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私と猫

第三話  私と猫

私は美しいものが好きだ。

幼い頃から、可愛いものが好きだった。

キラキラしたものが好きだった。

 

私は子供の頃から、お姫様に憧れていた。

フワフワと広がるドレスに、キラキラと光る装飾の施された美しいお城で、毎日を過ごす。

きっとベッドはフワフワで、とても良い香りがする。

可愛くて美味しそうな、ちょこんとしたケーキと、綺麗なカップに注がれた紅茶でティータイムをする。

あとは……

お姫様になった事がないから何をしたら良いのか、分からない。

あ、舞踏会を開く!

……今の私にはきっと、遠いお話だ。

でもいつかそんな風になれるかも知れない、と今でも少し思っている。

みんなは笑うかもしれないけれど。

 

幸せな物語を考えて、紙に自由に描くのも好きだった。

お話を考えるのは楽しい。

お姫様のお話は、まだ上手く想像出来ないから描けていない。

けれど暇な時は、ペンを持ってこうやってぼんやりと考えていた。

 

学生時代は、だいたい決まった女の子の友達と一緒にいた。

高校生の時のグループは五人で、二人や三人に別れて行動する時もあったけれど、お昼ご飯や休憩時間は大体、五人一緒に行動していた。

お昼ご飯の時は、恋愛話や流行り物の話で盛り上がった。

私はいつも笑っていた。

休憩時間になると、彼女たちはみんな、爪をピカピカに磨いていたり、髪を整えたりしていて可愛かった。

私はそんな可愛い友達を眺めているのも好きだった。

恋愛話をする時、恥ずかしそうに話すのも可愛かった。

私はかっこいいなと思ってドキドキする先輩はいたけれど、彼の事を好きなのか、私には分からなかった。

かっこいい人も可愛い人も眺めるのが好きだった。

でも、どこからが恋愛として好きなのか基準が分からなかった。

私は学校の帰り道、いつもの川沿いの道を歩いていた。

そこは沢山の木が並び、お花も咲いていて良い香りがした。

私は川沿いのベンチに座って、一人でぼんやりするのが好きだった。

太陽もキラキラで、風がそよそよ吹いていて気持ちが良かった。

絶好のぼんやり日和だ。

楽しみに歩いていると、いつものベンチにカップルが座っていた。

私はすごく残念な気持ちになりながら、ベンチを横目にそこを通り過ぎようとしていた。

そこに、ぴょんっとベンチの後ろから何かが急に飛び出してきた。

白猫だった。

私はびっくりして立ち止まった。

ベンチに座っている女の子は「可愛い! 見て、猫だ!」と、はしゃいで彼氏らしき人に話しかけていた。

飛び出してきた綺麗な白猫にも劣らない、真っ白なワンピースを着た彼女は、とても美人だった。

話しかけられている男の人も、すごく整った顔立ちで綺麗だった。

そのカップルは、立ち止まった私を気にも止めていなかった。

同じ世界にいるのに、別世界にいるような人たちだった。

 

私は家に帰り、川沿いでの事を思い出していた。

あの真っ白なワンピースを着た彼女、素敵だったな。

私もあんな可愛い真っ白なワンピースを着て、あの川沿いを歩いてみたいな。

隣には素敵な男の子。

どんな人かは……まだ想像がつかない。

とりあえず、あの先輩で想像しとこう。

とりあえずにしても贅沢な想像だった。

 

大学生になってカフェでバイトを始めた。

高校生の時もスーパーでレジ打ちの仕事をしていたけれど、バイトができる時間も増えて、今度は大学の近くのカフェに挑戦してみた。

スーパーの時より時給もよく、日数も多く出る事ができた。

でも、覚える事が多くて大変だった。

特に大変だったのは決まり事が多い事だった。

……私は、決まり事が苦手だった。

普通分かるでしょ、と言った事で怒られた。

私には、みんなの言う普通があまり分からなかった。

私は『普通』や『当たり前』という言葉がいつも窮屈で息苦しかった。

何でなんだろうと思う事も多かった。

けれどみんな気にしていないようだった。

当たり前の事は、当たり前だ。

 

怒られながらも頑張って働いて手に入れた、高校生の時より多めのお給料で、真っ白なワンピースを買おうと思った。

 

