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猫と飴

第五話  猫

猫は、可愛いと思う。
けれども僕は、猫を飼った事がない。
 
猫は、僕の事を好きになってくれるのだろうか。
 
一時期、野良猫が懐いてくれた事はあるけれど、きちんと飼った事はない。
猫は爪とぎをするという。
あちらこちらボロボロにされるのだろうか。
可愛いから、結局ボロボロにされても許してしまうのだろうか。
猫にきっと悪気なんてない。
そもそも、こんな僕にちゃんと懐いてくれるのだろうか。
ペットショップに立ち寄り、猫を連れて帰りたいという気持ちと、上手くいかなかったらどうしようという気持ちが交差する。
 
僕には、七つ年下の彼女がいた。
事務の仕事をしている。
きっちりした仕事をしているのに、行動と発言はいつも突飛で、僕を驚かせる。
一緒にいて、いつも飽きない。
彼女は小柄で、モデルの仕事をしている僕との身長差は、三十センチ程はあった。
小動物のように、そっと僕のそばにいてくれるのが可愛らしかった。
 
数年付き合って二人暮らしをしようという事になった。
彼女は服や小物を沢山持っていたから、少し広めだった僕の家の物置にしていた部屋を片付けて、一緒に暮らした。
中々仕事の休みも合わない僕らだったけれど、一緒に住み始めて今までより長く時間を共有できるようになった。
 
休日には気になった映画を、お気に入りのドリンク片手にソファに座って二人でゆっくり楽しむ。
僕はもっぱらコーヒーばかり飲んでいたが、彼女は、冬はホットミルクに、ココア、夏にはレモネード、季節限定のコンビニのドリンク、その時々の気分で楽しそうに選んでいた。
ただ静かに映画を観る。
他愛のない時間だったけれど、僕にはその緩やかな時間が幸せだった。
 
天気の良い日は、二人で川沿いを散歩した。
最近買ったカメラを片手に。
川沿いを歩く前に、パン屋に寄るのが僕らの楽しみだった。
サクサクのクロワッサンが美味しいパン屋で、僕は決まってチョコクロワッサンとカレーパンを買った。普段はあまり甘いものを食べる方ではなかったけれど、ここのチョコクロワッサンは別だ。
彼女は定番にしているものはなく、いつも違うパンを選んだ。
そのパンを、木が立ち並ぶ川沿いのベンチに座って、パン屋で一緒に買った香り高いコーヒーを飲みながら一緒に食べる。
遠くまで出掛けなくても、僕はそれで充分幸せだった。
 
彼女はいつも笑っていた。
楽しそうに笑う彼女と一緒に居るのが、僕は楽しかった。
毎日が穏やかで幸せだった。
今日も、彼女は急に僕の思いつかない事を言う。
「人生は、ずっと走り続けないといけないマラソンみたいだと思わない?」
「急にどうしたの? どういう事?」
「疲れて走るのをやめると、どんどん後ろから追い抜かれて行って、また走り出しても追いつけなくなっちゃう。それでもう、走るのが嫌になってくるの」
——そんな風に考えた事なんて、ないな。彼女の頭の中は不思議だ。
「多少休んでも追いつけるよ」
「それは足に自信のある人が言えるセリフだよ」
「そうかな。僕だったら疲れたら休むし、周りの景色も楽しみたいかもね」
——別に、一番を目指したいわけでもないし。楽しく、散歩のように走れたらそれでいいかな。
「……マラソンはそんな悠長にするものじゃないよ。タイムだって測っているし」
「別にタイムはどうでもいいよ」
「……私はみんなに置いて行かれるのが嫌だから休めない」
——そんなムキになる所かな?
「だから大丈夫だって。君は何でも頑張り過ぎだよ」
「だって、必死じゃないと置いていかれちゃうから。私は常に走ってないと不安よ」
「意外だね。君はネガティブに物事を考えそうにないから」
「そう? ……結構ネガティブよ」
彼女は笑って返した。
 
 
彼女はいつも、良く笑う。
けれどここ最近の彼女の笑顔は、いつもより少し暗い。
それとなく彼女に聞いてみたりもした。
「最近、元気ない気がするけれど、大丈夫? 何かあった?」
「何もないよ。大丈夫。ちょっと、仕事が忙しくて」
 
