事をしたのは五歳の時だった。

母の知人が勝手に僕の写真を、キッズ向けのブランドモデルに応募していて、合格した。

僕はよく分からないまま母に連れられ、撮影現場に行った。

カメラの前に立たされて色々なポーズをさせられたが、別にすごく嫌という訳でもなかった。

が、なんでやらないといけないのかなとは思っていた。

ただカメラを構えたおじさんに言われるがまま、ポーズを取り続けた。

僕は楽しくなかった。

けれど出来上がった広告写真を見て、母は嬉しそうだった。

 

その頃、母の友人がよく家に遊びに来ていた。

いつもにこやかで、僕の為に選んだと、お菓子を手土産として持ってきてくれていた。

自分の子供の習い事から、友達とのあれこれ、口から出る話題はいつもその人の子供の話だった。

お喋りが好きみたいで何時間でも話していた。

僕はつまらないお喋りをしている母たちの横で一人遊びをしていた。

長いお喋りの時間には、度々、僕のキッズモデルの話にもなった。

母が自慢していたと言うより、母の友人がモデルについて熱心に詳細を聞き出していた。

その友人の子供は僕より七歳年上で、将来の夢がモデルらしい。

 

ある時、その母の友人は僕に将来の夢を聞いてきた。

「大きくなったら何になりたいの?」

僕は「カレーが好きだからカレー屋さん!」と答えた。

すると、ふふふと笑って「もったいない。こんなにかっこいいのに。ねぇ」

そう言って、母の方へ振り返って同意を求めた。

母は、同じくふふふ。と笑っていた。

その日の夜はカレーだった。

何度か撮影に呼ばれるうちに近所の人にも、モデルをしていることが知れ渡り、それに関する質問が度々、色々な大人から僕に向かって投げかけられた。

僕はいつも同じように答えたが、食べるのが好きとカレー屋になるのは別の話だよ。と言われたり、もったいない、と言われたり可愛いねと笑われたりした。

僕は「もったいない」の意味が分からなかった。

けれど、好きだからなるというのは違う、というのは僕の幼い心に残っていた。

 

僕が六歳の時、ランドセルのモデルとしていつもより大きな広告が出た。

近所のたくさんの大人が褒めてくれ、母はその広告や出来上がったパンフレットを見て、僕の頭を撫でながら嬉しそうに笑った。

僕は母が嬉しそうなのが嬉しかった。

僕のするべきお仕事は、こういうものか。と思った。

大人から度々されるあの質問に、僕は前と同じ答えをしなくなった。

 

高校卒業間近になった時にたまたま昔のつながりもあって、モデル事務所に声を掛けられ、それからは必死に仕事を覚えてこなしてきた。

気づけばもう十年ほどこの業界にいる。

同じような毎日が過ぎたが、仕事は淡々と続けていた。

 

ある時、仕事から帰ると僕の家のドアの前に黒猫がいた。

その日はずっと雨が降っていた。

雨の中、雨宿りできる場所に避難してきたのかも知れない。

猫はじっとこっちを見て、タタタッとどこかに走って逃げて行った。

もとより、動物に好かれる方ではない。

それに動物を可愛がるのも得意な方ではない。

そもそも、幼少期から近所で犬や猫の動物を飼っている人がほとんどいなくて、可愛がり方自体を知らなかった。

昔、付き合っていた彼女に、「可愛いでしょ」とペットの写真を見せられた事がある。

ああ、猫だな、心ではそれぐらいにしか思わなかったけれど、「可愛いね」と答えていた。

ちゃんとそうして気を遣っていたつもりだったのに、付き合っていると結局、最後には冷たいと言われてしまう。

付き合うと何故だか上手くいかなかった。

友達だと揉めることはなかったから、何かが彼女たちを不満にさせるのだろう。

文句を言われるくらいなら、友達くらいがちょうど良かった。

人と付き合うのは程々にするのが疲れない、そう思った。

ドアの前にいた猫を見てそんな昔のことを少しだけ思い出していた。

あまり良い思い出ではない。

猫がいなくなったドアの前に立ち、鍵を開けた。

明日は久々の休みだ、ゆっくり寝ていよう。

もう何も考えたくない。

今日は久しぶりに湯船にちゃんと浸かって疲れを取ろう。

最近余計なことを考えるのは、疲れが溜まり過ぎているからかもしれない。

その日は湯船に浸かったお陰か、いつもより深く眠れた。

 

朝起きると、いつもより良い目覚めで、気分がスッキリしていた。

豆から挽いた、香り高いコーヒーを飲みながら久しぶりのゆっくりとした朝を堪能した。

なんとなくつけたテレビではカレー特集をしていて、ぼんやりとテレビを観ていたら、その影響で、無性にカレーが食べたくなった。

いや、テレビの影響だけではない。

前日から仕事仲間が、僕の近くでカレーの話をしているのが聞こえてきて、何となく頭に残っていたのもあるのだろう。

今日のお昼は、カレー一択だった。

いや、お昼まで待たなくて良い。

まだ九時過ぎだったけれど、散歩して早めのお昼ご飯でも良いと思った。

今日は気分が良い。

いつも休日は家で過ごす。

カレーを食べに出るとしても家の近くの昔ながらの喫茶店が僕の定番だったけれど、時間もあるので昨日仕事仲間が噂していた人気のカレー屋に行く事にした。

ネットで調べると十時オープン。

少し遠いが今から歩き出せば、ちょうどオープン時間に入れそうだ。

 

前日に大雨が降りきったおかげか、外の空気が澄んでいて気持ちが良かった。

今日は昨日と違い、からりと晴れていた。

カレー屋への道は、大きな川沿いをまっすぐ歩いて行ける、散歩するにもちょうど良い場所にあった。

川沿いの道は、犬を連れて散歩をしている人や、ランニングしている人がいる、綺麗で歩きやすい道だ。緑の綺麗な木々が立ち並び、木陰で休めるようにベンチが置かれていた。

ふわりと優しい花の香りが漂ってきた。

……ああ、春の香りだ、季節の香り。

春は、あちらこちらで花が咲いている。

川沿いにも春の花が咲いていた。

僕は花に詳しい訳ではないので、何の花かまでは分からないけれど。

僕とは違って、母は花が好きで詳しかった。

僕が子供の頃、花言葉など色々教えてくれていたが、ほとんど忘れてしまった。

ただ、母の一番好きだった花は覚えている。

ラナンキュラスと言う花だ。

薄い花びらが何枚も重なり合った、華やかな咲き姿をしている花。

難しい名前だったけれど、母が度々その花の事を口にしていたので僕まで覚えていた。

母の好きなピンクのラナンキュラスの花言葉は【飾らない美しさ】だった。

幼い僕にも、何となく印象的な言葉だった。

今日の暖かい日差しも、いつもは家で過ごす僕を遠くまで連れ出す後押しをしてくれているようだった。

こんなにお昼ご飯の為だけに出歩くのは珍しかった。

ただただ、その日は目的地まで歩きたくなった。

澄んだ空気、そよぐ風。

休日を満喫して歩いていると、ふと歌を口ずさんでいた。

そんな自分にハッとして歌うのをやめた。

気付くともうすぐそこにカレー屋が見えるところまで辿り着いていた。

川沿いから少し離れた所にあるその店はちょうどオープン時間で、ゾロゾロと客が入っている。自分も慌ててそこへ向かった。

その列の最後に急いで並んで思った。

昼になる前に来て良かった。

昼時に来たらきっと並ぶ気が起きないほど人が来そうだ。

こんな時間からカレーを食べたい人がこんなにいるなんて。

 

