心が折れた時、 自分を動画で撮って観てみると面白いことに気づきますよ
武道などいろんな「道」の求める「ある一点」が、 ポジティブもネガティブも全てある「陰陽調和」の境地だと前回書きました。
これは「心技体」が整った「自然体」の状態で、そこに到達した人を武道では「名人」と呼んだり、華道、茶道、書道の世界では「家元」、仏道、神道などでは「悟り、覚醒者」と呼んだりしています。
この域に達した人達は特別な人か?と言いうとそうではない、と私は思います。
ただこの人達と普通の人との違いは「心の許容量」 かなと思っています。
私達は、凹んだ時「心が折れた」と言ったり、逆におおらかな人を「心が広い」という表現を使いますよね。
人間には、人それぞれその人が持っている「心の許容量」があるのでは?、と常々思っています。
ポジティブなことは受け入れられるけど、ネガティブなことは受け入れられない。仕方ないと受け入れてみてもキャパには限界がある。だから「心が折れたり」する。
その受け入れるキャパが大きいのが「名人」と言われる人達の「心」の状態なんでしょう。
ネガティブもポジティブ同様に「それはただ有る」と受け入れる「心の許容量」。そこには好き嫌いの感情や良い悪いなどの判断もない。
どちらも、ただただ「有る」ものとして受け入れる。
それを、それぞれの「道」をとうして行動し続けて居る中で「陰陽の調和」が起こり、「無」という心の境地になるのでしょうね。
ただ、富士山の頂上とエベレストの頂上から見える地球の景色は違います。さらに人工衛星から見る地球全体の景色もまた違います。
「無」とは空っぽという意味ではなく、全てが「有る」という逆説的な意味ですから、果てしなく「無限」なんですね。
どんどん「俯瞰する」高さを上げていけば「無限」の 果てしない景色が視えてくる。
それが偏りのない調和した、 「無」の境地がスタートラインだという、 深遠な「和」の叡智が伝える「無限♾」=「すべて」 という果てしない超俯瞰的な意識なんですね。
日常すぐ簡単にできることをお伝えすると、
「心が折れた時」の自分を、誰かに頼んで「1メートル右上」から動画を撮って客観的に自分を観てみて下さい。
その自分がどう観えるか?きっと何かに気づきますよ。
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