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第六話 鳥


鳥は、優雅に、軽やかに空を飛ぶ。
あんな風に私も飛べたなら。
今日も、鳥を羨んで空を見上げる。
 
 
彼と二人暮らしを始めて、朝起きて、隣に好きな人がいる幸せを噛みしめていた。
何気ない時間が幸せだ。
 
休日は映画を見たり、お散歩をしたりして一緒に過ごした。
私はサスペンスやホラー映画はあまり今まで観なかったけれど、二人暮らしを始めて、彼と一緒に観るようになった。
怖いものは苦手だったけれど、頭から布団をかぶって少しだけ顔を出して観ていればある程度大丈夫だった。
そんな私の姿を見て彼は「新しい生き物みたいだね」と笑っていた。
彼の好みにも合わせたから、たまにはラブロマンスも一緒に観た。
彼は「遠慮しておくよ」と言って最初は避けようとしていたけれど、見始めると最後に泣いているのは、いつも彼だった。
彼は優しい。
すぐに感情移入してしまうのだろう。
誤魔化すように涙をこっそりと拭う姿が、彼の大人な雰囲気とのギャップがあって可愛かった。
彼は隠しているつもりだったのかもしれないけれど、私は彼が毎回泣いてしまっている事を知っていた。
涙を流す彼の綺麗な横顔を、こっそりと盗み見るのが好きだった。
 
お散歩は、二人の趣味だ。
彼は、最近カメラも楽しいと言って持ち歩いていた。
彼の部屋は物も少なくて、好きなものが分からなかったから、彼の楽しい物が増えて私も嬉しかった。

 
私の彼は、モデルの仕事をしている。
けれど彼はいつも自分の容姿に対して無関心だ。
いや、正確には無関心とかではない。
なんていうか、特別な贈り物だという事を自覚していない。
最初から持っている人には、人が羨ましがる気持ちは多分、本当の意味では分からない。
 
彼と居ると、沢山のものを持っていて羨ましいなと思う。
美しい顔の作りも、優しくて思いやりのある性格も。
自分自身が求められる働く場所も。
……私の持っているものは何だろう。
ソファに座り、窓から見える鳥を眺めた。
どこまでも続く空を飛ぶ鳥は、自由で楽しそうだ。
鳥が、羨ましかった。
——何で人間は、こんなに頑張り続けないといけないんだろう。
私のゴールって何なんだろう。
 
ある時、彼に尋ねた。
「人生は、ずっと走り続けないといけないマラソンみたいだと思わない?」
「急にどうしたの? どういう事?」
「疲れて走るのをやめると、どんどん後ろから追い抜かれて行って、また走り出しても追いつけなくなっちゃう。それでもう、走るのが嫌になってくるの」
——まるで人生みたいだ。
「多少休んでも追いつけるよ」
……足に自信のない人の気持ちは、分からないんだ。当たり前のようにそう言ってしまえる彼に少しイライラした。
「それは足に自信のある人が言えるセリフだよ」
——必死に食らい付いている人だっている。
「そうかな。僕だったら疲れたら休むし、周りの景色も楽しみたいかもね」
——だから、それが出来ない人もいるんだってば!
「……マラソンはそんな悠長にするものじゃないよ。タイムだって測っているし」
「別にタイムはどうでもいいよ」
——いい評価を受けるのが当たり前になっているから。
こう言う人に限って、周りからの評価とか気にしないとか言うの。
「……私はみんなに置いて行かれるのが嫌だから休めない」
「だから大丈夫だって。君は何でも頑張り過ぎだよ」
「だって、必死じゃないと置いていかれちゃうから。私は常に走ってないと不安よ」
——だって、結果を出した人ならいくらでも言ってもいいかもしれないけれど。
そうじゃない人は、そんなこと言ってたらダメなんだって!
「意外だね。君はネガティブに物事を考えそうにないから」
彼はそう言って、優しく笑った。
「そう? ……結構ネガティブよ」
私は笑って、また空を見上げた。
 