店内へやっと入れたと思ったら、何故だか四人席に通された。

たったひとりなのに。

こんなに混んでいるのに何でなんだろう、と思ったのも束の間「相席でお願いしています。よろしいですか」と店員が声を掛けてきた。

え? と思ったけれど、こんなに忙しそうな店で四人席にひとりで座っているのも気まずかった。

相席なんてした事がない。色々と頭をよぎったが断る余地のない聞き方に「ああ、はい」としか答えられなかった。

僕はあまりメニューを見ず、そのままついでにおすすめと書かれている一番人気のカレーを注文した。

程なく、店員に連れられて向かいの席に案内されて来たのは大学生ぐらいの短い黒髪の、小柄な女性だった。

小さくお辞儀をして座った彼女は、黒いヒラヒラとしたワンピースを着て小さいカバンを持っていた。

デートでも行くのかという格好をした彼女は、とてもひとりでカレーを食べに来るようには見えなかった。

というか、普通男女で相席とかするか? と店員の方をチラリと見たが、それどころではない忙しさだった。

彼女が向かいの席に通され、僕は何となく肘をついて手で顔を隠すようにして俯いていた。

見る気もないスマホを取り出して見るフリをしていた。

気まずいのもあったが、あまり顔を見られたくなかった。

自慢ではないがモデルをしている事もあり、初対面で容姿を褒められ、話しかけられる事も多かった。

気持ちの良い空気の中、散歩してきて面倒な会話をしたくなかった。

僕に構わないで欲しかった。

彼女は僕の空気を察してか、何も話しかけて来なかった。

少し安心した。

ただ、彼女はこの気まずい空間をどう過ごしているのだろうかと少し気になった。

俯いた顔を少しだけ上げてみると、彼女がこちらを見ていた。

いや、見ていなかった。

彼女は僕を通り越した後ろの辺りを見ていた。

僕は気になって彼女の視線の先を見てみた。

振り返ると窓の外、塀の上に白い猫がいるのが見えた。

彼女はその白い猫を見ていた。

いや、見ていたというより、猫に向かって百面相をしていた。

僕が向かいに座っているというのに、その顔、彼女は何をしているのだろう。

僕は自分の自意識過剰さと、彼女の自分の世界を楽しむ雰囲気に気が抜けて、ただただ可笑しかった。

猫に向けて変な顔をしてかまっている様子が、僕が存在していないような独特な空気感が変に居心地が良かった。気を遣わなくて良い。

彼女には、彼女だけの世界が展開していた。

猫に向けて変な顔をする彼女が面白くて、こちらが見つめてしまった。

テーブルに肘をついて口元を隠し、彼女にバレないように僕は笑っていた。

久しぶりに笑った。

その時、

「はい。お待たせしました」

と、待ちに待ったカレーが運ばれてきた。

向かいの彼女も同じカレーを注文していて、水が出されていた。

具がほとんど溶けてなくなっていて、しっかり煮込まれただろう、少し黒っぽいカレーは見た目から美味しそうだった。

この為に朝ご飯は食べなかった。

一口食べて、来て良かったと思った。

人気なのも分かる。

そしてこれは少し遠いお店だけれどリピートありだな。と頷いていた。

しばらくして向かいの彼女にもカレーが運ばれてきた。

彼女は小さな声で、「いただきます」と言って食べ始めた。

周りから見たらカップルにでも見えるのだろうか。

けれど僕たちは一言も交わす事なく黙々と食べていた。

美味しいけれど、食べ進めると、じんわりと後から少し辛さが喉にくるカレーだ。

僕は、すぐ右隣に置いてあったピッチャーを取り、空になったコップに水を注いだ。

向かいの彼女は大丈夫なのか気になって、チラリとコップに目をやると、もうほとんど空だった。

ピッチャーは、僕のすぐそばにあったから取りづらかったのかもしれない。

向かいの彼女に近い場所に水を置き直し、カレーを食べ続けた。

すごく満足だった。

帰ろうと席を立ち、伝票を持った時、彼女が声を掛けてきた。

「あの……、ずっと声を掛けたくて」

僕はちょっとガッカリした。

彼女の世界にも、僕はやはり存在していた。

結局声をかけられた。

「何ですか」

ちょっと冷たいかな、と自分でも思うトーンで返答していた。

もう会わないかなと思ったのもあって、社交的な自分は出て来なかった。

僕の世界に勝手に踏み込まれて嫌な気分だった。

「あの……、レジに行く前に言った方がいいかと思って。ここ、付いていますよ」

そう言って彼女は、自分の口元を指してジェスチャーした。

クールに、「何ですか」と返した口元には、しっかりと米粒が付いていた。

慌てて拭った。

こんなの、いつもは付けないのに、何でなんだろう。と言い訳をしたくなった僕に向かって、彼女が続けて言った。

「美味しいですもんね。ここのカレー」

フォローなのか何なのか。

この食いしん坊みたいな雰囲気が可笑しくて、今度はつい声を出して笑ってしまった。

彼女には「そうですね」とだけ返して、この独特な世界を僕は後にした。

 

帰り道、考え事をしていた。

あの香り、何の香りだったのだろうか。

彼女からも花の香りがした。

彼女は花を持っていた訳ではない。

香水か何かでも付けていたのだろう。

どぎつい訳ではなく、ほのかな香り。

何か僕の好きな香りだけれど、何という花の香りだったのか、やっぱり分からなかった。

帰り道、僕はまた気がついたら歌を口ずさんでいた。

気分が良いのは、暖かい日差しと清々しい空気、そしてカレーを食べられた満足感があるからだろうな、と思った。

帰り道にスーパーへ寄り、夜の材料を買った。

スーパーに行くのは久しぶりだった。

 

翌日の仕事の休憩時間、先日カレーの噂をしていた仕事仲間が話しかけてきた。

「お前、最近出来た噂のカレー屋、行った事ある?」

前に話しているのが聞こえてきて昨日食べに行った、という事は、何となく隠してしまった。

「ああ、一度だけあるよ。ちょっと前にね。相席お願いしてくる程混むなんて、相当だよな。相席になったの、初めてで困ったよ」

と言うと、その仕事仲間は「何それ、混んでいてもそんな事なかったけど」と笑っていた。

同僚はカレー愛を延々と語っていたが、頭に入ってこなかった。

僕の頭は違う事を考えていた。

僕はただぼんやりと、その話を頷きながら聞いていた。

家に帰ると、あの黒猫がまた家の前にいた。

僕はその猫を見て、あのカレー屋で猫に向かって変な顔をしていた彼女を思い出していた。

 

