「完璧な読書感想文」という幻を追う徒労
読書感想文っていうのは本当に得体が知れない。
でも小・中・高校の夏休みの宿題としては定番で、夏休みが終わるまでに書かなければ、子どもに書かせなければと、今思っている人も多いのではないだろうか。
2019年に発表されたこちらの論文によると、小学3~6年生426名に行ったアンケートの結果、読書が好きと回答したのが76%だったのに対し、読書感想文を書くのが好きと回答したのは26%。本が嫌いならそもそも「本を読まなければならない」ことが読書感想文のハードルになる。そして、本が好きな子であっても大半は、読書感想文が好きではないのだ。
私自身、文章を書く仕事を長年しているが、子どもの頃は読書感想文が苦手だった。いま大学1年生と中学3年生の娘がいるが、彼女たちが小学生の頃、読書感想文の宿題を終わらせるためにサポートするのもけっこう大変だったと記憶している。
そんな私が、ひょんなことから手伝い始めた近所の教室で、小中学生向けの読書感想文講座を担当することになった。そこであらためて読書感想文の意義や書き方についていろいろ調べ、考えたので、その一部をここに書き残しておく。
感想文は、読書のおまけ程度の存在だった
公教育において、各学校のカリキュラムは、文部科学省の定める「教育指導要領」に沿って組み立てられている。ならば、教育指導要領の中で読書感想文がどのように位置づけられているかを知れば、「読書感想文を書く」ということを通じて子どもに何を身につけさせようとしているのか、ねらいがわかるはずだ。ねらいがわかれば、どのように書けばいいのか、どのような感想文が評価されるのかもわかってくるだろう。
そう考えて調べてみた結果、教育指導要領の中に、読書感想文は明確に位置づけられていないことがわかった。つまり、読書感想文は学校の授業の中で扱うべきとされているわけではないのだ。では文科省は読書感想文に関して何らかの見解を示していないか?調べてみて引っかかってきたのはこちら。
これは、国語力を身につけるための読書活動のあり方について書かれているくだり。読書活動において、読書感想文の強制は好ましくないという見解がしっかり書かれている。ちなみに、上記リンク先のP.32、33にある、文化審議会委員、国語分科会委員の名簿を見ると、そうそうたるメンバーだ。
もうちょっと新しい情報はないかなと調べてみつけたのはこちら。
子どもの読書活動推進のためには家庭や地域、学校の取り組みが大事なんだけど、民間団体でもやってるよね~、という感じの扱い。この有識者会議の背景には 2001年12月に公布・施行された「子どもの読書活動の推進に関する法律」というのがあり、この法律に基づいて現在第五次計画まで作られている。過去の計画も見てみたが、第三次、第四次は上記と同程度の記述しかなく、第一次、第二次では「感想文」という言葉自体が見つけられなかった。
学校の宿題として読書感想文を書かされるのは、この民間団体による取り組みのひとつ、「全国読書感想文コンクール」に応募するためである。ではこのコンクールは一体何なのか。
読書感想文を書くのはあくまでも自分のため。目的は「読書して、考えを深めるため」と位置付けられている。
大事なのは本を読むこと、考えることであって、決して、「すごい文章を書いてみんなをあっと言わせる」とかそういうのではないはず。それなのにどうして私たちはこんなに読書感想文に苦しめられるんだろうか。
賞を取りたいという呪縛
思い当たることがひとつある。
読書感想文コンクールは、個人ではなく学校単位で応募するコンクールだ。民間のコンクールなので、多くの学校では提出必須の課題ではなく、選択課題として出されている。私の子どもたちのときは、絵画や標語づくり、作文など、その他いろいろある民間のコンクールの募集要項とあわせて読書感想文コンクールの募集要項も配布され、その中から自由に選んで最低1つは応募してね、という類のものだった。校長の方針などで、読書感想文に力を入れている学校であれば、全員に強制するところもあるかもしれない。