 
仕事を始めて数年経つと、ある程度責任のある大きな仕事も任される。
けれど、勤めた年数に能力が関係あるわけじゃない。
 
みんなの当たり前が、私にとっては当たり前ではない。
常識が私にとっては常識じゃない。
すぐにまた同じような事をする。
みんなの当たり前が、私にはできない。
仕事での小さなミスさえも見つけては、自分を責め立てる。
解決した事でさえ、反芻するように、その記憶を拾いに行く。
意味のない事だと分かっていても、やめられない。
反省している時間が、自分を真っ当な人間だと思わせてくれているようで。
……羨ましい。
自由に羽ばたく彼は、美しい鳥のようだ。
 
ずっと、何かが満たされないでいた。
むず痒くて、叫び出したいような。
不満というより、……もっと何か良いものがある気がした。
もっと自分を爆発させられるような、素晴らしい何か。
 
彼は、今日も私と一緒に居てくれる。
けれど最近は一緒に居るほどに、何だか憂鬱な気分になる。
何でなんだろう。
何だか胸が重い。
彼は、
「最近、元気ない気がするけれど、大丈夫? 何かあった?」と私の変化に気づいたようで声を掛けてくれた。
「何もないよ。大丈夫。ちょっと、仕事が忙しくて」
私は、笑って答えた。
 
理由をつけては、一人で出歩く事が増えた。
一人の時間は、心が落ち着いた。
彼と比べなくて済むからだ。
たぶん、自分に自信がないからだろう。
彼の横を歩く私は、いつも不釣り合いな気がしている。
身なりを整えて良い服を着ても、私なりに頑張ってみても、きっと彼のようにはなれない。
——どうすれば良い?
私はもっと、何をすれば良い?
色々な本を読んでみた。
自分を変える方法。
実践して、変わらなくて、やめる。
その繰り返し。
 
羨ましい。羨ましい。羨ましい。
 
憧れを通り越して、たぶんきっと彼が妬ましかった。
特別な何かを持っているのがずるい。
彼自身が望んでいなくても持っている。
彼が仕事の話をするたび、きっと、ずっと彼の事を妬んでいる嫌な感情と対峙していた。
彼はいつだって優しかった。
毎日、毎日。
彼のそばにいるほどに、嫌な自分が現れた。
そんな自分を眺めているのが嫌だった。
 
休みの日は、何となく彼と距離を置いた。
彼の事をちゃんと大切にできるか不安で、逃げていた。
彼のまっすぐな瞳を見る自信がなかった。
彼のように素晴らしい何かを持った人間じゃなかったから。
彼に見透かされてしまいそうでこわかった。
私は、不釣り合いな人間だ。
 
すごく何かをやりたいようで、何もしたくない。
時間が無駄に過ぎてしまう事に焦る。
私だって仕事はしている。
言われたことを必死に、正確にできるように。
社会になくてはならない、大切な仕事だ。……分かっている。
けれど——上手くは出来ない。
きっと、私じゃなくてもいいものだ。
思い描いていた未来とは違う現状。
もっと、私じゃないといけないものをしたかった。
 
私は、以前はお話を描くのが好きだった。
自分が描いた台本を舞台にしたら素敵だと思った。
彼を主役にした舞台。
お話を描き切って、コンクールに出してみた。
 
——けれど、良い結果は出なかった。
何年も描き続けて、ある時、描くのをやめた。
 
何も良いものを生み出せない自分に、がっかりする。
——私には彼のような特別な羽はきっとない。
 
グダグダ考えていても仕方ない。
……よし、旅に出よう。
自分探しの旅に。
場所は……ずっと行きたかったフランス!!
私はまた新しい、選んだ事のない選択をする。
彼は、旅行の話をすると、
「寂しいよ」と言ってくれた。
彼と一緒にいると、自分は必要な人間なんだと思えるようで嬉しかった。
「ありがとう」
私は彼に返した。
彼は優しい。
私を必要としてくれる。
本当に寂しいと思ってくれている様子が、私にじんわりとした温かさを運んでくれた。
私は悪い。
寂しい顔を見て喜ぶなんて。
そうだ! 彼には、とっても素敵なお土産を買って帰ろう。
 
彼へのお土産は、すごく悩んで買った。
彼の特別好きなものが分からなかったから。
一体、何だったら一番喜んでくれるのか。
彼の欲しいものって何だろう。
すごく悩んで、結局自分だったら喜ぶものを買った。
喜んでくれると嬉しいな。
 
フランスに行って、何だか全てをリセットできる気がした。
行動すれば、違う景色を見る事ができる!
そうだ、何かを変えたければ自分が動くしかない!
何かが少し分かった気がした。
私は、軽やかな気分で旅行を終えて家に帰った。
それからは、いつもより調子良く毎日を過ごした。
 