翌週、誕生日で僕は二十八歳になった。

ちょうどハイブランドの大きな仕事に抜擢されて、その仕事のお披露目の日でもあった。

緊張はしたけれど、みんなすごく良かったと褒めてくれた。

その日の夜、同僚がバースデーパーティーを開いてくれ、貸し切りで、テラスもある広い店に、仕事仲間や友人が集まってくれていた。

「おめでとう」

「最近活躍しているね!」

沢山のお祝いの言葉や、褒め言葉をかけてもらった。

手の込んだ料理がズラリと並んでいた。

仕事も順調で、こんなに盛大なパーティーで沢山の人に囲まれている僕に、足りないものは何一つ、なかった。

全てうまくいっていた。

これを幸せと言うのだろう。

沢山のお酒を飲みながら、ふとそう思った。

けれど、何かが欠けている気がしてしょうがなく、周りの音がぼんやりと遠のいて聞こえていた。

ふと風に当たりたくなりテラスに出ると、静かに風が吹き、程よく暗いテラスは心が落ち着いた。

煌びやかなその会場にいる人達も、なんだか他人事のように見えるこのパーティーも、僕の目にはぼんやりとぼやけて映っている。

ぼんやりとした頭で、

僕は眺めていた。

自分の人生を。

 

これが十年追いかけてきた、自分の欲しいモノだったのか。

それともこの人生の延長線上にあるのか。

僕は正しい道にいるのか。

これで合っていたのか、よく分からなかった。

やはりこの疑問はずっと消えずにいつも僕の頭の中をぐるぐると回っていた。

会場は賑やかで、主役のはずの僕の居場所を、特に誰も気には留めていなかった。

けれど寂しい訳ではなかった。

ただ、そこは大勢がいて煌びやかであっても、何かが足りない気がした。

そこには僕の求めるものはないように見えた。

キラキラとした様子はまるで、美しく装飾が施された空っぽの宝箱のようだった。

周りから見ると華やかで、何か人々をワクワクさせるような期待感を纏い、中身は何も入っていない宝箱。

このパーティーを準備してくれた人達を非難したい訳ではない。

むしろ感謝しかしていない。

……分かっていた。

空っぽなのは僕自身だ。

欠けているモノ。

僕にはやりたい事も、欲しい物も、夢中になれるモノも、何もなかった。

これまで、何も追いかけず、なんとなく周りの空気に流されてばかりいた。

 

褒められるのはいつも外見だった。

僕といてもきっとみんな楽しいなんて思わない。

僕自身も楽しみなんてなかった。

心が揺れ動くなんてことはもう何年もない。

ただ毎日を繰り返していた。

この場所は、幼い頃から身なりを整えられて褒められていた僕みたいだった。

装飾された空っぽの宝箱。

期待させるだけさせておいて、箱を開けたら、何もない。

ただの箱だ。

きっとガッカリさせてしまう。

僕には何もない。

褒められてきたこの外見しか僕に価値はない。

いくら評価されても、僕には何もないようにしか思えなかった。

誰か他人を褒められている気持ちにさえなった。

こんなに良い事しか起こっていない場所で、そんな事ばかり考えていた。

今日は無駄な事ばかり考えてしまう。

多分僕は飲み過ぎていた。

少しふらつく足でトイレに向かった。

すると、入り口あたりで僕の名前が聞こえてきた。

そして続けて「あいつ、最近調子良いよな。まあ、顔とスタイルだけは良いからな」

そう聞こえた。

ああ、またそれだ。

分かっている。僕が必死に抱えてきた武器は外見だけだ。

そんなものぐらいしか持っていないのは、僕が一番分かっている。

こんなタイミングでそんな話聞きたくない。

いつも中身は誰も覗こうとしないし、覗かれたくもない。

……多分、ただの冗談の掛け合いだった。

笑いながら軽く話している様子だった。

けれど僕はトイレに入れなかった。

パーティーの終盤はただの飲み会のような雰囲気だったし、そのまま誰にも言わずタクシーを拾って家に帰った。

 

帰ってから、またお酒を飲んだ。

何かにイライラしていた。

多分、トイレで聞いたあの冗談のせいだけではない。

自分に苛立っていた。

何本かお酒を空けると、グダグダになって寝転んだ。

 

そして、僕は幼少期の夢を見た。

母とカレーを作っていた。

あの頃はよく母の料理の手伝いをしていた。

僕が手伝う時のメニューは決まってカレーだった。

僕がジャガイモの皮を剥いて、煮込んでいる時にぐるぐると混ぜる役だ。

一緒に作る時間はとても楽しかった。

最初は難しかった皮剥きも、段々と上達して母に褒められた。

母はカレーが出来上がると、「世界一のカレーが出来た!」「作ってくれたからすごく美味しい」と沢山、僕を褒めてくれた。

母はカレーを食べて幸せそうに笑った。

僕も、幸せだった。

母と作ったカレーも、本当に世界一の味だと思った。

「お母さんの為にまた僕が作ってあげるね」

母がほとんど作っていたカレーだったけれど、僕はそう言って張り切っていた。

もっと上手になって、母を喜ばせたいと思った。

 

ふと目覚めると、夜中の二時だった。

無性にカレーが作りたくなった。

食べたくなった。ではない、無性に作りたかった。

カレーにこだわりがある訳でもない。

むしろあれから大人になってほとんどカレーを作っていなかった。

凝ったカレーなんて作り方が分からない。

市販のルーにジャガイモ、人参、タマネギ、牛肉。

普通のカレーで良かった。

立ち上がり、キッチンに向かった。

バタンと冷蔵庫を開けてみたけれど、冷蔵庫はほとんど空っぽだった。

財布を手に取り、この間歩いた川沿いを通り、家から少し歩く二十四時間スーパーへと向かった。

あたりは真っ暗だった。

夜風に当たり、酔いもだいぶ醒めていた。

スーパーへと、黙々と歩いた。

何かに駆り立てられているようだった。

夜のひんやりとした風が吹き、夜風に吹かれて、木の葉がザワザワと音を鳴らしていた。

 