この手の、学校単位で応募するコンクールは、提出されたすべての作品が応募されるわけではない。まずは学級の中で選考を行い、学級の代表作品を選ぶ。次に、クラスの代表を集めて学年の代表作品を選ぶ。そこで選ばれた作品が、学校の代表として応募される。
学校代表として応募された作品は、地区審査、都道府県審査を経て、都道府県代表として残ることができたら、中央審査会に送付される。そこで、内閣総理大臣賞をはじめとする各賞が選ばれる。入賞者は2月に行われる授賞式に呼ばれるほか、入賞作品は毎日新聞に掲載され、読書感想文集「考える読書」(毎日新聞出版)として刊行される。なお、都道府県入賞作品や、地区入賞作品についても、それぞれの自治体独自に作品集として出版されている場合がある。
私が住んでいる兵庫県明石市でも毎年、市内の子どもたちの優秀作品を集めた作品集が刊行されており、学校を通じて数百円で購入することができる。毎年の作品集は学校に置いてあり、子どもたちが手に取る機会もある。去年のクラスで誰が選ばれたか、学校代表に誰が選ばれたかもなんとなく知っている。そこで子どもも親も、「どうせ応募するなら賞を取りたい!」、となる。
賞を取りたい、でも書き方がわからない。学校で先生から書き方を指導されているわけでもないのに、先生から評価される感想文を書かなければならないと思う。親子で苦しみながら書いてみる。なんだかちがうと、親が手を入れる。手を入れ始めたらきりがない。あんまり直されれば子どももやる気をなくす。頑張ってなんとか提出するが、クラス代表には選ばれない。こんなに頑張ったのになんで!なんであの子が選ばれるの!と子どもは納得いかない。悪循環だ。
ここで何が起こっているかというと、親も子も、「先生に評価される感想文」「完璧な感想文」という答えを探しているということではないだろうか。賞があるからには、選ばれる基準があるはず。しかし果たして完璧な感想文なんて存在するのか。管理職を含む、現役の小学校教師数名にヒアリングしてみた。
読書感想文で最も大切なのは「出すこと」
聞いてみてわかったことがいくつかある。
学校で読書感想文はさほど重視されていない
学校内での選考に基準があるとは限らない
読書感想文の中身は、学校の成績にはまず影響しない
ひとつずつ見ていこう。
学校で読書感想文はさほど重視されていない
前段で見てきたとおり、読書感想文はあくまで読書活動活性化に向けた手段の1つであり、全国読書感想文コンクールは民間のコンクールである。読書感想文は教育指導要領の中に位置づけられているものではないので、書き方を授業の中で指導することはまずない。夏休みの宿題のひとつとして出すにあたって学校・学級単位で書き方の指導をする場合もあるかもしれないが、たいていは参考プリントを渡す程度で、丁寧に指導をするような時間は取れないらしい。
学校内での選考に基準があるとは限らない
学校として、または学級として、事前に丁寧な書き方指導をしているのであれば、評価の基準は当然「事前に指導したことを踏まえて書けているか」ということになるだろう。しかし、多くの学校が事前指導に時間を割けない現状では、評価は学級担任や学年担当の教員に一任される。学校によっては評価基準を定めている場合もあるかもしれないが、そうでない場合も多いらしい。
規定の文字数を守れているか、あらすじだけではなく「感想」がちゃんと書かれているか、という形式上のポイントなら、主観を交えずに評価できるだろう。しかし、同じレベルの作品がいくつかあったときにどれを選ぶかは、教師の主観や好みによって変わってくるではないだろうか。私が話を聞いた教師はいずれも、「漢字の間違いや句読点の使い方など、細かい点はあまり問題ではない。ちゃんとその子なりの感想が書かれているかどうかを見ている」と言っていた。
賞を狙って読書感想文を頑張る子どもや保護者はたくさんいるだろう。しかし、気の遠くなるような選考段階のそれぞれにおいて、ある程度主観を交えた審査が入ると考えれば、中央審査会まで残るのも、そこで何かの賞を取るのもほとんど運によるもので、宝くじを当てるようなものなんじゃないかと思えてくる。
読書感想文の中身は、学校の成績にはまず影響しない
子どもや保護者が完璧な読書感想文を追い求めているとき、「賞を取りたい」のほかに「通知表で良い成績を取りたい」というのも頭にあるだろう。