——けれど、ふとした拍子に、心が付いて来ていない事に気づく。
やっぱり心は何か、幸せを感じずにざわついていた。
 
また私の心が呟く。
……ああ、彼が羨ましい。
 
旅行から帰って、さらに物が増えて、部屋の中はたくさんの小物や、お洋服で溢れかえっていた。
 
私は、何でも溜め込む。
自分に必要なものが分からないから。
彼のように、身軽に、軽やかに、……私は飛べない。
 
そうだ。片付けをしよう! 要らないものを処分して、新しい自分だ!
部屋に押し込んでいた段ボールを引っ張り出した。
飾りきれない小物や洋服を詰め込んだ箱を一箱ずつひっくり返して、中身を確認しながら捨てた。
懐かしい! と思っても、今までの自分から変わりたくて手放した。
沢山の、沢山の物たち。
 
仕事から帰ってきた彼は、散らかっている部屋を見て驚いた様子だった。
彼はゴミ袋から一つ置物を取り出し、
「……物は、大切にした方が良いよ」と、私にガッカリするように言った。
きっと私の事をダメな人間だと思っている。
彼は優しいからそんな事言わないけれど。
彼は、一度買った物は大切にする人だ。
 
——私は、自分の大切な物が分からない。
全部必要で、全部必要じゃない。
すごく気に入って買っても、すぐにまた違うものが欲しくなる。
……彼に買われた物たちは、幸せ者だ。
 
「はい。ごめんなさい」と笑顔で返したけれど、悲しくなった。
彼に比べて、私はこんなにもダメな人間だ。
ゴミの数が、私のダメな度合いを大きく指し示しているようで恥ずかしかった。
私に買われて、可哀想な小物たち。
……いいなぁ。彼に選ばれる物たちは。
買っても、買っても、私は何でこんなにも満たされないんだろう。
 
あんなに欲しかった物なのに、ゴミ袋に入れて、ほっとした。
私を埋め尽くすものが減ったから。
ぐちゃぐちゃに、とっ散らかった私の頭の中もスッキリする気がした。
 
片付け終わって、フランスから買って帰ったお気に入りの宝石箱や、香水の瓶を、きちんと並べた。
これで、変われる気がした。
自分の好きな国に行って、要らなくなったものを手放して、好きな小物たちに囲まれて。
いつもと違う行動をとる! 新しい私!
いい感じだ! ……きっと。
 
——何かの不安が、不意を突いて現れる。
何かがダメな気がして仕方がない。
いつも同じ罠にはまるみたいに。沼に沈むように。
 
何かが、私の足を引っ張る。
前向きなはずの気持ちと裏腹に、もっと私の奥の方で、私を沈めたがる。
私はそれを、捕まえきれない。
 
ある日、大学の友達と仕事帰りに偶然会って、たまたま休みが一緒だったのもあって弾丸旅行をしようという事になった。
今は、何か気分を変えることがしたい。
旅行で愚痴を聞いてもらおうかと思ったけれど、仕事が充実していた友達には何も言えなくて、ただ笑って過ごした。
帰りに、お土産売り場で彼にそっくりな狐の置物を見つけた。
何だかすごく連れて帰りたくなって、沢山ゴミ捨てをして片付けしたばかりなのに、買ってしまった。
家に帰ると、また物を増やしてしまった自分が嫌になって、狐の置物をリビングに飾った。
自分の部屋がまた埋もれていきそうで、自分がこわかった。
 
毎日、同じような日々。
こんなに近くにいるのに、彼との距離が段々と離れていくようで、心がモヤついた。
 
 
 
 
 