休みの日は、彼女は用事があると言って、一人で出掛ける事が増えた。
どこに行っているのかは知らない。
一緒に住み始めて数ヶ月。少しずつすれ違うような感覚だった。
何がきっかけだったのかは分からない。
 
一緒に居るようで、どこか遠く離れているようにも感じた。
彼女の頭の中は、僕の手の届かない所を求めているみたいで、触れられる距離にいるのにどことなく僕に寂しい余韻を残す。
そうなってしまうのは、僕に何かが足りないからなのか、彼女の興味が、目の前の僕との時間に留まればいいのにと、いつもの笑顔を向ける彼女を見て思った。
「どうしたの?」
視線が止まった僕を見て彼女が尋ねた。
「いや。何でもないよ。今度の休みはどうする? 久しぶりにどこか遠くにでも行く?」
「あ……うん。いいね。どこに行こっか」
その静かな間が何なのか、僕には分からない。
気乗りしていないのだけは、何となく読み取れた。
「……。やっぱり、良いよ。最近忙しいんだったよね。家でゆっくりしようか」
「うん。それも良いね。遠出はまたしよう」
 
休日、僕らはいつものソファで久し振りに二人でゆっくりと過ごした。
休みが丸一日合うのは久し振りだった。
「何か映画でも観る?」
「う〜ん。あんまり今観たいのないし、私は良いよ。好きなのを観てて。ちょっと、本屋さんでもぶらりとして来るよ」
「あ……、じゃあ一緒に行くよ」
「ふふっ。良いよ。すぐに帰ってくるから。ゆっくりしていて」
「……うん。気をつけて行って来てね」
「は〜い。行ってきます」
 
 
 
 
 
 
 
追いかけても、追いかけても、彼女はいつもどこかに行く。
彼女はずっと何かを追い求めている。
そんな彼女を追いかける。
ずっと捕まえられない鬼ごっこ。そんな感じだ。
僕は無意識に出てしまったため息に気がついて、何か面白い映画がないか探した。
それからしばらくして帰ってきた彼女と、いつものように過ごした。
 
数日後、気まぐれな彼女がまた急に思い立ったように言った。
「そういえば、言ってなかった」
「何を?」
「私、来週からフランスに旅行に行ってくるから」
「え? 何で?」
彼女はいつもこうだ。
本屋に行くのとは訳が違う。
何でこんなに急なんだ。
「行きたくなったの! 前々から行きたいな〜って、思ってて、最近、よしっ! 今だ! って、思って」
今だ。って、なったんだ……。
「……寂しくなるね」
「そう? ただの旅行だよ?」
彼女はキョトンとして言った。
「うん……そうだね」
彼女はならないのだろう。
……いつもそうだ。ぼんやりとそんな事が頭を過ったが、僕は、
「気を付けて行ってきてね」それだけしか言えなかった。
もっと早く言ってくれるとか、決める前に相談するとか普通そうじゃないのか?
僕は頭の中に色々と言葉が浮かんできたけれど、きっと今は、楽しそうな彼女に詰め寄るようなタイミングじゃない。
彼女はフランスの観光用の本を持ってきて、僕に見せた。
「ここ! ここは特に見たいの! ヴェルサイユ宮殿! 絶対素敵だよね〜」
彼女は目を輝かせながら僕に共感を求めた。
「うん。綺麗だね」
そう言いつつ、僕はイライラしていた。
「あとね、ここ! ここも!」
「うん。……でも……僕は……」
そう言いかけて、息を吸い込んだ。
そしてもう一度吐き出すように言った。
「寂しいよ」
彼女の目を見て、言った。
彼女は微笑み、
「ありがとう」と僕に返した。
……ありがとう? 意味が分からない。
僕はまたイライラした。
 
行って欲しくない、とまでは言わない。
僕は駄々をこねる子供ではない。
そして、行くと決めたら行ってしまうのが彼女だ。
僕も、一人で出来る何かをしよう、この機会に。
もう他に彼女に対して僕から湧き出る言葉はなかった。
 
——彼女は旅行から帰ると、沢山のお土産を僕に渡してくれた。
 
「何が好きか分からなかったから。色々買ってきたの」
「ありがとう」
見慣れないパッケージのお菓子やよく分からないステッカーを渡され、どうしていいか分からず、僕はとりあえずそのステッカーを自分のスマートフォンに貼った。
彼女は、お土産のセンスも独特だ。
もっと王道の物でもいいんだけれど……。
 