夜のスーパーはガランとしていて、いつもの見慣れた光景とは異なっていた。

夜中にこのスーパーに来るのは初めてで、その静けさになんだか別の世界にでも来たような気分だった。

僕はカレーの材料だけをカゴに入れていった。

最後にギリギリ残っていた牛肉のパックを手に取った時、急に誰かに声を掛けられた。

「夜中にお買い物ですか?」

振り返ると、カレー屋で相席した彼女が立っていた。

彼女は今日も同じあの黒いヒラヒラとしたワンピースを着ていた。

急にこんなタイミングで話し掛けられた事に驚き、言葉がすぐに出てこなかった。

彼女は僕のカゴを覗き込んで、

「カレーですか?」

と聞いてきた。

僕は無視も出来ず「……なんか作りたくなって」と、それだけポツリと答えた。

彼女は「食べてみたい!」とキラキラした目で僕の方を見た。

まだ会って二度目だというのに……。

彼女はひと懐っこい小動物のようだった。

「えっ? ああ、……別に、良いけど」

僕は彼女の純粋な眼差しに、知らずそう答えていた。

それにどうせ作った所で食べきりもしないカレーだし、ちょうど良いというのも頭をよぎった。

彼女は、

「本当に良いの? 食べに行っても! 今から!」と驚いた感じで言った。

今日の僕はどうかしている。

変な事になった。

自分で良いとは言ったものの、急に誰かの為にカレーを作る事になるなんて、しかもこんな夜中に。

まさか、ほとんど話した事のない彼女を家に招くようになるなんて。

自分も、自分の行動の訳が分からなかった。

ふと我に帰ったが、嬉しそうにする彼女に、やっぱりやめた、とは言いづらかった。

会計を済ませ、暗い帰り道を彼女と並んで歩いた。

カレー屋では黙々と食べて喋りはしなかったので気づかなかったが、彼女はお喋りだった。

家へ向かう道、彼女はずっと喋っていた。

「この辺に住んでいるの。もう少し歩いた先、あ、あの家」

彼女は川沿いに建っている家を指して言った。

ああ、近所だったのか。

こんな夜中に出歩いていて何をしているのかと思った。

今は大学生だという彼女は、僕より七つ年下だった。

多分お酒でも飲んでいたのだろう、少し酔っ払っているみたいで上機嫌だった。

僕があまり興味なさそうに話を聞いているのも気にしていないようだった。

カレー屋で態度の悪い所とかっこ悪い所どちらも見られているので、今更取り繕う気もなかった。

気を使わないで良い分、今はちょうど良かった。

よく知らない、僕の態度を気にも留めない彼女は、隣を歩いていても苦じゃない存在だった。

彼女の話は他愛のない話ばかりだった。

自分の家やこの道に咲いている花の話をしていた。

彼女は花に詳しかった。

彼女は川沿いに咲く花を一生懸命説明していたが、真っ暗で花は良く見えなかった。

楽しそうに笑いながら喋り続ける彼女と、適当な相槌で話を聞いている僕。

僕たちの声しか聞こえないシンとして静かで暗い川沿いの道を、僕らはゆっくりと歩いて家に向かった。

家に着いて、ドアを開けて思い出した。

飲んだまま出てきたのでテーブル周りは、ぐちゃぐちゃに散らかっていた。

普段はそんなに散らかす事もなかった。

物も少なく、置く場所もきちんと決めていた。

ごちゃごちゃと物があるのは苦手だ。

先ほど飲み散らかしていた、空き缶とゴミを慌てて片付けたが、彼女はあまり気にした様子はなかった。

先ほどまでおしゃべりだった彼女は、興味津々にぐるりと部屋を見渡していた。

見渡した所で面白い物も何も、別にないのに。

僕は何かを熱心に集めるわけでも、家電やインテリアにこだわりがあるわけでもなかった。

シンプルで生活に困らなくて整っていればそれで良かった。

唯一、休日に読む本が並ぶ本棚は、多少充実していた。

僕は買い物袋から材料を取り出し、台所に立った。

すると彼女は、

「手伝うね!」と言って張り切って腕まくりを始めた。

手伝う気だったのか。

まあ、ちょうど良い。

僕も別に料理が得意なわけではない。

二人でやった方が早く出来る。

僕はあまり自分で使う事のなかった小さめの包丁を彼女の為に出した。

すると手を洗って、準備万端といった感じの彼女がジャガイモの皮剥きを始めた。

彼女の手つきからは、普段は料理をしないのだな、と感じ取れた。

少し危なっかしい手つきに僕はハラハラしたけれど、ジャガイモの皮を剥く彼女のその瞳は真剣だった。

彼女は楽しそうだった。

一つ剥けるたびに、僕に誇らしげに見せていた。

一つに何分かかっているのだろうか? と思う皮を剥かれたジャガイモは、彼女の自信作のようで綺麗にまな板に三つ並んでいた。

無邪気に子供のようにはしゃぐ彼女を見て、気付くと僕も笑っていた。

 