ある日彼は仕事から帰ると悩み事があるのか、すごく疲れた様子でソファに座っていた。
私は、彼の事が気になり声を掛けてみた。
「おかえり。どうしたの? 悩み事?」
「ちょっとね」
「仕事の事?」
「いや、仕事は順調すぎるくらい順調だよ。また新しく大きな仕事も決まったし」
素直に良かったね、と言ってあげたいのに、心の中の私が呟く。
『またか。……嫌だな』
そんな自分のことばかりがすぐに頭をよぎる私は、きっと彼のようにはなれない。
「……そっか。じゃあ、何の悩み?」
「——君には分からないよ」
「そんな事ないかもよ? 話してみたら?」
「……いいよ。きっと言っても何の事か分からないから」
——そうだよね。私にはきっと分からない。
「じゃあ、いいよ」
「……」
「これ、またプレゼントもらったの?」
「うん。まあね」
「いいなぁ。人気者で。モテすぎて困っちゃうね」
「……」
「こんなにプレゼントを送ってきてくれる人とかがいるんだよ? 何かに秀でているって、良いね。何でも持っていて……羨ましいな」
「確かに、人には恵まれているのかもね」
「その容姿だって、羨ましい。私もそんな風に生まれたかったな」
「どうでもいいよ。そんな事」
その一言に、私の黒い部分がうねりを上げた。
「……どうでも良くなんかない!」
コントロールの効かない怒りが、急に爆発する。
ダメだと分かっているのに、暴れ出した自分の中の悪い部分を、私は野放しにした。
後で自分を責め続けるのも分かっていた。
けれど、止められない。
暴れ出すそれは、いつもは見つからないように押し込めているだけで、ずっとあった、私の一部。
「何を君がそんなに怒る事があるの?」
「言ってもどうせ分からない」
「そんなにイライラされても、僕には分からない」
「……モデルの仕事をして、結果も出して。器用で。あなたはずっと恵まれてる。……もちろん、努力しているのだって知ってる。——だけど——」
「別に、言うほど恵まれている訳じゃないよ。モデルの仕事だって、自分にできる事をやっているだけ」
「ほら、どうせあなたにとっては、特別な事じゃないんだよ」
「何でそんなに急に喧嘩口調なの? 君だって仕事頑張ってるし。そんなに怒り出されても、こっちは訳がわからないよ」
「だったら、放っておいて」
「何でそんなに投げやりなの? 僕、何か悪いことした?」
「……」
——理想の自分に程遠くて、落胆する。
綺麗になりたくて、人に優しくなりたくて、自分にしか出来ない心が躍るような仕事をしたい。
思い描く自分はあるのに、そうなれないのは……何で?
 
——分からない。
 
「……気まぐれな君と一緒にいるのに、疲れたよ。……別れたい。他に好きな人ができたんだ」
突然の事だった。
いや、突然じゃないのかもしれない。
どこかでずっと予感していた事。
——こんな私じゃ、彼には不釣り合い。
ずっと不安だったから、別れたいと言われて『ああ、そうだよね』と心の中で思った。
妙に納得した。
「……分かった」
彼の為には、それがいい。
私は笑顔をつくって答えた。
「じゃあ、何日か引っ越すための時間をちょうだい。荷物が多くてごめんね」
——すぐに片付けをしないと。
目の前にあった狐の置物を咄嗟に手に取った。
けれど、体は血の気が引くような感覚で、力が上手く入らず、手に取った小物を持っているのがやっとだった。
「分かった」と答えたのに——いつからだろう。どうすれば良かったのだろう。
と、いまさら手遅れの解決方法を、今になって延々と探していた。
探したところで、ダメなところばかりで、一体どうすれば良かったのか、答えは出ない。
 
急に安全な場所から閉め出されたような、どうしようもない不安感が押し寄せた。
——でも全部、自分のせいだ。
 
優しい彼なら、分かってくれるって、許してくれるって何処か、寄りかかっていた。
彼と居る時間が当たり前になり過ぎて、幸せな道がいつもの道に見えていた。
安全で、一緒に居ればどこまでも道は続いているように見えた。
けれど、今の私の足元には、崩れ落ちて先には進んで行けない崖みたいなものしかなかった。
一人になって、立っていられる場所の狭さに今になって気づいた。
この先の道は、どうやったら現れてくれるのだろう。
 
 
 
 
 
数日かけて荷物をまとめ、白いマンションに引っ越した。
何日も料理をする気になれず、コンビニでご飯を少しだけ買って食べた。
 
けれどある日、
——無性にカレーが作りたくなった。
思いついてすぐに買い物に出掛けた。
 
私は、一人暮らしになってひたすらカレーを作り続けた。
毎日のように食べていると、何か味を変えたくて色々調べた。
カレー以外を食べる気になれずに、隠し味に色々なものを試しては、ずっとカレーを食べ続けた。