私は、いつもは入らないずっと憧れていたお洋服屋さんに買い物に行った。

そこのお店は、いつもお母さんに買ってもらうお店よりずいぶん高くて、ドキドキした。

私は、私と同じくらいの背丈の可愛い店員さんに声を掛けた。

「白い、フワフワしたワンピースはありますか?」

初めてのお店だったのと、憧れのワンピースを買うというので、少し緊張していた。

「こちらはどうですか。白と黒の二色展開になっています。白はとても人気で、ここに出ているのが最後の一着です」と、私に取り出して見せてくれた。

私は、理想通りのフワフワのワンピースを目の前にして嬉しかった。

「試着、してもいいですか?」

と尋ねると店員さんは、

「もちろんです」と言って案内してくれた。

試着室に案内されて、私の期待値は最高潮に達していた。

「では、こちらを……」

ワンピースを手渡しながら可愛い店員さんの視線は、私の胸元あたりでピタリと一瞬止まった。

それから店員さんは、にこりと笑って私にワンピースを優しく手渡してくれた。

私はワンピースを受け取って、そのワンピースで胸元をさりげなく隠した。

ドアが閉められたのを確認して、私は自分の胸元あたりを見てみた。

私の着ていた白いTシャツには、ずいぶん前に食べこぼしたシミがうっすら点々と付いていた。

私はそのTシャツを、ささっと脱いでワンピースを着た。

とてもイメージ通りの素敵なワンピースだった。

私は着替えて店員さんを呼び、そのワンピースで胸元を隠しながら

「これの黒、ください」と言った。

私は一ヶ月分のバイト代で、黒のフワフワのワンピースを買って帰った。

 

休日、その日は朝から機嫌が良かった。

あのワンピースを着て、お出掛けすると決めていたからだ。

あえて友達と約束はしていなかった。

特に何も決めずに、一人で思いつくままにお出掛けしようと思った。

唯一決めていたのは、あの川沿いを歩く事だ。

高校生の頃に見かけた、白いワンピースを着ていた彼女のように、このワンピースを着てお出掛けすれば、私も素敵な人に出会える気がした。

 

童話のシンデレラのお話が大好きだった。

魔法をかけられ、綺麗なドレス姿に変身して、王子様に見つけてもらう。

朝から短い髪を巻いて、黒いワンピースを着た。

仕上げにお気に入りのジャスミンの香りの、オードトワレを少しだけつけた。

それだけで嬉しかった。

鏡の前でくるりと回ってみた。

スカートは柔らかく広がり、優しく揺れた。

それから、小さな鞄を持ってお出掛けした。

何かとても素敵な事が起こる予感がした。

川沿いを歩いていると、近くに行列ができているお店があって、店内にゾロゾロとひとが入って行くのが見えた。

ちょうどお店がオープンする時間だったみたいだ。

よし、今度はあのお店の所まで行こう。

近づいてみると、カレー屋さんだった。

そう言えば、友達が噂をしていた。

新しくこの辺に出来たカレー屋さんは、いつも行列が長くてすんなり入れない。

こんな時間にあんなに並んで入って行くなんて、きっとすごく美味しいんだろうな。

と、お客さんがみんな入りきったお店の前でメニューの看板を見ていた。

すると、自分の後ろに今度は列が出来始めた。

あれ? どうしよう。

でもすごく美味しそうだし、思い切って、一人で入ってみようかな。

もうお姫様というより探検家の気分だった。

その時、中から店員さんが出てきて、私と、その後ろに並ぶおじさま三人組をチラリと見て、私に「おひとり様でしたら、混み合っているのでできれば相席でお願いしています。よろしいでしょうか?」と聞いてきた。