出来上がったカレーを器に装いながら、自分の行動の可笑しさが面白かった。

……こんな時間にカレー作りなんて。

しかも人を招き入れて。

考え事をしていると、彼女の渡してくれた器を取り損ねた。

ガチャンッと、音を立てて割れてしまった。

「ごめんなさい」

彼女は、慌てて割れた破片を拾おうとした。

僕はとっさに彼女の伸ばした手を掴み、欠けた破片を触らないように止めた。

僕がぼんやりと考え事をしていたせいだ。

彼女は、ギリギリ破片に触れていなかった。

僕は安心した。

彼女の皮膚は、簡単に切れてしまいそうに柔らかかった。

「謝らなくて良いよ。別に君は全然悪くないから。向こうで座って待っていて」

と言って割れた器を片付けた。

ようやく準備を終えてテーブルに並べた。

このテーブルを誰かと囲むことは普段はなかった。

そもそも家に誰かを招く事がない。

向かいに座りあうと、カレー屋でのデジャブのように感じた。

今度は僕の家でカレーを一緒に食べる事になるなんて、想像もつかなかった。

お喋りばかりする彼女のおかげか、あの時のような気まずさは感じなかった。

喋りかけてくる彼女を、面倒だとも今日は思わなかった。

両手を合わせて心の中でいただきます、と言って食べ始めた。

彼女は声に出して

「いただきます」と言っていた。

カレーをスプーンですくい、彼女の様子をチラリと見た。

カレーを頬張り、「美味しい!」と言って食べる彼女の表情は幸せそうだった。

彼女の表情を見てまた少し僕の口元は緩んでいた。

僕は、胸の当たりがフワフワとしていた。

先ほどの夢の続きにいるような、妙に現実感のない不思議な感覚だった。

僕はぼんやりと母と作ったカレーの事を思い出し、スプーンを持った手が止まっているのに気付いた。

カレーを半分ほどたいらげた彼女が、そんな僕に向けて突拍子のない発言をした。

「ねぇ、カレー屋さんになったら良いんじゃない?」

「え?」と言って顔を上げると彼女の目は真剣だった。

僕はその発言に驚き、困りながら笑っていたが、一瞬自分の目頭が熱くなるのを感じた。

そして昔を思い出すように、

「子供の頃……」

小さい声でそう言いかけて急に恥ずかしくなった。

僕が何かを喋り出す前に彼女は続けて喋り出した。

「ねぇ、こんなのはどう?」

彼女は妄想の中のカレー屋の話をした。

その妄想話はやけに詳細だった。

でも、とてもヘンテコだった。

両手を合わせて、首を横に動かしながら出迎える店主。

しかもそのヘンテコな店主は、どうやら僕らしい。

そんな出迎え方をする店主なんて見た事がない。

先ほどまでの僕の恥ずかしさはどこかに行ってしまった。

酷い妄想話だったが、彼女の妄想話は普通をすっかり無視した、壮大な話だった。

サービスをしすぎる、その変な動きのカレー屋の店主の話は、たくさんのお店のアイデアを盛り込んでいて、とてもヘンテコで、温かくて可笑しかった。

「そんなのもう、カレー屋じゃないよ」と僕は少し笑いながら反論した。

彼女は、

「カレーを作って、それを食べるお客さんが来てくれたら、もう立派なカレー屋さんよ。そうでしょ? カレー屋じゃなかったら、何屋さんなの?」

また彼女はあの真剣な眼差しで言った。

カレーしか提供していないヘンテコな店主の店は、カレー屋でしかなかった。

僕はクスクスと笑った。

「君の世界は自由で羨ましい」僕の目は、やっぱり熱かった。

彼女の話は、涙が出そうになるほどに面白かった。

彼女はその後も話し続けた。

今度は僕に、どういうお店にしたいか質問攻めだった。

どういうサービスをしたいかや、どんなものを飾りたいか熱心に聞かれた。

僕は彼女のように想像力を膨らませてみたくて考えてみたけれど、何も出てこなかった。

ヘンテコな店主の僕も、真面目なカレー屋の僕も、僕の中では自由に描けなかった。

キラキラとした笑顔で喋る彼女が、とても眩しく見えた。

僕の困りながら考える顔を見て、彼女は満足そうに優しい笑みを浮かべた。

 

今までの人生は、人に勧められた事をしてきた。

特別僕が惹かれたから、という訳でもなく。

仕事だけではない。着る服も、持ち物も、なんとなく選んできた。

自分が何を好きなのか分からなかった。

無難で、みんなが良いという物を選んだ。

もう自分が、何が欲しいのか分からなくなっていた。

たとえ自由に選んで良いと言われても、どれを選び取れば自分に正解なのか、僕には分からない。

 

僕が小学生だった頃、親戚の叔父さんがよく家に遊びに来ていた。

鼻が高くて口髭を生やした、髪がちょっと長めの叔父さんだった。

近所に住んでいるおじさんたちと違って、個性的な柄のシャツに、クタっとした短パンを履いていた叔父さんは、若い青年のようだった。

僕はよく遊んでくれる、お兄ちゃんみたいな存在のその叔父さんが大好きだった。

叔父さんの口癖は、

「世界はヘンテコだから気を付けろ。お前が思っている以上に面白い」だった。

僕はあの頃、叔父さんの言っている事の意味が分からなかったが、コクリと頷いていた。

僕にとっては、ちょっと変な事を言う叔父さんも、面白い服でいつも遊びに来る叔父さんも、とても自由でカッコ良く見えて、家に遊びに来てくれると嬉しかった。

けれど叔父さんは、僕が中学に上がる頃に「世界を旅する」と言って、家に遊びに来なくなった。

彼女と過ごして、ふと、その叔父さんの事を思い出していた。

 

その日から彼女は、カレーを作る時は度々僕の家に来るようになった。

あの日美味しそうに食べていた彼女を見て、帰り際に「また来ても良いよ」と、僕が言った。

自分からそんなことを言った事にも、自分で少し驚いていた。

けれど、もう少し彼女のヘンテコで温かい世界に触れていたいと思った。

彼女といると、いつもの自分とは違っていられる気がした。

彼女の様に色々な話をする事が僕には出来なかったが、彼女は笑ってくれていた。

僕と居て何を楽しいと思ってくれているのか分からなかったけれど、その疑問も、どう聞いたら良いかすらも分からなかった。

会うたびに彼女に対する自分の気持ちが、だんだんと変化している事に自分でも気付いていた。

彼女は大学やバイト、家の事はあまり話題にしなかった。

僕と会わない日の彼女の事も、僕はもっと知りたかった。

 

彼女は、会う時は決まってあの黒いヒラヒラとしたワンピースを着ていた。

なぜいつもそのワンピースなのか僕には分からなかったが、かなり気に入っているみたいだった。

スカートをふわりとさせてちょこんと座る彼女は、可愛らしかった。

カレーを食べながら、やはり僕らはいつも他愛のない話をしていた。

ある日僕は、よく家の前に来ていた黒猫の話をした。

自分から話し出すのは珍しかった。

彼女は興味深そうに聞いてくれた。

そして彼女は、その猫に今度来たら餌をあげよう、それで懐いたらここで飼おうと言っていた。

嬉しそうだった。

僕もこんな話を楽しそうに彼女が聞いてくれるので少し嬉しかった。

けれど猫が僕に懐いている様子が想像出来なかった。

「きっと猫は僕に懐かないよ」

彼女ならそれが出来るかもしれないけれど、僕には無理だ。

動物には好かれない。

たとえ最初は寄ってきてもすぐに嫌になってどこかに行ってしまうだろう。

「絶対、そんなことないよ」彼女は前のめりになって、いつもより強い口調で僕に返した。

僕はそんな彼女の一言が嬉しくてなんだか心強かった。

僕の事を、僕より信じてくれているようだった。

それから彼女の話は、最近知らない人から好意の手紙が家に届くという話をしていた。

差出人の書かれていない手紙だ。

僕は、

「迷惑だったりしないの?」

と聞いた。彼女は、

「嬉しいよ。誰だかは分からないけれど、すごく素敵な人だったらどうしよう」と無邪気に笑って答えた。

僕は彼女から顔を逸らしながら、

「さあ、知らない」とだけ言った。

彼女は、続けて、

「手紙って、その人がすごく表れると思うの、字体とか、文章に。だから手紙好きなの。貰うのはすごく嬉しい。きっと手紙の人、素敵な人よ」と彼女は自信ありそうに言った。

彼女と今まで恋愛的な話は一切しなかった。

そんな関係性ではなかった。

僕がこれまでに付き合ってきた女の子たちみたいに彼女は甘えたり、恥ずかしそうにしたりしなかった。

いつも自然体で、無邪気で、幼い子供のようだった。

ただカレーを食べて、色々な話をした。

大半は彼女が喋っていて、僕は笑って聞いていた。

普段あまり笑わない僕も、彼女といると自然と笑うようになった。

 

そうやって数ヶ月過ごすうちに、彼女の誕生日がやってきた。

誕生日にカレーが食べたいという彼女の為に、前日にカレーを作った。

一応、遠慮でもしているのかと思い、違うものでも作るよ、と言ったけれど、彼女は誕生日も同じカレーを食べたいと言った。

カレーなのが重要だと言っていた。

彼女には何かこだわりがあるらしい。

 