 
いつものスーパーの帰り道、久しぶりに川沿いを歩きたくなった。
彼との思い出の場所だ。
家に帰る通り道ではなかったけれど、気づいたら足がその場所へと向かっていた。
 
ヒヤリとした風が吹いていた。
この川沿いは、学生時代にもよく通っていた道。
彼との思い出のベンチは、彼と出会う前から私の好きな場所だった。
 
あのベンチまで行こう。
今日は思い出にでも浸ろうかな。
カレーを作り続けて、夢中になる事を見つけて、やっと気持ちが前向きになり始めていた。
ベンチが見える所まで来て、辺りは薄暗かったけれど遠目でも誰がそこに座っているのか私には分かった。
もう会う事なんてないと思っていた人だ。
 
——なんでここにいるの?
ただベンチに座っているだけ。
それだけの事に期待してしまいそうになる。
 
私は、大きくなった鼓動を抑えつつ、彼に近寄り話しかけた。
「久しぶりだね。元気?」
彼は、私の質問に俯き気味で答えた。
「まぁ。そうだね。……」
「……」
やっぱり、こんな所に座っている事に、特別な意味なんてないよね。
 
「じゃあ、行くね」そう言って歩き出すと、彼が
「ここ、……座ろうとしてた? 僕はもう行くから君が座っていいよ」と私を呼び止めた。
「じゃあ……隣に座るとか、どうかな?」未練がましくも彼を引き留めた。
「君が嫌じゃないなら」
「嫌じゃないよ」
——正直、嬉しかった。
「……買い物?」
「うん。カレーを作ろうと思って」
「そっか」
彼との何気ない会話が楽しかった。
「最近は隠し味を入れて深みを出すのにハマっているの」
「それは、食べてみたいね」
そんな一言に、昔の思い出が頭をよぎった。——楽しかった思い出。
「美味しそうでしょ」
「……うん。君と結婚できる人は幸せだね」
その言葉にドキリとして、胸が高鳴ったのが分かった。
 
けれど、その高鳴りをかき消すかのように、
不安が私を捕まえにきて、現実に瞬時に引き戻されたのが分かった。
彼の表情は、私との未来を思い描いているものではなかった。
私は、一瞬だけ楽しい夢を見た。
すぐに、ただの幻想のようなものだと分かった。
 
「……じゃあ、来世は結婚しよう!」
ポケットに突っ込んでいた、くじ引きでもらった飴を取り出した。
「来世の結婚の約束に、この飴をあなたにあげる」
私は、きっと何かでまだ彼と繋がりを持っていたかった。
私には今、彼に渡せるものは飴ぐらいしかなかった。
——馬鹿げている。
過ぎ去っていく事も大切だと思いつつ、逃げ去っていくその時間の尻尾を掴もうとした。
もう一度だけと。
 
「飴?」
「そう。スーパーのくじ引きでもらったの。二回やって、二回ともこの飴。くじ運は昔からないの」
「飴で約束。って、……食べたらもう無くなるじゃん」
「今世の約束じゃないから、無くなる物の方が良いのよ」
——だって、彼にはもう好きな人がいる。
飴を食べながら笑顔で答えた。
「食べないの?」
「今は、良いよ」
彼は、ポケットにそのまま収めた。
私はその飴を、見えなくなるまで静かに見届けた。
彼のちょっとした仕草に、意味を見つけようとしたくなる。
意味なんてきっとないのに。
都合よく、記憶に色付けしようとする。私は、本当に馬鹿だ。
 
「じゃあ、もう行くね」
「うん。バイバイ」
そう言って、手を振った。
 
掴めるはずもない時間は、するりと私の手から溶けるように、なくなる。
最初からどうせそういうものだったと諦めてしまえば良い。
掴めないものを求めるのは、無駄に苦しくなるだけ。
 
——口の中で溶けてなくなった飴は、とても甘くて、幸せで、名残惜しかった。
 
 
 
 

それからは、ぼんやりと過ごした。
自分が分からなくなってしまった。
楽しかったはずのカレー作りもしたくなくなった。
どうしたら良いのか分からなかった。
 
 
それから毎日、自分がどうしていったら良いのか、答えを考え続けていた。
 
——ああ、まただ。
いつも、同じ癖。
気づいたはずなのに、同じ罠にはまる。
 
ずっと同じ所から抜け出せない。
不安が私を追いかけてくる。
 
諦めようとした。
何かに駄目だと囁かれているようで。
手放すのが正解と言われているようで。
でも、ダメかもしれないけれど、ぶつからずに諦めるのは、もう嫌だ。
ぶつかり続ける勇気がずっと私にはなかった。
飴なんて意味ない。
分かってる。
 