彼女は旅行の荷物を部屋にばら撒いて、一緒に食べる用に買ってきたという、彼女好みのチョコレートと紅茶を準備し始めた。
「片付けしてからにしないの?」
「いいの。ちょっとお茶タイムしてからにしよう。疲れちゃった」
そう言う彼女に、細かくあれこれと言うのは、やめた。
 
それから数日後、仕事から家に帰ると、部屋に彼女は大きなゴミ袋を三つも並べていた。
彼女の手元にはまだゴミ袋。段ボール箱をひっくり返して、沢山の服や小物の中から一つ取り上げて眺めては、ゴミ袋に入れていた。
「何をしているの?」
「片付け! 要らない物を整理しようと思って」
「何で突然そんなこと始めたの?」
「フランスで、可愛いものを沢山見つけたの。これからは、もっと、お気に入りの物だけに囲まれる生活をしようと思って。必要のなくなったものを処分しているの」
僕は彼女が入れたゴミ袋の中から、一つヘンテコなポーズの狸の置物を取り出した。
これは僕と温泉旅行に行った時に、旅の思い出に。って、彼女が買っていたものだ。
「これ、前にすごく気に入っているって言ってなかった?」
「うん。それ、気に入っていたけれど、今はちょっと違うかなぁ〜って思って。今は、フランス気分!」
彼女は無邪気に笑って答えた。
僕は手に取った置物をテーブルに置き、
「……物は、大切にした方が良いよ」とだけ言った。
「うん。ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうにペコリと頭を下げて、笑った。
 
追いかけ続けるのに、少し、疲れた。
僕だけ、いつも必死だ。
 
 
 
それから数日後、仕事終わりに珍しく彼女から電話が掛かってきた。
「今日、早く仕事終わりそうなんだけど、夜外食とかどう?」
「今日は行けない。みんなでこの後ご飯行く事になったから」
僕は、わざといつもより冷たい口調で言った。
「はいは〜い。了解! 楽しんできてね〜」
「うん。……それじゃあ」
僕は電話を切ると、目の前の椅子にスマートフォンを投げた。
誘ってくるのも、いつもの気まぐれ。
彼女は、残念そうにもしない。
何故だか、こんな些細な事にまたイライラした。
 
家に帰ると、彼女は何かご機嫌そうだった。
「今度は友達と旅行に行こうと思って」
……またか。
「いつ行くの?」
「実は!! 明日から!」
「明日?!」
「ふふっ。ビックリした? 今日ね、仕事の帰りに久しぶりに大学の時の友達にばったり会って、なんか話していたら、じゃあ、もう温泉でも行っちゃう? って、なって。たまたま明日は休みが一緒だったの。だから、弾丸旅行!」
彼女は浮かれていたけれど、そのテンションに全くついて行けなかった。
「ふ〜ん。楽しんで来てね」
僕は自分の部屋のドアを開けて、浮かれている彼女から逃げるように、自分の部屋に入った。
猫だとでも思えばいい。
すぐにどこかに行ってしまう、彼女の気持ちは分からない。
 
翌日彼女は旅行に出掛けた。
 
旅行から帰ってきて彼女はまた物を増やしていた。
リビングに置かれた、また変なポーズをした狐の置物は、僕を小馬鹿にしているようにも見えた。
狸の置物と何が違うのか、僕には良く分からない。
 
僕はいつもより仕事場に長居するようになった。
自分が求められる場所に居ると安心した。
彼女とすれ違う日々が、少しずつ僕の苛立ちを積もらせた。
今日もいつものように仕事をこなして、家に帰り、荷物を椅子に置いた。
彼女はもう家に帰っているみたいだ。
気になり出したら、色々な事が目についた。
飲みかけでその辺に置かれたままのグラスも。あちらこちら、つけたままになっている電気も。
「……飲んだら、片付けてって言っているのに」独り言を言って、テーブルに置いてあったグラスを洗った。
 
……もういい加減疲れた。
彼女といると無駄にイライラしてしまう。
自分はこんな小さな人間だったのか。
僕は、ソファに深く座り大きなため息をついた。
仕事に疲れているのか、何に疲れているのか、自分には分かっていた。
 