誕生日当日を迎え、あの川沿いのベンチで待ち合わせをしていた。

約束の時間にはまだ随分と余裕があった。

早めに家を出た僕は、いつもは寄る事のない花屋に行った。

彼女に花くらい渡しても良いかな、そう思った。

店に入ると、彼女の香りがふわりと漂ってきた。

香りが漂ってくる先にあったのは、鉢に入った白く可愛らしい花だった。

彼女がそこにいた訳ではない。

そうか、僕の好きな香りの花の名は、ジャスミンだ。

僕は迷うことなく、白い鉢に植えてあるこの花にしようと決めた。

彼女からほのかに漂ってくる香りと同じ花を買った。

 

花に囲まれていると母の事を思い出す。

母はよく家に花を飾っていた。

スッキリと整えられた部屋のあちらこちらに、色とりどりの花が飾られていた。

そんな母とは、モデルの仕事を本格的に始めてからはずいぶん、会っていない。

中学生になってから、撮影モデルもしなくなって、母ともあまり話さなくなった。

何を話したら良いのかも分からなかった。

本格的にモデル活動を始め、一人暮らしになると様子が気になったのか、母から電話が度々かかってきていた。

出ないでいると、そのうちに電話はかかって来なくなった。

その代わりに手紙が届くようになった。

メールなどではなく、手紙だった。

『元気にしていますか』や、『仕事は順調ですか』など、僕を心配して気に掛ける言葉が並んでいた。

けれど僕は、母からの手紙に返事を書く事はなかった。

いろいろ僕に問いかけてくる文章を、煩わしくさえ感じた。

僕は思いを上手く言葉にするのが苦手だった。

言葉というのは繊細で、選び方を間違えると、人を傷つける。

僕はどの言葉を選べば良いのか分からなかった。

でも、彼女と出会って、今なら良い言葉を選べる気がした。

母に、初めて僕は手紙を書こうと思った。

花屋でそんな決意を固めていた。

 

程なく彼女と合流した。

僕は会ってすぐに彼女に花を渡した。

「良い香りだったから」

彼女は嬉しそうだった。

彼女に喜んで貰えるのが僕は嬉しかった。

けれど、重たいから後で渡せば良かった、と少し後悔した。

とにかく花を渡す事で頭がいっぱいだった。

僕には多分、余裕がなかった。

彼女はそういった僕の後悔をよそに、とてもご機嫌だった。

僕はそんな彼女を見て、何かとても満ち足りた気分だった。

 

その時、僕は僕にずっと足りなかったものを少し思い出した気がした。

 

幼い頃、僕はきっと母に喜んでもらう方法をいつもずっと考えていた。

それで一生懸命頑張ってきた。

褒められるのが嬉しかった。

……けれど、少し寂しかった。

僕の本当の声を聞いて欲しかった。

僕は、母に怒りに似た感情を抱いていたのかもしれない。

本当は、分かってくれないと駄々をこねる子供だった。

けれど、そういうものは言葉に出来ずに、胸のずっと奥の方に押しこめていた。

気づいて欲しかった。

母に、僕ならモデルだけじゃなく、カレー屋になれると言って欲しかった。

カレー屋に、どうしてもなりたかったわけではない。

そして、モデルになりたかった訳でもない。

ただ、僕の気持ちを見て欲しかった。

 

僕はあの頃、わがままを言わないように気を付けていた。

あの頃僕は、なんでも上手にできる、ちゃんと出来るお兄さんじゃないといけない気がしていたから。

父は、僕が幼い頃から海外赴任で家にほとんど居なかった。

唯一、僕の誕生日に一言、二言書かれた一枚のメッセージカードと、プレゼントが送られてくるくらいで、あまり父がどの様な人だったのか、記憶にはない。

それでも母は、「お父さんは人のために自分の時間を削ってまで働く素晴らしい人よ」と褒めていた。

僕がもらったメッセージカードを見て、

「良いなぁ。お父さんからもらえるなんて羨ましい。大切に想ってくれているね」と言いながら笑っていた。

けれど、母のその様子は少し寂しげだった。

僕はそんな母を見て、自分が母を守ってあげないといけない、という気がしていた。

それが自分の役割だと。

だけれど、僕も甘えたかった。

僕の父だという人からもらったカードには、シンプルで優しい言葉が書かれていた。

僕はその言葉とは真逆のような苛立ちに似た感情を、父に抱いていたのかもしれない。

こんなカードのどこが良いのか、羨ましそうに見ている母の気持ちが分からなかった。

僕は、母に見つからないように、毎年そのカードを捨てていた。

僕は、寂しそうな母の味方でいてあげたかった。

母に喜んでもらいたかった。

母の期待に応えないと。そう思っていると、いつからかどれが自分の本音か分からなくなっていた。

自分でも、自分の気持ちが見えなくなっていた。

いつしか、守りたかったはずの母に、すべて責任を押し付け、苛立つようになっていた。

自分でも気づかないうちに母を遠ざけるようになった。

それでも僕を心配して送ってくる母の手紙は、とても僕を息苦しくさせた。

そんな僕の前に突然現れた彼女は、いつもどこか母を思い出させた。

けれど、彼女と居ると濁ってしまっていた過去の思い出はかき消された。

彼女の世界は、いつだって楽しそうだった。

一緒に居ると僕の世界まで楽しくなるような気がした。

 

昼間の川沿いは、散歩やランニングをする人がいて、前に彼女と歩いた夜中の風景とは全然違っていた。

僕の数歩先をご機嫌で歩いていた彼女が振り返って言った。

「犬だ!」

可愛らしい子犬の散歩をしている人とすれ違った。

通り過ぎると彼女は、

「犬だったね~」

とだけ言っていた。

僕は、

「犬だったね」とだけ笑って答えた。

ご機嫌そうな彼女に僕はありきたりな質問をした。

「犬と猫だったらどっちが好き?」彼女はちょっとだけ考えて答えた。

「そうだねぇ~。……鳥!!」

その彼女の答えには、予想外すぎて戸惑った。

鳥?

二択だったのに、彼女はどちらからも選ばなかった。

僕は、今まで選択肢以外から選ぶ事をしてこなかった。

答えは決まったものの中でしか選べないと思っていた。

だって普通二択で聞かれたら、どちらかで答えるだろう?

彼女はいつも自由で僕をハッとさせた。

彼女は手をパタパタとさせる仕草をして言った。

「この空を、フワフワとどこまでも飛んでいくの。いや、ビュンビュンと、かな」

僕は

「ビュンビュンと?」とその勢いの凄さに笑ってしまった。

けれど彼女が鳥なら、フワフワともビュンビュンとも飛べるような気がした。

「犬と鳥と猫の中だったら、どれになりたい?」

彼女が聞いてきた。

僕が彼女に投げかけていた質問から大きく変わってきていた。

何になりたいか?