よろしいでしょうか? と聞かれて、ダメですとは言いにくかった。

お店に入ろうか迷っていたところだったけれど、

「ああ、はい」と、答えてしまった。

そう答えるとサクサクと中へ案内された。

「こちらのお席へどうぞ」

ピシッと指先を揃えて案内された席の向かいには、男の人が座っていた。

その人にペコリと頭を下げて席に座った。

その人はこちらをチラッと見て、すぐに俯いた。

一瞬見せたその顔は、すごく整った顔立ちで、不機嫌そうな顔だった。

迷惑だったかな。

ふらりとお店に寄るべきじゃなかった。

しょんぼりとしていると、その男の人の後ろにある窓の外、塀の上にスラッと立っている、真っ白で美しい猫を見つけた。

白い猫はピタッと止まってこちらを見ていた。

猫は私に、そんな色のワンピースを選んだからじゃない? 白の方が可愛いのに、とでも言っているようだった。ただこちらをジーっと見ていた。

私は、黒も可愛いもん、という顔で猫のことをじっと見返した。

色々な顔をしてみたけれど白い猫はピタリと止まって訴える目で私をじっと見ていた。

その時、

「はい、お待たせしました」と言って、向かいの席にカレーが置かれた。

そして私の目の前には、グラスに入ったお水が置かれた。

「お決まりですか?」

と聞かれて、おすすめの一番人気のカレーを注文した。

向かいからは、とてもいい香りが漂ってきた。

あまりお腹は空いていなかったはずなのに、急にお腹が空いてきた。

私はさりげなく、チラリと向かいのカレーを見てみた。

とても美味しそうだった。

向かいの男の人は、礼儀正しく両手をきちんと合わせてペコリとして、食べ始めた。

口にカレーを運ぶと、うん、うん、と頷いていた。

とにかく美味しかったみたいだ。

納得の味らしい。

彼の口元には米粒が付いていた。

先ほどの不機嫌そうな顔とのギャップがあり、とても可愛かった。

こっそり笑ってしまった。

ずっと口元に付いているのに気付かず食べているから、教えてあげたくなってムズムズした。

程なくして、自分にも同じカレーが運ばれてきた。

一口食べて彼が頷いていた事に共感した。

多分、私も頷いていた。

来てよかった。

お宝を見つけた探検家の気分だった。

食べ進めると、口の中がピリピリしてきた。

後から少し辛さがくるこのカレーは、とてもお水がすすんだ。

私のグラスはほとんど空になりかけていた。

テーブルにおかわりできるようにお水が置いてあったけれど、彼のほとんど真隣にあった。

私は、彼の方へと手を伸ばす勇気がなかった。

お水は大事に少しずつ飲んだ。

もう少しでなくなりそうだな。

そう思った時、向かいの彼が自分のグラスにお水を注いだ後、さりげなく私の近くに置き直してくれた。

何も言わずに置いてくれたけれど、彼はきっと良い人だ。

私は、助かった、と思いながら自分のグラスにお水を注いだ。

少し辛いけれど美味しいカレーだった。

そして氷が沢山入ってキンキンに冷えたお水も、いつもより美味しく感じた。

 

私が半分も食べ終わる前に、向かいの男の人は席を立った。

チラリと確認した顔にはまだ米粒が付いていた。

器用に米粒を顔にくっつけたままカレーをたいらげていた。

彼の綺麗に整った顔立ちに、チャームポイントのようにくっついていた。

あ、このままではレジまで行ってしまう。

私は焦っていた。

「あの……!」

思い切って声を掛けた。

「ずっと声を掛けたくて」

気づいていたのに言わないわけにはいかなかった。

彼は、

「何ですか?」と言ってこちらを見た。

また不機嫌そうな顔をしていたけれど、米粒を口元につけてそう言う彼は、もう可愛くしか見えなかった。

「あの……、レジに行く前に言った方がいいかと思って、ここ、付いていますよ」そう言って私は自分の口元を指してジェスチャーした。

彼は慌てて口元を拭っていた。

私は続けて、

「美味しいですもんね! ここのカレー」

と言った。

おひとり様同士、いいもの見つけたね! という気分だった。

いや、彼は初めてではないのかもしれない。

いつもの味に頷いていただけかもしれない、とも思ったけれど、彼は、ふっと声を出して笑い、少年のような優しい笑顔で、

「そうですね」とだけ言ってレジに向かった。

一瞬見せられた彼の柔らかい笑顔と、自分に真っ直ぐに向けられた視線に、自分の心臓が飛び跳ねたのが分かった。

 

次の日は学校だったけれど、食欲がなかった。

朝ごはんは食べずに学校へと向かった。

一日中頭が回らない。

何だかフワフワした気分だった。

ぼんやりしながら昨日の事を思い出していた。

昨日行ったばかりなのに、またあのお店に行きたくなってソワソワしていた。

そして彼の笑顔を何度も、何度も思い出していた。

もう会える事もないのかな、と思うと気分も少し落ち込んだ。

フワフワしたりソワソワしたり色々な気持ちが入り混じっていた。

そんな様子のおかしな私を見て友達は、大丈夫? と心配してくれた。

私は昨日の出来事を話したい気もしたけれど、まだ誰にも言いたくない気もした。

大丈夫。元気だよ、とだけ言って、笑って返した。

また彼とどこかで会えないかな。

そんな事ばかり考えていた。

休憩時間、今日は男子二人組も私たち仲良し五人グループの会話に混ざっていた。

女子友達の一人がソワソワして、前髪をしきりに触って整えていた。

彼女は、その男子の一人に片想い中だった。

私はみんなで話している会話の内容に、あまり集中できなかった。

昨日のカレー屋さんでの事もあったけれど、今は友達の恋愛の行末の方が気になっていた。

友達が片想している彼はその想いに気づいているのかいないのか、わざとなのだろうか。

会話の途中で、友達の頭をポンポンと軽く叩きながら、からかっていた。

友達は、やめてよ~! と、その手をかわそうとしながら彼に言い返していた。

私は心の中で、良かったね! と楽しい気持ちになっていた。

きっとこの後は女子だけで、恋愛会議が始まるに違いない。

そう思っていた。

二人組の内のもう一人の男子は、鼻をしきりに触っていた。

「ちょっと、ティッシュ持ってない?」

鼻がむず痒かったらしい。

女友達の一人がポケットティッシュを、全部あげるよ、と言って渡していた。

「今、なんかの花粉の時期だったかな?」と言いながら鼻を少しかんでティッシュを丸めた。

会話をしていると、その男子が寄りかかっている机に、小さな虫が飛んできて止まった。

バンッ!

とっさにその男子は手に持っているテッシュで虫を潰した。

くるりと包んでゴミ箱に向かって投げた。

「やった! 一発で入った!」

その瞬間、その虫はただのゴミになった。

私は苦笑いをした。

今の、潰す必要あったかな。

けれど誰もそんなこと気にも留めていなかった。

私は少しだけモヤモヤしながらみんなの話を笑って聞いていた。

 