すると部屋から出てきた彼女は、項垂れている僕を見て、
「おかえり。どうしたの? 悩み事?」と気になった様子で聞いてきた。
「ちょっとね」
「仕事の事?」
「いや、仕事は順調すぎるくらい順調だよ。また新しく大きな仕事も決まったし」
「……そっか。じゃあ、何の悩み?」
「——君には分からないよ」
「そんな事ないかもよ? 話してみたら?」
「……いいよ。きっと言っても何の事か分からないから」
「じゃあ、いいよ」
「……」
「これ、またプレゼントもらったの?」彼女は僕の持って帰った紙袋を見て言った。
「うん。まあね」
「いいなぁ。人気者で。モテすぎて困っちゃうね」
「……」
「こんなにプレゼントを送ってきてくれる人とかがいるんだよ? 何かに秀でているって、良いね。何でも持っていて……羨ましいな」
彼女は笑っていた。
何も分かっていないその笑顔にイライラした。
「確かに、人には恵まれているのかもね」
「その容姿だって、羨ましい。私もそんな風に生まれたかったな」
「どうでもいいよ。そんな事」
僕は苛立ちながら面倒くさくなって少し投げやりに返した。——そんな話をしたいんじゃない。すると彼女は、少し沈黙して、
「……どうでも良くなんかない」
静かに、けれども少し怒った様子で、彼女は珍しく声を荒げて言った。
何が彼女の怒りに触れたのか、僕には分からない。
「何を君がそんなに怒る事があるの?」
「別に。怒ってない」
彼女はさらに苛立った様子だった。
「そんなにイライラされても、僕には分からない」
「……モデルの仕事をして、結果も出して。器用で。あなたはずっと恵まれてる。……もちろん、努力しているのだって知ってる。——だけど——」
「別に、言うほど恵まれている訳じゃないよ。モデルの仕事だって、自分に出来る事をやっているだけ」
「ほら、どうせあなたにとっては、特別な事じゃないんだよ」
「何でそんなに急に喧嘩口調なの? 君だって、仕事頑張ってるし。そんなに怒り出されても、こっちは訳がわからないよ」
「じゃあ、放っておいて」
「何でそんなに投げやりなの? 僕、何か悪いことした?」
「……」
何でこんな些細なことで喧嘩になるんだ。
何が彼女を怒らせているのか、僕には分からない。
 
何かが噛み合わない。
最近はいつもそうだ。
彼女の僕を見つめる瞳は、最初は僕への愛情があるように見えた。
ずっと同じ気持ちだと思っていた。
いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
僕の好きと彼女の好きの種類は、初めから違っていたのかもしれない。
最初から彼女の僕にまっすぐに向けられていた瞳は、単なる仕事への憧れとかそういった類のものだったのか。
彼女は僕の何が好きなのか。
疑い始めたらキリがなかった。
永遠と答えの分からない問いを解かされるようで、気持ちが悪かった。
もうこの問いの答えをずっと考えていたくなかった。
 
僕の中で、何かが一気に崩れ始めた。
嫌なものを突き詰めてしまうなら、全てを壊したくなった。
 
「……気まぐれな君と一緒にいるのに、疲れたよ。別れたい。……他に好きな人が出来たんだ」
僕は、彼女を傷つけたくて、嘘をついた。
彼女の悲しむ顔が見たいと、嫌だと泣く彼女を見たいと、心のどこかで思っていた。
多分それは、考えるのをやめたかった問いの答えを、きっとまだどこかで求めていたからだ。
 
彼女はしばらく沈黙して、答えた。
「……分かった」
彼女は僕を責めもせず、少し悲しそうに……笑っていた。
そして続けて、
「じゃあ、何日か引っ越すための時間をちょうだい。荷物が多くてごめんね」と言って、近くにあったあの変な狐の置物を手に取った。
僕は、
「……うん」とだけ言って、彼女から目を逸らして、逃げるように自分の部屋に入って行った。
——傷ついたのは、誰だろう。
 
僕は、いつも嫉妬していた。
彼女を夢中にさせるものたちに。
僕の世界は、とても狭い。
 
 
 
数日後、彼女は出て行った。
まるであの沢山のゴミを出していた日が、この日を予兆していたのではないかとすら思えた。
あの、僕を小馬鹿にしていた狐の置物も、今はもうない。
 
