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死を忘れるなかれ【一二〇〇文字の短編小説 #18】

夏の暑い火曜日、わたしは有給を取って正義まさよしの葬儀に参列するために新幹線に乗った。地元の仙台に戻った正義は突然の心筋梗塞でこの世を去った。その事実を共通の友人の彩乃あやのから聞いたとき、わたしは泣かなかった。

正義とは恋人同士ではなかった。去年一緒に同じ大学を卒業した間柄で、学生時代はずっとお互いに好意を持っていたように感じる。けれども、二人とももう一歩が踏み出せなかった。不思議なことに、そういう関係は何度かあったのに。

学芸大学のワンルームのアパートを出る際、わたしは気を紛らわせるために、マザーハウスの本革のトートバッグに『目隠しの季節たち』という本を忍ばせた。チェコ系フランス人のハナ・ネドヴェドによる短編集だ。処女作の『それはわたしの名前じゃない』を読んで女性の強さをとことん描き切る筆致に虜になって、数日前に二作目の短編小説集を渋谷の紀伊國屋書店で購入した。

新幹線が滑り出し、わたしは最初の作品の「何かが起ころうとしているのを僕は感じた」を読み始めた。土曜日の昼下がり、ロンドンから列車で故郷のノリッジに向かうオリヴァーの話だ。幼なじみのエイヴァの誕生日を祝うために、列車に揺られている。オリヴァーは十年ほど前の夏休み、小学校の教室でエイヴァに突然、告白された場面を思い出した。エイヴァはすぐに「冗談よ」と笑ったけれど、オリヴァーはあれが本気だったらと考えている。オリヴァーはひそかにエイヴァに恋心を寄せていた。

新幹線の隣で窓際の席に座る女性が、たぶんマルベリーの水色の鞄から本を取り出した。花びらのような口びるが東欧的なデザインのカバーには見覚えがある。わたしより五つくらい歳上に見える女性が読み始めたのは、『それはわたしの名前じゃない』だ。胸のあたりまできれいな黒髪を伸ばし、見事なまでにパンツスーツを着こなすその女性は、こちらをちらりと見て、ほほ笑んだ。

「私はその本から読んだわ。特に最後の『月明かりのあとで』という作品には本当に感動した」

「わたしは読み始めたばかりなので、楽しみにしておきます。わたしは『それはわたしの名前じゃない』だと、『いまはここにいて』という作品が好きです」

その女性は何も言わずにまたかすかに笑い、缶ビールのプルトップを開けた。かすかに弾けるような音がして、わたしものどが渇いた気がした。でも、のどを潤すかわりに、わたしはどういうわけか初対面のその女性に正義の死について話していた。その女性は言った。

「死ぬのはいつも他人ばかり、じゃないのよ。その本の『死は等しく』に答えが書いてあるわ」

それから女性は黙って窓の外を見続けていた。ちらりと横顔を見ると、涙を流しているような気がした。その女性もいつかどこかで死に出合ったのかもしれない。わたしは正義に会いたいと思い、けれども涙がこぼれるのを我慢した。車窓から差し込む光があまりにまぶしい。

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