モヤモヤしてしまう事は、仲良しグループでの会話の中でも実は度々あった。

五人で話している時はみんな仲が良さそうなのに、二人、三人と少人数で話している時は、そこに居ない子の悪口で盛り上がる。

私は熱心に悪口を話す友達に、私はそうは思わない、とまでは言い返せなかった。

そんなに不満なら本人に注意してあげれば良いのに、と思っていた。

こんな所で言い合っていても何も解決にならないし、何だか楽しい気持ちにはならなかった。

けれど何も言えず、聞いていた。

せめてその話題を広げたりなどはしなかった。

私が居ない時は私の番かな。と考えるとゾッとした。

女の子同士の会話は、返すお決まり言葉のようなものがうっすらとそこに正解みたいに存在していて、無視できなかった。

その正解を無視すると、何だかそこの空間の空気を乱すみたいで、私も言わないといけない気がした。

私の中から自然と出てくる言葉ではなくて、世の中を上手に生きている女の子の言葉をかき集めて選んでいた。

自分の言葉を選ぶのが怖かった。

自分の言葉じゃ不正解な気がした。

けれど正解だろうという言葉は、自分の言葉じゃないから上手に扱えなかった。

でも私以外はみんな、上手に扱えている気がした。

みんなで集まって話す時間はキラキラとしていてとても色鮮やかで、少しだけ息苦しかった。

一人の時間は好きだった。

言葉の正解を選ばなくて良いし、自由に選んで良い。

 

それから翌週、サークルの飲み会があった。

ワイワイするのは楽しいし、好きだった。

お酒を飲みながら少しだけご飯を食べて、みんなの話を聞いていた。

なんとなく疲れていたけれど、途中で帰ったりはしなかった。

ようやく解散になったのが夜中の二時だった。

帰りにおにぎりか何かと、お水でも買おうと思って二十四時間スーパーに寄った。

おにぎりを探していると、背の高い目立つ男の人がいた。

夜中のスーパーに買い物しにくるような格好ではないので気になって見ていた。

よく見ると、あのカレー屋さんで相席になった彼だった。

すごく嬉しかった。

もう会えないかもと思っていたから。

私は、酔いに任せて突撃してみる事に決めた。

人生でした事のない大きな決断だった。

相手の迷惑を考えずに、思ったままの行動に出た。

「夜中にお買い物ですか?」

お肉コーナーで声を掛けると、お肉のパックを手に持った彼が振り返った。

え? という顔だった。

それはそうだよね。突然声を掛けるなんて。

覚えているかな、私の事。

……それにしても、こんな時間にお肉を買いに来るなんて変わっている。

と、思いながら彼の買い物かごを覗き込んだ。

ジャガイモに、人参、玉ねぎに、カレーのルー!

え? この人そんなにカレーが好きなの?

私は、

「カレーですか?」と、ほとんど答えが確定している質問をした。

彼は、

「……カレーが作りたくなって」とだけ答えた。

夜中にカレーが食べたくなった、ではなく、作る所からしたくなったって事?

私は面白くなってますます彼に興味が湧いた。

「食べてみたい!」

ほとんど心の声だったはずなのに、お酒でいつもよりブレーキが効かなくなって口に出していた。  

だって、彼の作ったカレーなんて食べてみたいに決まっている。

彼は、

「え? ああ。……別に、良いけど」と予想外すぎる返事をした。

え? 良いの? 良いって、食べて良いって事だよね?

自分で言い出したのにその返事に私の頭は混乱した。

けれどいつもと違う人生を歩き出したみたいで、このまま突き進んでみたくなった。

不思議な事になった。

人生で自分にこんなにも面白い事が起こるなんて。

彼の家に着くまでの間、私ばかりがずっと喋っていた。

彼に会った日がお酒を飲んでいた日で良かった。

いつもより自由に喋れる気がした。

「この辺に住んでいるの。もう少し歩いた先、あ、あの家」

私は指差して言った。

自分の事をもっと知って欲しかった。

そして彼の意外な面も、そのままの彼も全て見てみたくなった。

彼の事も、もっと教えて欲しかった。

彼のリアクションはとても薄かったけれど、カレー屋さんで彼が良い人だというのは気付いてしまったから、何も居心地の悪さは感じなかった。

彼に、私に会った事を覚えているかと尋ねると、覚えていると言ってくれた。

それだけで私は嬉しかった。

いつもは絶対に眠くなる時間、私の目は、とても冴えていた。

けれど彼と歩くこの時間は夢なのかな、と思わせるほどに、現実味がなかった。

すらりとした長身と整った顔立ちで、静かに夜道を歩く彼は、同じ世界に存在しているようには見えなかった。

真っ暗な川沿いの道は、風が吹くとお花の香りがした。

私の好きなお花だ。

幼い頃お花の本を読むのが好きで、色々覚えた。

夜道でよく見えなかったけれど、良い香りのするこのお花の特徴から花言葉までも彼に教えた。

彼がその事に興味があったかは分からない。

夜風が気持ち良くて彼の家に着く頃には、私の酔いはほとんど醒めていた。

 

