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自分のことばは、大好きな作家さんで出来ている

故・川島なお美さんは「血がワインでできている」とおっしゃっていた。そのフレーズが頭にあるからかもしれないけれど、自分の心や体が何かで満たされている、作られているという感覚を持つことがある。

最近よく思うのは、自分が使う言葉は、小さい頃に読んだ大好きな作家さんたちが使っていた言葉にとても影響を受けているんだなということです。安房直子さん、さとうわきこさん、ちょっと大きくなってからは江國香織さん。自分のことば思考は、彼女たちのことばに満たされている。作られている。

匂いや触りここちが伝わるようなことば、文章を書きたいと思うのは、『うさぎのくれたバレエシューズ』が有名な安房直子さんから。初めて『花豆の煮えるまで』を読んだ時は、「ふっくりと煮た花豆」という表現を目にして衝撃を受けた。学校で習うのは「星はキラキラと」「雨がポツポツと」という、理解はできるけれど特に感動がないというか、定型文のような表現だった。「ふっくりと」なんてことばは聞いたことがない言い回しだったのに、なぜか、小学生の私にも柔らかで、ふかふかで、噛んだらじんわりと豆の味が広がるような優しい花豆が心に浮かんできた。それ以来、私の中ではお豆は「ふっくりと」炊くものになった。

何かしらフレーズを作って歌いたくなるのは「よもぎの餅は、ほい春の味〜♪」と歌う『ばばばあちゃん』シリーズを書いたさとうわきこさんから。決して難しいことを言っていないのに、何度もなんども反復して、自分のものにしたくなった。よもぎ=春という認識さえなかった小さい頃にこのフレーズを何度も音読して、歌って。私の中で、よもぎの餅は間違いなく春の味になった。

絵本から小説に移ってからも、本当にいろんな人の小説に影響を受けた。折原みとさん、『クレヨン王国』の福永令三さん、最近だと辻村深月さんや原田マハさんも。

そんな中でも、一番私のことばをつくったのは、江國香織さん。女優のりょうさんみたいな涼しげなお顔立ちと、自分と同じ名前に親近感を持って読み始めたのだけれど、江國さんの使うことば1つ1つが、世界観のすべてが大好きで、すべての本を買い求めた。江國さんの世界は、独特。緩やかに流れる優しい時間を描きながらも、なぜかちくっと刺さるトゲがある。哀しいことほど、ちょっと滑稽に描く。江國さんの描く小説の中にずっといたくって、心地よくって、全巻コンプリートしたけれど。その時は、新しく読む江國さんのストーリーがないということにストレスさえ感じた。

『きらきらひかる』キラキラ、も光る、も明るくて楽しいイメージの言葉なのに。なぜか小説を読んだ後だと、このタイトルがとても儚い、切ないものに感じる。

『落下する夕方』落下する夕日、だったらすとんと理解できるのに、落下する夕方。だけど、小説を読んだ後はなぜかしっくりきてしまう。うまく説明できないけど。

『流しのしたの骨』ホラーなの?と思ってしまうようなタイトルなのに、読んだ後はなぜか優しいタイトルに感じる。

『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』なんてこった!と思ってしまったタイトル。たった一言なのに、色んなことを想像してしまう。本物の川のことを言っているのか、人生を例えた比喩なのか。皮肉なのか、冷静な客観視なのか。

自分の心に響いた作家さんたちのことばは、今もずっと残っている。

自分の中で、ことばを探すこと。見つけること。誰かに理解されなくっても、自分がしっくりくればそれはそれで幸せだし、「あ、その感じ、わかる」といわれたら、ちょっと嬉しい。

ずっとずっと、ことばの1年生。探しているし、求めているし、つくり続けている。小さい頃にことばの魔術師たちと出会えて、私の世界も広がって、濃くなった。安房直子さん流に言えば、こっくりと。

本を読まなかったら、どんな言葉を使ってたんだろう。どんな言葉に快感を覚えたんだろう。心地よいと思う世界は、どんな感じだったんだろう。

気になるけど、でも本と一緒に生きている今が、とても好き。

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