彼女の持ち物が全てなくなったこの部屋は、彼女と一緒に居た日々の思い出が、家のそこら中に漂っていて、うっすらと彼女の気配がした。
物がなくなった今でも、僕はその気配に囚われてふとした瞬間に、思い出の中に留まってしまう。
 
終わる時には、やけにあっけなくて本当に現実味がない。
——現実味がないのは、優しい思い出の中に逃げ込んでいるせいなのか。
よく分からない。
馬鹿げた感情の暴走は、来るはずのない連絡をずっと待つというくだらない日常を生み出した。
あんな事言いたかった訳じゃないのに。
そう思ったけれど、彼女に傷を残したかったのは事実だ。
彼女に振り向いてもらいたくて、構って欲しくて、きっとやってしまった。
自分はもうずっと大人になっていたつもりで、ずっと誰よりも子供だった。
 
誰かから連絡が来るたびに、ハッとしてしまう自分に腹が立つ。
全てを滅茶苦茶に壊してしまったのは自分なのに、でも——壊してしまって後悔していない自分もどこかにいた。ホッとしていた。
もう限界だったから。
壊れてしまって嘆くより、少しの希望を持って壊したいと、あの時は思ったんだ。
後悔はしていないのに、いろんなものが急にどうでも良くなってしまいそうなのは何でなんだろう。
それでもまだちゃんと気力は立ち上がるほどには残っていて、回らない頭で仕事をこなす。
思い出に囚われなくなる日は来るのだろうか。
今はまだ、全然想像がつかない。
 
——ずっとここ数ヶ月、遠ざけていた川沿いを歩いた。
ここにさえ、彼女の気配を感じてしまいそうだったから。
今は、それを感じたくてきっとここに来た。
いつもの散歩コースのベンチに座り、考え事をしていた。
……何でこうなったんだろう。
一緒にパン屋に寄って、ベンチに座りくだらない想像の物語の話をしては、二人で笑っていた。
このまま、結婚する事すら当たり前のように思い描いていた。
夕陽を眺めながら、穏やかで優しい記憶を辿っていた。
——もう、戻れない。
ベンチに何時間座り続けていただろうか。
辺りは暗くなっていて、そろそろ帰ろうか。そう思っていると、僕の目の前へと一人の女性が歩いて来て、立ち止まった。
一瞬幻想の中にでも囚われたのかと思った。
僕の心は大きな音を立てて揺れ動いた。
——幻ではない。
彼女だった。
何ヶ月ぶりだろうか。
たくさんの感情が一気に僕の中を駆け巡ったが、掛ける言葉は見つからなくて、黙って俯いた。
彼女は、
「久しぶりだね。元気?」と僕に声を掛けた。
僕は、一瞬彼女の顔を見上げた。
けれど上手く目が見れずに、またすぐに俯いて答えた。
「まぁ。そうだね。……」
君は? と聞きたかったけれど、「元気」と答えられるのが何となく嫌で聞き返せなかった。
「……」
俯いたまま、無言の変な間が空いた。
彼女は静かにそこに立っていた。
けれど、少しして、
「じゃあ、行くね」と歩き出した。
数歩彼女が歩きだして、僕はようやく喋り出した。
「ここ、……座ろうとしてた? 僕はもう行くから君が座っていいよ」
と、彼女を呼び止めるように言った。
「じゃあ……隣に座るとか、どうかな?」
「……君が嫌じゃないなら」
僕がようやく彼女の目を見て答えると彼女は、
「嫌じゃないよ」とあの、可愛らしい笑顔で答えた。
彼女はスーパーに行った帰りなのか、手には食材が入った袋を持っていた。
「……買い物?」
僕は分かりきった質問をした。
「うん。カレーを作ろうと思って」
「そっか」
「最近は隠し味を入れて深みを出すのにハマっているの」
「それは、食べてみたいね」
そう彼女に返して、ハッとした。
少しだけ間を置いて彼女はニコリと笑い、
「美味しそうでしょ」
と答えた。
「……うん。君と結婚できる人は幸せだね」
優しく微笑む彼女に、思わず本音が溢れた。
こんな所で思い出に浸っていたせいだ。
自分から別れを告げた彼女に、無神経な事を言った。
急に現れた彼女に、きっと僕は動揺していたんだ。
彼女はまたちょっと間を置いて答えた。
「……じゃあ、来世は結婚しよう!」いつも以上に、悪戯な少女のような顔で笑った。
その言葉に、僕の心が瞬時に鮮やかに色づいたのが分かった。
それから彼女は続けて、
「来世の結婚の約束に、この飴をあなたにあげる」そう言って、飴を僕に渡した。
「飴?」
「そう。スーパーのくじ引きでもらったの。二回やって、二回ともこの飴。くじ運は昔からないの」
彼女は自分用に飴をもう一つポケットから取り出し、僕にチラチラと見せつけてパクリと食べてしまった。
僕は、
「飴で約束。って、……食べたらもう無くなるじゃん」
と少し色付いてしまった自分の心を笑って、彼女に言った。
彼女は、
「今世の約束じゃないから、無くなる物の方が良いのよ」
と飴で頬を膨らませながら笑顔で答えた。
続けて僕に、
「食べないの?」
と少し首を傾げて言った。
「今は、良いよ」
僕はその飴を上着のポケットに収めた。
やっぱり僕は未練がましい。
本当に自分が嫌になる。
「じゃあ、もう行くね」
そう僕は彼女に別れを告げ、立ち上がった。
「うん。バイバイ」
そう言って、彼女は小さく手を振った。
 