彼の家はどんな感じなのだろう。

すごくワクワクした。

家の中はその人の中身が現れる場所だ。

こっそり秘密を覗くみたいで楽しかった。

すごく意外なお部屋だったらどうしよう。

それもすごく面白そう。

ドアを開けると、彼の顔立ちと同じように綺麗に整えられた空間で、本や小物たちが自分の居場所を知っているかのようにきちんとそこに佇んでいた。

すごく無駄がなくて、本が綺麗に並んでいて、空気が綺麗な気がした。

テーブルの周りだけ、彼が先ほどまでそこに座っていたのだろうな、という空気を醸し出していて、お酒の缶とごみが乱雑に転がっていた。

テーブルのゴミなんてほとんど気にならなかった。

一つ一つのものを大事に置かれたお部屋は、あの日私にお水を取れるようにと、近くに置いてくれた彼そのものだった。

放って置かれるものもなく、隅々まで気に掛けることのできる、美しい彼そのものだ。

けれどそのお部屋からは、彼の好きなものは分からなかった。

全てシンプルで必要そうなもので、無駄がなかった。

よく分からない置物も何も置かれていなかった。

彼は、さっと空き缶と散らかしてあるゴミを片付けると、カレーを作る準備を始めた。

私も何かしなくちゃ! と思って、

「手伝うね!」

と言ってほとんどした事のない、包丁での皮剥きを始めた。

細かく皮を剥いて何とかピカピカのジャガイモが出来た。

私は嬉しかった。

私にも出来る!

すごく上手に出来たと思った。

包丁でこんなにも綺麗に皮剥きが出来て、彼もきっとびっくりしているに違いない!

ピカピカのジャガイモを三つも作り上げて私は満足していた。

自分が誇らしかった。

カレーを作っている間も私ばかりが喋っていた。

私は楽しかった。

誰かと一緒にこうやってキッチンに立って作るのは久しぶりだった。

昔は、パン作りやお菓子作りをよくしていた。

カレーを一緒に作りながらその頃を少し思い出していた。

カレーはすごく美味しそうに出来た。

出来上がったカレーを器に彼が装ってくれた。

二つ目の食器を彼に手渡した時、渡し損ねて器が割れてしまった。

「ごめんなさい」

大切な器を割ってしまった。

慌てて拾おうと手を伸ばすと彼が、パッとその手を捕まえて、

「謝らなくて良いよ。別に君は全然悪くないから。向こうで座って待っていて」

と言い、テキパキと割れた器の片付けをしてくれた。

今まで私は、ごめんなさい、の後のお決まりの返し言葉は、「全然、大丈夫」や、「気にしなくて良いよ」だった。

けれど、彼の使う「謝らなくて良いよ」と「全然悪くない」という言葉は、私が全て許されているような気持ちで、すごく救われる素敵な言葉だった。

きちんと自分の言葉を選ぶ人だった。

私は罪悪感より、嬉しさが勝った。

 

器に盛り付けられたカレーを、彼がテーブルに並べてくれた。

カレーやスプーン、お水たちはこのお部屋と同じようにきちんとそこに整って並んでいた。    

彼は長くて綺麗な手をピッタリと揃えて軽くお辞儀をして食べ始めた。

その様子が、これから食べるカレーに敬意を表しているみたいで美しかった。

私も手を合わせて、いただきます、と言ってお辞儀をして食べ始めた。

一口食べてびっくりした。

すごく美味しかった。

私も食べた事があるルーを使ったカレーなのに、不思議といつもと違う味がした。

彼と作ったこのカレーは、あのカレー屋さんにも劣らない! 世界一の味だ。

私が剥いたピカピカのジャガイモも、このカレーの中にちゃんと調和して存在している。

最高で素敵なカレーが出来た! 半分ほどカレーをたいらげた時に、良い事を思いついて思わず彼に言った。

「ねぇ、カレー屋さんになったら良いんじゃない?」

すごく良い事を思い付いた! 彼ならきっと沢山の人を幸せにできる。。

本当にそう思った。

ワクワクして想像が膨らんだ。

彼が何か小さな声で言った気もしたけれど、私は思い付いたままに妄想の世界の話をした。

「カレー屋の店主をやって、お客さんを出迎えるの。手は指先までピッタリと揃えて。お客さんが和むように顔を横に動かしながら! いらっしゃいませって」

 

だって彼はこんなに優しくて話しやすいのに、お客さんにこわがられたらもったいない!

