それも、この世に生きている間は、それが分からない。
自分の“自己評価”ほど、当てにならないものはない。
「ええ?そうなんですか?だって、会社では人事評価シートに自己評価入れてますけど…。まあ、正直、ちょっとだけ高く付けてますけどね。そうしないと給料下がっちゃうんで。」
「自分大好き人間の私にとって、常に自己評価は高くありたいと思っています。だから、努力もしてる。それがダメっていうことでしょうか?」
「はい。確かに自分自身を評価するって中々出来ないと思います。だって、自分のこと、実は良く分かっていないのに評価なんて出来るわけがない!だから、自己評価しろって言われると本当に困ってしまいます。」
「これまでずっと、自分自身を低く見積もって生きてきてしまいました。自己肯定感が低いっていうやつです。だって、出る杭は打たれる社会だし、目立つと後々面倒なことになりかねないし。だから、自分を出さないようにしています。だけど、そんな自分のことは、影でちゃんと評価してやりたいです。」
「あ、自己評価って簡単ですよね。自分のことは自分が一番知っているし、他の人の評価の方が当てにならないから、まったく気にしていません。いちいち反応していたら自分が自分でなくなってしまう感じがするので」…。
人間、“自己評価”にも様々な解釈があるようだ。
それは当然。
人間は、生きた回数によって、物事の捉え方や感性の度合いが変わるからだ。
当然、輪廻の回数が多ければ良いというものでもない。
巷のモノ金や権力、地位、名誉、名声などのうすっぺらい有限的財産ではなく、本当の価値ある無限的財産(人間性の質、善悪の分別、高い感性、良心、人柄、道徳性、慈悲深さなど)をどれだけ経験によって積み重ねてこれているか。
加えて、他者評価はさらに当てにならない。
相手も人間未熟であるが故に、そして、ほとんど他者のことに人間は関心がない。
観察していると言いながらほとんど片手落ち。
なぜならば、見ていたとしても、見えている部分しか評価出来ないからだ。
人間の本当の姿は、見えない部分がほとんど。
そのような状態で他人が他人を評価するなど愚の骨頂。
だから世の中がおかしくなっている。
気休めも程々にした方がいい。
では何が真実なのか。
当てとなる真の評価は、天の評価のみ。
それも、この世に生きている間は、それが分からない。
あの世に逝って初めて己の全ての生き様が評価される。
これ知ろうが知るまいが、受け入れようが受け入れまいが真実。
従って、人間は、自分自身の未熟さを受け入れ、死ぬまで正直に、素直に、謙虚に生きるしかない。
いちいち、他人の評価、自分の身勝手でいい加減な評価に一喜一憂することなかれ。
その暇があったら、目の前の苦労をかって出て、一心不乱に徳を積み続けることだ。
そのことを肝に銘じ、他人や世間の評価、自己評価ではなく、天からの評価を頂けるよう日々精進を重ねます。
有難う御座います。
幸せを呼ぶそよ風チャリダー/サステナビリティイノベーティブコンサルタント。「感謝感動を世界に地球に」のカングロ代表、ザッポス研究会、イノベーションサロンZ、システムD研究会、サステナ塾、セブメディ創設者