動物になりたいなんて思った事もなかったし、もちろんどれになりたいかなんて、考えたこともなかった。

僕は、沈黙して真面目に考えて答えた。

「……猫」

犬のように、主人に飛びかかっていくほど誰かに懐く自分も想像できなかったし、自由に飛べる鳥になっても行きたい所もなかった。

猫になったら、暖かく居心地の良い場所で、丸まって静かに過ごせる気がした。

彼女は僕の答えを聞いて、

「意外だね。鳥っぽいのに」と言った。

僕の何を見て鳥っぽいと言ったのか、彼女の頭の中は僕にはよく分からなかった。

僕に鳥っぽい所なんてない。

けれどあえて、なぜそう思うのか訊ねたりはしなかった。

たいして真面目な理由はなさそうに思ったから。

彼女との会話はいつも意外性があって面白かった。

僕が絶対考えもしないような事を思い付いては喋っていた。

彼女には、世界は違って映っているのかもしれない。

きっと彼女の目に映る空は、僕の目に映る空より美しい。

 

考え事をしながら歩いていると、気づくともう僕の家の前にいた。

家に着くと、いつものように彼女と向かい合ってカレーを食べた。

 

いつものような時間。

僕は彼女という存在と同じ空間に居るのが、とても心地良かった。

僕は、彼女と出会って変われた。

自分の本音を探し始めていた。

同じ世界なのに全てが違って映っていて、彼女と居る時間だけ、いつもより優しく温かい世界で。

もう一つの別の世界に存在している気にさせられた。

その世界の時間の感覚は曖昧で、不思議な気分だった。

そしてとても穏やかな日々だった。

 

僕はカレーを食べ終わると、まだ幸せそうに食べている彼女を見つめた。

自分でも自分の表情が穏やかに緩んでいるのが分かった。

彼女がこちらをチラリと見て、目があった。

彼女は僕の目をしっかりと見つめ返して、微笑んだ。

僕は一瞬、ドクンッと心臓の鼓動が大きく鳴ったのが分かった。

彼女は何も言わずに食べ続けた。

僕は誤魔化すように、窓の外を見た。

心臓は、続けてドクンドクンと、いつもより大きく音を鳴らしていた。

 

窓から見上げた空は、青く綺麗で心地よかった。

彼女といると、こうして良く空を見上げるようになった。

いつも彼女が空を見上げるからだ。

 

僕も幼い頃は空を見上げ、空想するのが好きだった。

……けれど、ある日からしなくなった。

僕はその日のことを、忘れようとしていたけれど、胸の奥の方にずっと引っかかったまま、忘れる事が出来なかった。

 

小学四年生の夏だった。

青空が綺麗で、教室で空を見上げていた。

ぼんやりと空想に浸っている僕に向かって、当時好きだった女の子が、

「ニヤニヤして気持ち悪い」と言ってきた。

僕はショックで何も言えなかった。

ずっと今まで、そういう風に思われていたのだろうか。知らなかった。

気持ち悪いと言われてから、人の目が気になるようになった。

僕を見てヒソヒソと喋る人がいるのが気になり出した。

告白されたりもしていたので、僕を見てくる目が否定的なものなのか、好意的なものなのか分からなかった。

ただ、好意的であれば良いな、そう願っていた。

僕を見てヒソヒソと喋る彼女たちは、ほとんど僕に話しかけてこなかった。

 

今でも彼女たちの視線の答えを、僕は知らない。

彼女たちのチラチラ見る目と、ヒソヒソと喋るその様子は僕をすごく不安にさせた。

それから小学校での休憩時間は、人の来ない屋上近くの階段に座り込むようになった。

そこで本を読んでいたら心は穏やかだった。

 

今考えたら、気持ち悪いと言った彼女の言葉は、特別悪意のある言葉ではなかったのかもしれない。

ちょっとした冗談だったのかもしれない。

でも、その時僕は深く傷ついていた。

自分がすごく汚らわしいように思えた。

その頃から僕は、笑う時に口元を隠すようになった。

 

高校生になってからは彼女が出来た。

人から分かりやすく好意を持たれる事は素直に嬉しかった。

その頃は告白されたら付き合っていた。

けれど、彼女たちは僕の事を見ていなかった。

僕の顔は見ていたが、僕自身の事を見ていなかった。

いつも僕は僕の外側しか見られていない。

数人と付き合ってみたが、彼女たちはいつも自分の話をしていた。

僕が静かに映画を観るのが好き、という事さえ覚えていなかった。

家で映画を観ている最中にも、熱心に自分の話をしていた。

彼女たちが何の為に僕と付き合っているのか分からなかった。

僕も何で彼女たちと付き合っているのか分からなかった。

彼女たちが顔やスタイルを褒めるたび、僕に他に価値はないと言われているように思えた。

 

僕はたくさんの人が褒めてくれるこの見た目も、自分には醜くさえ見える時があった。

いつも不安だった。

僕は仕事で褒められるたびに、自分は大丈夫だ、と言い聞かせていた。

 

ぼんやりと空を見上げてそんな事を思い出していた。

今までみんなは見ようとしない僕の中身を、彼女は覗こうとした。

僕は多分何も入っていない箱だ。

彼女の様にお気に入りの物があるわけでもなく、思い描く夢があるわけでもなく、ただ期待されている事をひたすらやってきた。

僕は覗かれてがっかりされるのが怖くて、箱の中身を隠し続けていた。

見て欲しいけれど怖かった。

けれどきっと彼女は、開けた箱が空っぽでも、一緒に笑ってくれる気がした。

そして彼女の僕に向けられる温かな笑顔は、空っぽの僕にも、何かがあるのではないかと思わせてくれた。

 

そんな彼女と今、世界が混ざり合う様に一緒にいる。

僕の世界も優しく、自由になり始めていた。

 

僕らは食べ終わると、いつも窓際にあるソファで寛いだ。

彼女は僕に懐く小動物のように、僕の近くに座った。

お喋りばかりする時もあれば、彼女はじっとその時を楽しむように、ただ僕の隣にいる時もあった。

彼女と過ごす時間は、言葉でのやりとりがない時も、とても安心できて居心地が良かった。

今日の彼女は、何かずっと楽しそうだった。

僕の隣に座った彼女は、自分の世界に浸っていたかと思うと、

僕の膝をじっと見つめ、

「あ! 枕、見〜つけたっ!」

とゴロンと僕の膝に無邪気に寝転んだ。

彼女の行動や言動はいつも予測がつかない。

僕を驚かせ、僕の淡々と変わらず静かな心は、音を立てるように鮮やかに揺れ動いた。

僕は彼女といると、少年のように自然と笑った。

いつからか僕は、笑う時に口元を隠さなくなっていた。

お腹がいっぱいになって僕の膝に寝転ぶ彼女は、気持ちが良さそうだった。

ただ満足げに眠ってしまう子供のようだった。

「小さなケーキだけど、君の好きそうな可愛いケーキ。買ってあるから、後で紅茶でも淹れて食べよう」

と言うと彼女は、

「ありがとう。嬉しい」と言いながらにこりと笑って、目を瞑った。

今にも寝てしまいそうだった。

彼女の自然体で、飾らない無邪気な笑顔が好きだった。

 