でもこんなに素敵な彼だと、みんなすぐに魅了されてしまうから、

「髭は口の周りをぐるりと囲って顎の髭は首が隠れるほどにもじゃもじゃ! 帽子は目のギリギリまでかぶるの。それでおいしーい、カレーを作ってみんなに食べてもらうの」

彼の事をみんなに知って欲しいけれど、隠しておきたいとも思った。

「それで私もお手伝いして、一緒にお店をするの」

私も一緒に。

最高の場所だ。

きっと幸せで温かいお店になる。

他にも沢山たくさん思いつく限りのアイデアを詰め込んだ。

今まで見た事もない素敵なサービスを、思いつく限り盛り込んだ。

そしてお店にはよく分からない不思議と魅力的な、そんな置物を置こうと言った。

どんな置物がいいかはまだ分からないけれど。そういうのをいっぱい、いっぱい集めて並べようと言った。

「そんなのもう、カレー屋じゃないよ」彼は笑いながら反論した。

私は、

「カレーを作って、それを食べるお客さんが来てくれたら、もう立派なカレー屋さんよ。そうでしょ? カレー屋じゃなかったら、何屋さんなの?」

カレー屋さんよ。

自分で問いかけながら、自分で答えた。

彼はやっぱり笑っていた。

自分の思うままに喋った。

けれど彼は楽しそうに笑ってくれた。

もちろん私は真剣に話してもいたけれど彼が、

「君の世界は自由で羨ましい」と笑って聞いてくれているのが嬉しかった。

すごく自分のままでいられる気がして、居心地が良かった。

彼に、じゃあどういうサービスだったらしても良いか聞いた。

それからお店に飾るのはどんなのが好きかとか、沢山たくさん質問した。

彼は分からない、とばかり答えていたけれど、どれも真剣に思い描こうとしてくれていた。

質問への答えを彼が、一生懸命に考えてくれているので嬉しかった。

私の世界に一緒に居ようとしてくれていた。

帰りに、また作る時は食べに来ても良いよ、と言ってくれた。

番号も交換して、彼にとても近づけた気がした。

 

何度か彼の家でカレーを作って食べた。

一緒に作る日もあれば、彼が作ってくれている日もあった。

次第に彼は、自分の話もしてくれるようになった。

ある日の話は、彼の家の前によく黒猫が来ていた、という話だった。

じっと彼の方を見てスタスタとどこかに消えていく、という話だった。

私は、うんうん、と前のめりで夢中になって話を聞いた。

私は、その猫に今度来たら餌をあげよう、それで懐いたらここで飼おうと言った。

彼が出会った猫の話をしてくれるのが嬉しかった。

彼は、

「きっと猫は僕に懐かないよ」と少し諦めた口調で笑って言った。

私は、

「絶対そんなことないよ」と前のめりになって返した。

だって、こんなに優しくて温かい彼を知ったら、どの猫だって絶対好きになるに決まっている。

優しい彼の膝の上はきっと、温かくて最高の寝心地だ。

丸まって寝るには最高の場所だ、そう思った。

それから自分の話もした。

最近知らない人から好意のお手紙が届いた、という話。

私は彼の反応が気になった。

彼は、

「迷惑だったりしないの?」と言っていた。

私はわざと、

「嬉しいよ。誰だかは分からないけれど、すごく素敵な人だったらどうしよう」と笑って答えた。

彼は私の、すごく素敵な人だったらどうしようという問いかけに、顔を背けながら、

「さあ、知らない」とだけ言った。

 

お手紙は美しい整った字体で短くシンプルに綴られていた。

そのお手紙は、詩的で何だか美しくて嬉しかった。

私もこんなお手紙が書けたなら、こんな言葉を選べたならとむしろ憧れもした。

だから本心でもあった。

そして、そのお手紙の雰囲気に似た人に、とても心当たりがあった。

本人が言いたくなさそうなので、気づかないフリをした。

大体、お手紙じゃないといけない理由も分からなかったし、送り主の名前を書かない理由もよく分からなかった。

でも、この送り主にはお手紙であることが何か重要な気がした。

 

私たちは付き合ってはいなかった。

ただカレーを食べて、色々な話をした。

大半は私が喋っていて、彼は笑って聞いていた。

彼と居ると、自分の言葉が心と一致していて、自然で居心地が良かった。

でもそれ以上彼に踏み込めなかった。

これ以上を望んで、もし全てなくなってしまったらと考えるとこわくなった。

けれど、もっともっと彼を知ってみたかったし、彼のもっと隠されている芯の部分に近づきたいとも思っていた。

彼はいつも楽しそうに笑ってくれていて、そしてどこか寂しさが垣間見えた。

優しい言葉の端々に、もうこれ以上近づかないでくれという思いが見え隠れするようにも見えた。

きっと何かが彼を捕らえて離さないでいる。

私は彼に大丈夫だよ、と伝えたかったけれど、何を大丈夫といえば良いのか分からなかった。

 

そうやって月に数回、一緒に過ごす日々が何ヶ月か続いた。

二十一歳になる誕生日が近づき、その当日に一緒にカレーが食べたい、と彼におねだりした。

いつも不定期に集まっていたカレー会だったけれど、早くからその誕生日だけはカレーの日、と、自分から約束を取り付けた。

 

誕生日当日。

彼との約束の日がやってきた。

別にデートに出掛ける訳でもない。

何度か行われたカレー会だ。

けれどやっぱり今日は特別な気分だった。

大切に着ていた、黒のフワフワのワンピースを取り出し準備した。

他にも洋服は持っていたけれど、どれも少しくたびれていたり小さなシミがついていたりするカジュアルな洋服だった。

彼と一緒にいるには不釣り合いな気がした。

このワンピースは、私に魔法をかけてお姫様にしてくれる。

彼と会う時は決まってこのワンピースだった。

ここ数ヶ月は、学校の課題もあってバイトに全然出られていなかった。

来月はバイトにいっぱい出てお給料をもらってまた新しいお洋服を買おう。

次は白のワンピース。

 