あのベンチで話した時間だって、きっと彼には特別な意味なんてない。
——けれど、私には大事なものだ。
何が自分にとって大事かは、私が決める。
私の人生は、私のものだ。
 
失敗を、恐れるな。諦めるな。
そうだ。切り開くのは、いつも、
自分自身だ。
 
私は、彼の家に走って行った。
彼の家のドアの前に立ち、インターホンを押す手が微かに震えているのが分かった。
 
ゆっくりと開いたドアの先には、困ったような、怒ったような顔をした彼が立っていた。
そんな彼の目を、しっかりとは見れなかった。
「ごめん。この間、言えなくて……あの……私、付き合っている時、嫌な思いさせてたよね。きっと。別れたいって言われるまで、私、たぶん自分の事ばかり考えていて。別れたくなるほど嫌な思いとかさせていたのにも気がついていなくて。もう、……私の事、嫌いになった……のかな」
「別に……嫌いとかじゃないけど、もう、あまりこういう風には……会いたくないかな。この間は偶然会ってしまったけれど」
「もう、好きな人いるんだったよね」
「……君にも幸せになってもらいたいし。もう会うの、やめよう」
「あの……最後の日もちゃんと話せなかったのを後悔してて……モヤモヤするぐらいなら、もう一度会ってちゃんと話したいなと思って来たの」
 
「……用は、それだけ? もう話はしたから、いいかな?」
「あと、これを渡したくて来ました」
私はポケットから掴めるだけ飴を掴んで彼に渡した。
「飴?」
「……約束、ちょっと早めてもらえないかな?」
「約束?」
彼は困った様子で、私に返した。
 
「私がもっと一緒に居たいって、伝えてなくて。……来世なんてあるかわからない。だから今言っておこうと思って。もっと一緒に居たいって」
「この間の、話?」
「うん。だめかな? ……だって、本当に来世も会えるか分からないし、好きになってもらえるか分からないし、それにそもそも生まれ変われるかだって……」
そう喋りながら自分が何を言っているのか訳が分からなくなってきた。
彼は、私とは真逆で、すごく落ち着いた口調だった。
「気まぐれとかじゃなくて?」
「うん。そう思ったら、どうしようもなく今、行かなきゃって、思って……迷惑だった?」
「……」
私の問いかけに、彼はすぐに答えなかった。
それが答えのような気もしたけれど、私は、何かを少しだけ期待してもいたし、それ以上に、彼のもっと奥底にある何かを聞かなければいけない気がした。
それが私にとって欲しい言葉じゃなくても。
誰かの一言を、こんなにも待ち望む事は、なかった。
私は、いつも自分の事でいっぱいいっぱいだったから。
彼の気持ちに耳を傾けて来なかった。
——そうだった。彼は、悲しいことも、苦しいことも、一人でじっと誰にも見つからないように隠してしまう人だった。
大切で、見逃してはいけない事。
たとえ悪い結果でも、私は聞きたい。彼の心の声を。——伝えないと、私の本心を。
 
「……あなたじゃないと、ダメなんだけど」
震えそうになる声を必死に抑えて言った。
 
「……君は、僕なんて居なくても充分楽しそうだけど」
突き放すように、紡がれた彼の言葉に、意志が少しだけぐらついた——けれど——
 
「……まだ……すごく、好きなんだけど、迷惑かな?」
私は、私の本当の気持ちを伝えるだけ。
あとは、彼が決める事だ。
私が決める事ができるのは、私の事だけ。
 
少し俯いてから私の目を見る彼の表情に、昔の私を優しく見つめる瞳を見つけた。
そして彼は困ったように——優しく微笑んだ。
彼へと伸ばした手が、何か不確かなものを掴もうとするみたいに、何か現実味がない。
 
彼は、私の伸ばした手を引き寄せて、私を抱きしめた。
「他に好きな人ができたっていうのは……嘘なんだ。ずっと、君を想っていた」
彼の微かに震える声が、耳元で優しく響いた。
 