僕は大人になって、自分の欲しいものがずっと分からなかった。

子供の頃は、そんな僕でも欲しいと母にねだった事があった。

小学校の同級生が、自分に懐く飼い猫の話をしているのが羨ましくて、僕も猫が飼いたいと思った。

珍しく僕は母にわがままを言ってペットショップに連れて行ってもらった。

店に入ってすぐのガラスケースに黒い子猫がいた。

僕はその子がいいと思って、ガラスの前にご機嫌で立っていた。

猫がこっちを向かないかな、と、じっと見ていた。

猫はこちらをチラリとだけ見て顔を背けた。

ケースの奥の方に移動し、じっと丸まって目を閉じていた。

黒い子猫はその後、ピクリとも動かず、僕に背を向けていた。

……僕は猫にも嫌われた、と思った。

少し寂しい気持ちになった。

店の中の周りの人たちの所には、犬も猫も寄ってきているように僕には見えた。

クラスの好きだった女の子に言われた、

『気持ち悪い』という言葉を思い出して、胸がじわりと苦しくなった。

僕は母に、もう帰ろう、と言って母の手を握った。

僕は欲しいものがなくなった。

 

いつだって、どうせ僕の周りからみんな離れていく。

動物にも、人にも踏み込むのが怖かった。

自分だけが一方的に好きなのは苦しかった。

僕だって好きじゃない、と思いたかった。

相手から好意を向けられないと僕は不安だった。

……彼女から好意を向けられているかは分からない。

でも、思えば彼女には最初から不安を抱かなかった。

何故だかは分からない。

彼女は初めから、何かがみんなと違っていた。

あの出会ったカレー屋で、彼女の世界に少し触れて、彼女は楽しそうで、自由で、誰にも囚われていなくて、眩しかった。

羨ましかったのかもしれない。

僕はきっと、彼女に憧れていた。

 

ウトウトとする彼女の頭をゆっくりと撫でながら、僕は窓から見える空を眺めた。

今日はいつも以上に、美しい空だった。

穏やかで暖かい日差しと、心地よく緩やかに吹く風が気持ち良くて、僕まで眠ってしまいそうだった。

 

——ハッと目が覚めた。ソファで、眠ってしまっていた。

この場所は、心地良くてよく眠りに落ちてしまう。

撫でていた頭から手をどけると、その子はぴょんっと飛び降りた。

「あっ、待ってジャスミン」

僕の膝の上から飛び降りたその黒い猫は、ベランダの近くに止まって休んでいた鳥めがけて飛びかかった。

ジャスミンが飛びかかったので、鳥はびっくりしてパタパタと大きな空へと飛んでいった。

『ジャスミン』は、僕が黒猫につけた名前だ。

マンションの前によく現れていたその猫を、僕は家に連れて入った。

最近は僕のあげる餌もよく食べてくれて懐いていた。

猫を飼う自信がなかったので飼うわけではなかったが、時々ジャスミンが現れた時にだけ、僕は家で餌をあげることにした。

ジャスミンが家に来る時に限って、彼女は家に来なかった。

懐いてくれた猫を、僕は彼女に見せたかった。

ジャスミンは残念そうに、鳥が飛び立っていった綺麗な青空を見上げていた。

僕はジャスミンと一緒に空を見上げた。

 

ここ最近は、またこうやってぼんやりと空を見上げ空想するようになった。

とても詳細で壮大な話だ。

カレー屋で出会った彼女のおかげで、また僕は自由に空想の世界を飛び回れる。

僕は何者にでもなることができた。

今までも、いつだって変わることができた。

 

僕の中身を見ようとしないのは、母でも、周りにいた人たちでも、他の誰でもない。

きっと、僕自身だった。

僕は自分に認められていなかった。

僕自身が僕を嫌いでいつも逃げていた。

僕は大人になってもあの幼い頃のまま、どう自分の気持ちを見ればいいのか分からず、周りばかりを見て、自分から目を背け続けた。

誰にも傷ついて欲しくなかった。

周りの期待に応えたかった。

自分が寂しかったのも、怒っていたのも、自分で気付かないでいた。

彼女の、温かい世界に触れるまで。

いつも自分の思いを言葉にできなかった。

どう言えば正しく伝えられるのか分からなかった。

ただ、誰かに気付いて欲しいと、分かってくれるかもと期待して、待っているだけだった。

たぶん、一言でよかった。

自分の言葉がまとまらなくても、全てでなくても、一言でよかった。

それだけでも、きっと僕の世界は違っていた。

正しい伝え方が分からなくても、きっと手を差し伸べてくれる人は、僕の周りには沢山いた。

僕はみんなが好きだった。

自分自身が分からず、言葉が出てこなくて、ちゃんと向き合うのがこわかった。

 

——人生は、ちょっとした思い込みがいつしか膨れ上がり、ねじ曲がる事がある。

僕に起こっていたことは、悲しい事や、苦しい事ではなかったのかもしれない。

すべては、僕の世界の見方が、息苦しかっただけなのだろう。

 

僕の頭の中と、世界の境界線は曖昧で、どこからが現実で、どこからが僕の思い描いた世界かが、時々分からなくなってしまう。

僕の感情が、世界を悪く濁らせて見せていたのかもしれない。

悲しみながら暮らす世界と、温かく優しい世界は今、僕の中で美しく溶け合っている。

 

彼女の優しく温かい世界に触れたあの日から、僕が見る世界は大きく変わり始めた。

 

僕はいつも、彼女にまたすぐに会いたくなる。

僕は子供のように駄々をこねても良いのだろうか。 

 

もっと君とずっと一緒に居たいと。

彼女なら、そんな僕のわがままもきっと笑って許してくれる気がした。

彼女になら、僕の不安で弱い気持ちも打ち明けられる気がした。

 

僕の側から、どうか離れて行かないで。

僕は面と向かって、いつもうまく彼女に伝えられない。

 

……ああ、そうだ。

彼女に手紙を書こう。

僕らしい、僕の言葉で。

僕にとって手紙は、僕を苛立たせ、苦しくさせるものだった。

けれど、彼女に出会って、見え方が変わった。

 

きっと手紙は最初から変わらず、

ずっと優しくて、温かくて、美しいものだった。



人生を歩む上での違和感、悩み。そういったものに出くわした時のとっさの反応。あなたは一体どう反応するのだろうか。
この物語を読むことで浮かび上がる、自分自身の輪郭。人生が大きく良い方向へと舵を切るのは、どういう時なのだろう。自分らしい生き方とは。

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