どんなに欲しいと思っても、母にはねだったりしなかった。

幼い頃に父が亡くなって、それから母は私の為に一生懸命働いてくれていた。

力仕事もしていた。

家に帰ってくるのも遅い時間で、それでも私にご飯を作ってくれた。

母が作ってくれるご飯はフライパンのまま食卓に出てきたけれど、私はどれも好きだった。

母は料理が上手だ。

父がまだ生きていた頃は、母は私と一緒にパン作りをしたり、ケーキ作りをしたりしてくれていた。

焼きたてのパンもケーキもフワフワでとても良い香りがした。

私は焼きたてのパンやケーキを食べるのが好きだった。

パウンドケーキという長四角の真ん中が盛り上がったケーキは、端っこが香ばしくて、母が切り落とした端のケーキをつまんで食べるのが好きだった。

とても美味しくて、幸せな気分になった。

父が亡くなり、母が働きに出るようになって、パンやケーキ作りをしなくなった。

私は出来立てのそれらは大好きだったけれど、忙しそうな母に作って欲しいとは言わなかった。    

高校に入って自分もバイトを始めた。

欲しいものは大体バイト代で買った。

高校生の時は今よりももっとお給料が少なくて、友達と一緒に出かけたり文房具を買ったりしていると大事に使っていてもすぐになくなった。

友達は、冬には学校にブランドのロゴがついたセーターを着て、流行りの靴を履いて来ていた。

うらやましいとは思ったけれど、自分も買って欲しいとはねだらなかった。

母は多分、私がどうしてもと言えば買ってくれたのだと思う。

けれど母は、私が欲しがっている事さえ知らなかった。

商品棚に置いてあるそのブランドの洋服たちは、私には手の届かない遠いものに見えた。

自分が身につけている姿は全然想像が出来なかった。

手を伸ばす事すらしなかった。幼い頃から私は、何かをずっと諦めていた。

このフワフワのワンピースは、私が初めて手を伸ばそうと決めた高価なものだった。

自分が決めてしまって頑張れば、手の届く所にあった。

もうこれは私の一部だ。

ワンピースを手に入れた私は、思い描いていた憧れの自分像に、少し近づけた気がした。

 

今日も同じように髪を整えて、大切に少しずつ使っているジャスミンの香りのオードトワレを付けた。

ほんのりと香るお花の香りがとてもお気に入りだ。

彼とは、いつもの川沿いのベンチで待ち合わせをしている。

少し早いけれど、もう家を出よう。

フワフワと風に揺れるスカートが、今日も私に勇気をくれた。

 

待ち合わせ場所に着くと、まだ時間になっていなかったけれど、彼はもうベンチの所に居た。

私が彼に近寄ると、彼は手に持っていたものを私に差し出しながら言った。

「良い香りだったから」

お花だった。

鉢に入った白い可愛らしいお花で、私の大好きなジャスミンだった。

まさか彼がお花をくれるなんて。

鉢に入っているお花というのも嬉しかった。

長く一緒に居る事ができる。

大切にしよう!

私はすごく嬉しくてお花の香りを楽しんでいた。

今日はやっぱり素敵な一日だ!

私は上機嫌だった。

「気持ち良い天気だね」と言って空を見上げた。

綺麗な青空だった。

彼も、

「気持ち良い天気だね」と言って空を見上げた。

 

彼の前をらんらんと歩いていると、子犬を散歩している人がこちらに向かって歩いてきていた。

私は、

「犬だ!」と彼の方へ振り返って報告した。

子犬を見ると、可愛い~! と大抵の女の子達は言う。

何だかそれもお決まり言葉みたいで苦手だった。

きっと私は捻くれている。

子犬が通り過ぎて行って私は彼に言った。

「犬だったね~」

彼は、

「犬だったね」と笑って返してくれた。

彼はそれからよくある質問を私に投げかけた。

「犬と猫だったらどっちが好き?」

私はどちらもピンと来なかった。

どちらも可愛いとは思う。

「そうだね~」と言いながら、空を見上げて考えていた。

そうだ!

「鳥!!」

私は鳥にならなってみたかった。

鳥には際限がなくて、どこまでも自由な気がした。

何でも出来る気がした。

「この空を、フワフワとどこまでも飛んでいくの。いや、ビュンビュンと、かな」

想像し出すと楽しくなった。

すごく鮮明に、空を飛んでいる鳥になった私自身の姿が想像できた。

彼は、

「ビュンビュンと?」と笑っていた。

でも私の答えにダメ出しはしなかった。

私も彼に似たような質問をした。

「犬と鳥と猫の中だったら、どれになりたい?」

彼は少し沈黙した後、

「……猫」

と答えていた。

意外だった。

だって彼は遠い手の届かない鳥のように思えたから。

彼が鳥なら、きっととびきり美しい色の羽をした鳥で、空を優雅に飛んでいる。

そう思った。

すごく澄み渡って綺麗な空は、吸い込まれていきそうな程に青かった。

キラキラと輝く太陽に、柔らかく吹く風は川沿いに並ぶ木々を優しく揺らしていた。

たぶん、今立っているこの場所はいつもの私が住んでいる世界とは違う。

そう思った。

何かまるで違う場所に立っているみたいだった。

私は気づくと、いつもの人生とは違う道を歩いていた。

さらに美しい世界だ。

彼と居るといつもこの世界にやってくる事ができる。

世界が本当に美しかった。

そんな事を考えながら、辺りをぐるりと見渡した。

ああ、そうだ。

この世界は違う! きっとそうだ。

キラキラ輝く世界に、フワフワのワンピース。

お花を貰って、特別で最高な気分。

お姫様にでもなれる気がした。

嬉しかった。

私の欲しかったもの、全てを叶えてくれる。そんな気がして、私は幸せだった。

 