聞きたかった彼の言葉は、
もしかしたら、私の空想なんじゃないかと疑いさえ持つように、霞を掴むように、現実味がなくて曖昧で。
彼の本心は、私の心を締め付けるような切なくて甘い言葉で紡がれていた。
夢かと思った。
——けれど、期待せずにはいられなかった。
これこそが現実だと。
 
クラクラして目が眩む。
幸せな時間がずっと続けば良いのに。
ずっとこの時間を——握りしめていたいと思った。
 
いつもより大きな自分の心臓の音が聞こえた。
胸に引っかかっていたものが取れて、冷え切っていた手足の隅々まで血が巡り、自分の体が戻ってきたような、本当の自分に引き戻されていくような感覚だった。
 
彼はいつだって、迷っている私を見つけてくれる存在だ。
私は、バラバラになっていた自分の気持ちを取り戻した。
いつも部屋中に散らばっていたのは、物だけじゃない。私の気持ちそのものだ。
 
新しい家に引っ越して、また彼との温かい日々が戻ってきた。
 
 
 
「また、あの昔つけてた香りのもの付けてる?」
「そう! ジャスミンの香りのオードトワレよ。よく分かったね」
「すごく久しぶりで、落ち着く」
「色々な香り試してみたくて使っていたけれど、結局この香りに最近戻したの」
「僕は、この香りが一番好きだ」
「私も」
彼の膝の上は、とても落ち着く、良い香りだ。
私の大好きな場所。
 
——ああ今、分かった。
大事なものは、溶けて無くなったんじゃない。
掴めなくて、悔やむものでもない。
形のないものだけど、ずっと私の周りにあったんだ。
掴むのに必死になり過ぎていた。
ずっと初めから、そこにあったんだ。
 
感じ取れば、いいだけだ。
柔らかく漂う、香りのように。
 
 

 
私は、いつからか、世間の常識から外れてしまっていた。
当たり前が分からなかった。
 
いや、最初から外れていたのかもしれない。
ずっと何がいけないのか分からなかった。
 
だけど、何が問題だったのか最近では分かった気がする。
正解ばかりを探すのをやめたら、私の答えが、勝手に私に歩み寄ってきた。
 

 
——ずっと不思議だった。
周りの価値観に馴染めない自分が。
常識を常識だと思えない自分が。
全て自分がダメなんだと思ってた。
なるべく隠して、押さえつけてた。
 
けれど、間違っていた。
——馴染むんじゃない。自分自身を表現するんだ。
 
無性に何かが描きたくなった。とても大きなもの。
私は、もっと自分を表現したいんだ。表現し足りないんだ。
私は、そのままお財布だけ持って画材屋さんに走った。
思いつくままに買って、家で広げた。
大きな紙に、パレットに、筆、沢山の色。
 
足元に筆を立てた。
大きな紙に、ぐるぐるに絵を描いて
——私は少しスッキリした。
 
ぼやけた私の輪郭が、なんだかはっきりするように、地に足がしっかりと着くように、私をこの世の中に、くっきりと浮かび上がらせてくれる感覚だった。

 
私の叫び声は、絵になった。
ドス黒い渦に、カラフルでキラキラな色を散りばめて、
私は夢中で描き続けた。
 
ああ。これだ。
綺麗な上澄みだけじゃない、ドロドロな自分も奥底から拾い上げて、全て。全てだ。
 
描きたい。
ただ描きたいんだ。
ずっと押し込めていた私の本心。
私は表現したかったんだ。
自分の中の感情や想いが溢れ出してきて、目の前が滲んだのが分かった。
 
感情には重さはあるんだろうか。
心には、それを溜め込む器でもあるんだろうか。
無いと言うのなら、なんで私の心は今、こんなにも軽いんだろう。
 
描き切って、床に寝転んだ。
ふと見た窓の外には、澄み渡った空に二羽の鳥が優雅に飛んでいるのが見えた。
 
 
 
いらないものも吐き出して、
今なら私も、高く飛べる気がした。
 
 
——急に爆発する、不安定なそれは、いつの間にか居なくなっていた。
私の中から、飛び出してそのまま消えてしまったのか、
それとも、何か別のものに姿を変えてしまったのか。
 
 
 
 
私は、生まれる感情の全てを大事に引き連れて、表現する。
 
もう一度描こう——私の物語を。
 

END



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