自分で壊してしまったものを、もう一度欠片を集めてまた同じように作る自信がない。
粉々になってしまった部分は、もう元の形には戻らないから。
美しいままの欠片を必死に集めた所で、全てが元通りの美しい形にはならない。
 
あんな場所で座り込んでいたりするからだ。
せっかく、和らいできた胸がまた掻き乱されるようだった。
——あんな風に思い出を追いかけて行くような事をするのはやめよう。
彼女にはもう——会いたくない。
 
それからは、なるべく仕事を多く入れてもらった。
何もしない時間は、過去に足を取られて引きずり込まれてしまう。
居心地がいいようで、苦しくなる世界は現実じゃない。
現実は今、目の前にあるものだけ。
とにかく足に絡みつくそれを引き剥がしたかった。
彼女とはもう、終わったんだ。
僕の中でもちゃんと終わらせたい。
長かった一日、一日を少しずつ短く感じるようになってきた。
やっと自分の現実の日常に戻って来られた気分だった。
今日も、仕事から帰って倒れ込むようにソファに寝転がった。
すると遅い時間に家のインターホンが鳴った。
僕は、疲れ切った体を起き上がらせてドアへと向かった。
誰が来たのかを確認すると、ぼんやりとしていた頭が急に目を覚まし、ドアを開けるか迷った。
 
今、一番会いたくない人だ。
 
何しに来たんだ? まだ忘れ物があったとか? 出て行ってこんなに時間が経って?
僕は、頭をかいた後一息置いて、ドアを開けた。
彼女は、あっ、というような表情をした後、この間より少し小さな声で言った。
「ごめん。この間、言えなくて……あの……私、付き合っている時、嫌な思いさせてたよね。きっと。別れたいって言われるまで、私、たぶん自分の事ばかり考えていて。別れたくなるほど嫌な思いとかさせていたのにも気がついていなくて。もう、……私の事、嫌いになった……のかな」
「別に……嫌いとかじゃないけど、もう、あまりこういう風には……会いたくないかな。この間は偶然会ってしまったけれど」
「もう、好きな人いるんだったよね」
「……君にも幸せになってもらいたいし。もう会うの、やめよう」
「あの……最後の日もちゃんと話せなかったのを後悔してて……モヤモヤするぐらいなら、もう一度会ってちゃんと話したいなと思ってきたの」
僕は、もう正直こうやって心をかき乱すのをやめて欲しかった。
僕が頭を抱えてため息をついたのを見て、彼女の表情は、少し悲しげに変わった。
「……用は、それだけ? もう話はしたから、いいかな?」
「あと、これを渡したくて来ました」
彼女は、ポケットに手を突っ込み取り出すと、片手いっぱいの飴を僕に渡した。
「飴?」
飴を渡されて、僕はこの間もらって上着のポケットに入れたままの飴を思い出した。
「……約束、ちょっと早めてもらえないかな?」
「約束?」
僕は唐突な彼女の発言に困惑した。
「私がもっと一緒に居たいって、伝えてなくて」
彼女の目は真剣だった。
そして続けて、
「……来世なんてあるかわからない。だから今言っておこうと思って。もっと一緒に居たいって」
「この間の、話?」
「うん。だめかな? ……だって、本当に来世も会えるか分からないし、好きになってもらえるか分からないし、それにそもそも生まれ変われるかだって……」
彼女自身も自分の発言に混乱しているようだった。
多分、頭に浮かんできたままを喋っているんだと思う。
僕は……きっと彼女より冷静だ。
大きなため息をついてから、彼女に返した。
「気まぐれとかじゃなくて?」
「うん。そう思ったら、どうしようもなく今、行かなきゃって思って……迷惑だった?」
彼女は気の弱い小動物のように、不安な顔を見せた。
迷惑かどうかと問われて、迷惑じゃないとは言い切れなかった。
やっと僕は自分の中で答えを出したはずだった。
「……」
「……あなたじゃないと、ダメなんだけど」
「……君は、僕なんて居なくても充分楽しそうだけど」
彼女は少し沈黙してから、
「……まだ……すごく、好きなんだけど、迷惑かな?」
と言った。
彼女は目に、こぼれ落ちそうな程に涙をいっぱいに溜めて、僕の瞳を強く射抜くように見つめていた。
初めて、彼女からはっきりと強く気持ちを伝えられた気がする。
 