その日もいつもと同じように、、彼と向かい合ってカレーを食べた。

彼は「違うものでも準備するよ」と言ってくれていたけれど、彼と出会った始まりの大事なメニューがカレーだったから、誕生日という特別な日も、カレーである事が私には重要だった。

私はカレーが食べたい、と答えた。

 

私は、彼と一緒に食べる日々が大好きだった。

顔立ちも所作も、選ぶ言葉も、何もかもが美しい彼は遠い世界の、手の届かない存在だった。

いつもなら諦めていた。

手を伸ばさなかった。

けれど、私は憧れるだけではなくて、羨ましいと、私には駄目だと、眺めるのではなくて、隣に並びたかった。

自分もなりたかった。

何もかも美しい彼のように。

自分はダメだと諦めるのではなく、私は自信を持って彼の隣に立っていたかった。

彼と同じ目線で話をしたかった。

彼と同じ世界に存在していたかった。

 

カレーを食べていると、ふと彼と目が合った。

まっすぐに私を見てくれる彼の綺麗な瞳を、真っ直ぐ見て笑顔で返せる私は、以前と違う気がした。

はっきりと、私の中で何かが変わった。

モヤモヤと覆われた心の中がスッキリと、彼の部屋の中のように澄み渡ったのが分かった。

 

私は変わった!

 

カレーを食べ終わると、いつもソファで一緒にゆっくり過ごす。

今日もソファに深く腰をかける彼の横に座り、特に何かを話すでもなく、隣で幸せを噛み締めていた。

彼の隣は、いつもすごく居心地が良かった。

まるでフワフワのベッドに横になり、温かな布団に包まれているみたいに。

彼の膝にふと目をやると、そこは最高の寝心地に見えた。

思わず、「枕、見―つけた!」と言って、彼の膝に寝転がった。

今日は誕生日だし、彼なら許してくれる気がした。

彼の顔を見上げると、彼は優しく笑っていた。

彼の膝枕はとても落ち着く、良い香りがした。

「小さなケーキだけど、君の好きそうな可愛いケーキ。買ってあるから、後で紅茶でも淹れて食べよう」と言ってくれた。

私は、

「ありがとう。嬉しい」と、笑顔で答えた。

「美しい世界で、王子様も居るお城にフカフカのベッドに、可愛いケーキと紅茶。あとは王子様とのダンスで完璧ね」と一人で妄想していた。

彼の膝の上と柔らかな日差しが気持ち良くて、私はウトウトとしていた。

彼は私の頭を、猫でも撫でるように優しく撫でた。

きっと、ここは現実と夢の境目の世界だ。

ここでなら全てが叶えられる気がした。

私は眠りに落ちて、夢の中で彼と優雅にダンスをしている夢を見た。

 

——私は、人魚姫みたいな美しくて悲しい結末のお話は聞いていられなかった。

シンデレラのような、辛くても幸せな結末のお話に憧れた。

私には、ハッピーエンドは待っていないように思えたから。

お話だけは素敵であって欲しかった。

私はいつも憧れては諦めてばかりいた。

でも、望まない結果の方へと歩き出しているのは、いつも自分だった。

美しく素敵なものは大好きだったけれど、自分に似合わない気がした。

自分で選んでこなかった。

手を伸ばしてみなかった。

ちゃんと選び取り始めたら、全てが変わった。

 

あのスーパーで夜中にお買い物をしている彼に出会って、私は彼の世界と繋がる小さな扉を見つけた気がした。

その扉はキラキラと、繊細に装飾されているように思えた。

私なんかが手を触れても良いのだろうかと思った。

私はその扉を開けるには相応しくないように思えたから。

けれど何か変わりたくて、そのドアノブに手を伸ばしてみたんだ。

 

静かで美しく、とても穏やかで温かい世界に繋がるその扉は、鍵がかかっている訳でもなく、私を優しく受け入れてくれた。

簡単な事だった。

扉はいつだって、いくつも私の周りにあって、いつでも開けて良いよ、と鍵をかけずにただそこに佇んでくれていた。

 

私は、これからはちゃんと描いてあげられる、自分の物語を。

望む結末に向けて、自分の握っているペンを走らせる。

真っ白なフワフワのワンピースを着て、私は今日も長い、長い物語の続きを綴っている。

今までの自分を乗り越えて、これから綴られるのは、

 

幸せなお姫様のお話だ。



人生を歩む上での違和感、悩み。そういったものに出くわした時のとっさの反応。あなたは一体どう反応するのだろうか。
この物語を読むことで浮かび上がる、自分自身の輪郭。人生が大きく良い方向へと舵を切るのは、どういう時なのだろう。自分らしい生き方とは。

amazon kindleにて販売中。
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