彼女は、僕の心にたくさん傷を作る。
悪気なく。ボロボロにされるのに、耐えられなかった。
いつもイライラしてしまう自分を抑えないといけないと、葛藤していた。
僕のこの気持ちは、彼女にどれだけ届いていただろうか。
彼女には怒っていた。
不満があった。
彼女の言動に『傷付いた』と言葉にしてしまうと、酷く自分が壊れやすいものになってしまうみたいで、認めたくなかった。
『怒っている』の根源はきっと、『悲しい』や『寂しい』だ。
ずっと張り詰めていた気持ちが、少し緩んでしまったのが分かった。
ずっと僕の求めていた、彼女から僕に対する強い気持ちを聞いたから。
 
——やっぱり結局僕は許してしまう。
一緒に居たいと思う。
気まぐれで可愛い顔を見せる彼女が愛おしかった。
嫌いになんてなれない。
なかったことになんて出来ない。
忘れられなくて、今でもまだ僕の足に思い出が絡みつき、心を囚われていた。
 
彼女は、小さな手を僕に伸ばした。
その彼女の手は、柔らかくて小さな爪は、短く美しく整えてあった。
——そうだった。僕を引っ掻く、尖った爪はない。
僕を蔑ろにしているように見えた行動も、彼女はいつだって彼女らしく生きていただけだった。
——何かのせいにしたかった、自分がまたいた事に気がついた。
起こった事実以上に、僕の感情が彼女との世界を悪く濁らせていた。
僕の思考と、世界の境界線は曖昧になっていた。
悪い事なんて起こってなかったのに、勝手に不安に思っていた。
気付いたら同じ場所に迷い込んでいた。
いつも堂々巡りで、そこから引き上げてくれるのは、いつも彼女だ。
彼女を引き寄せ、抱きしめた。
押し込めようとしていた、僕の本音。
「他に好きな人ができたっていうのは……嘘なんだ。ずっと、君を想ってた」
——ごめんね。傷つけていたのは、僕だ。
続けて言葉にしたかったけれど喉の奥が、ぎゅっと締め付けられるようで、声となって出てこなかった。
 
可愛く、無邪気でいつも一生懸命な彼女。
彼女がずっと好きだった。
一緒に居たかった。
簡単だけど、忘れかけていた単純な事。
 
僕たちは、ただ無言で甘いキスをした。
時に目を合わせ、
何度も。
目を閉じる瞬間の彼女は、息を呑むほどに美しかった。
 
目を瞑って、余韻を噛み締める。
一つもこの感覚を忘れたくない。
このままこの場所でずっと浸っていたい。
 
この時間はきっと、彼女がくれた飴よりも、ずっと甘い時間だった。
 
——そうだ。猫の事もただ好きだった。
それだけで良かった。
想像して、勝手に不安になるなんて意味がなかった。
今度は彼女と一緒に、新しい家で猫を飼おう。
僕の幸せが詰まった場所だ。
自由に出入りして、みんなが戻って来る事ができる場所。
壊れてしまったものも、作り直したら、さらに美しいものが出来るかもしれない。
一度壊してしまったものを嘆いていても仕方がない。
もう僕は、願っているだけじゃない。僕の気持ちは、はっきり分かったから。
彼女がどうするかじゃない。
僕が、どうしたいかだ。
僕は、きっと僕の不安にまた飲み込まれていた。
もう飲み込まれない。そう今、決めたんだ。
 
堂々巡りを抜け出して、解決策を考え出したら気持ち悪かった胸の中が、やけにスッキリした。
 
僕は、またいつの間にか相手に伝えるという大事な事を忘れていた。
出来るようになったと、言えるようになったと思っていた。
けれど、言えずに溜め込んでいたものの方が遥かに多かった。
きっと、言っても分かってもらえないと相手の事を突き放すような、見下すような嫌な考え方をしていたんだ。
僕は自分自身の事を、まだ全然分かっていない。
自分は、こんなにも臆病だ。
 
自分の本当の気持ちをもう、間違わない。
僕は、最初からずっとどんな彼女も好きだった。
彼女への不満は、僕の不安でしかなかったんだ。
 
それから程なくして、猫を飼える家を見つけて二人で引っ越した。
僕が猫を飼いたいと言ったら、彼女は喜んで同意してくれた。
白猫か黒猫かで揉めはしたけれど、昔からずっと黒猫が飼いたかったという僕の主張が通り、黒い子猫を家に迎え入れた。
名前は、リリー。
彼女が名付けた。
新しい家で彼女は、お昼ご飯に特別なものを作ると言って、カレーを作った。
そのカレーを二人でお腹いっぱいに食べてソファに座り、他愛のない話をした。
 
暖かい日差しが入るその家のソファは、僕たちのお気に入りの場所だ。
 
静かに緩やかな時間が流れた。
彼女はぼんやりと空を眺めていたかと思うと、
今度は僕の膝を見つめて突然、
「あ! 枕、見―つけたっ!」と言ってゴロンと僕の膝に寝転んだ。
 
僕は笑ってしまいながら、お腹一杯で幸せそうな彼女の頭を撫でた。
子猫のリリーは彼女に先に膝を取られてしまい、残念そうに僕の隣で丸まって目を瞑った。
 
ポカポカと日差しが差し込むこの場所は幸せで、僕まで眠気に誘われる。
 
柔らかく風が吹いて、気持ち良さそうに寝転ぶ彼女からふわりとあの香りがした。
「また、昔つけてた香りのもの付けてる?」
「そう! ジャスミンの香りのオードトワレよ。よく分かったね」
「すごく久しぶりで、何だか落ち着く」
「色々な香りを試してみたくて使っていたけれど、結局この香りに最近戻したの」
「僕は、この香りが一番好きだよ」
「私も」
彼女は少女のように笑った。
 
彼女は、いつもすごく良い香りがする。
今日の香りは特別で懐かしい、幸せの香りだ。
 
彼女は僕の膝でウトウトとして気持ちが良さそうだった。
けれど突然、ぱちっと目を開け、急に思い付いたように僕に質問した。
「海外旅行するなら、どこに行きたい?」
「どうしたの? 突然」
「私、もっとあなたのやりたい事とか思っている事とか、行きたい場所とか知りたい!」
「ははっ。何それ。そうだね、行きたい場所かぁ。う〜ん……スペインかな」
「よし! じゃあ、今度は一緒にスペインに行こう!」
「一緒に?」
「うん! はい、約束」
彼女は寝転がったまま小指を立てて僕の前に出した。
僕は、笑ってしまいながら、同じように小指を出して彼女の指に絡ませた。
 
——ああ、大丈夫だ。僕はちゃんと彼女の視界に入っていた。
彼女はちゃんと僕の事も見てくれている。
気に掛けてくれている。
僕と彼女は見えない何かで、ちゃんと繋がっていたんだ。


人生を歩む上での違和感、悩み。そういったものに出くわした時のとっさの反応。あなたは一体どう反応するのだろうか。
この物語を読むことで浮かび上がる、自分自身の輪郭。人生が大きく良い方向へと舵を切るのは、どういう時なのだろう。自分らしい生き方とは。
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