しかし、読書感想文が授業で扱う内容ではない以上、感想文の中身がどうだったかは、成績にはまず影響しないそうだ。影響するとすれば、「出したかどうか」。自由課題として読書感想文を提出した、ということが、もしかしたら国語への意欲や関心という面で評価されることもあるかも?という程度らしい。
そうであれば少なくとも「読書感想文を提出する」ということには意義があるかもしれない。そのために読書をすることになるし、考えを深めるきっかけにもなる。でも、苦しみながら「どうしたら先生に評価されるのか」と正解探しをするほどの価値はないのではないか。
評価される読書感想文とは
読書感想文コンクールの公式サイトには、前年度の受賞作品が掲載されている。上手な感想文には何か傾向があるだろうか思って読んでみたが、あんがい書き方はバラバラだった。共通点があるとすれば「感想が書かれている」ということくらい。本を読んで考えたこと、感じたことが、「どこを読んでそう思ったか」「自分のどんな経験からどう思ったか」といった背景とともに書かれている。本のあらすじは必要最小限で、自分の感想を説明するうえで必要なことだけ書かれている。つまり、文全体における「感想」の割合が高い。もちろん、言わんとしていることがちゃんと相手に伝わるように、言葉を選んで、適切な構成で書かれている、という点ではある程度巧みな文章だ。
ふーん、と思った。たしかに、上手な感想文は書いた人の個性、人となりが感じられる気がした。
でもそこでひっかかる。
自分が中高生の頃、読書感想文を書きながら激しく葛藤していたことを思い出す。本が好きで、いつも読んでいて、本を読んで考えたことなんて山ほどあった。その中から、人に伝えたいこともたくさんあった。でもそれは、おそらく大人から期待されるような、中学生らしい、高校生らしい感想ではなかった。いかにも中高生らしい感想なんて空々しくて書きたくないけど、本当の感想も書けない。苦しかった。
評価される感想文を書こうと思ったとき、このアドバイスは役に立つだろう。でも、その、自分にしか書けないことが、一般的に期待される「その年齢の子どもが書く感想」とかけ離れてたらどう評価されるんだろうか。自分にしか書けないことを書いた結果、評価されないということもあるんじゃないか。そもそも、自分にしか書けないことを不特定多数に伝えるなんてこと、別にやらなくてもいいんじゃないか。思春期に、自分の本心をさらけだすのは恐怖でしかない。素直な感想を表明するリスクと心理的ハードルが高すぎる。
本の読み方は一つではない。同じ本を読んでも感じることは人によってちがう。文章の書き方も一つではない。同じようなことを書くにしても、書く人がちがえば全くちがう構成になり、まったく違う言葉を選ぶだろう。
人が一人ひとりちがうように、本の読み方にも感想文の書き方もそれぞれちがうのだから、「評価されること」を目指して書くなんて空しいことではないかしら。
書くのが好きなら書けばいい。苦しければ書かなくていい
結論として、私が教室で子どもたちや保護者に伝えたのは以下のようなことだった。
読書感想文とは ①本を読んで ②読んだことについて考えて ③自分の感想を文にして伝える というもの
大事なのは①②であって③は①②をやった証拠として出すくらいの気持ちでいい。すごい文章を書かなくてもいい
読書感想文として成り立たせるには「感想」が入っている必要はある
先生が重視するのは「出すこと」。さっさと終わらせたかったらテンプレートに沿って書けばいいし、書くのが好きで、楽しんで書けるなら賞を目指してもいい
苦しんで書いて、本や作文が嫌いになるくらいなら、書かない方がいい
正直なところ、賞を取るような素敵な感想文を書くコツを教えてもらえると思って子どもを参加させた保護者にとっては、期待外れだったかもしれない。でも調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、読書感想文の正解探しは徒労にしか思えくなったのだ。だからこそ、今苦しんでいる子どもや親が、できるだけ呪縛から逃れて、純粋に読書を楽しめるような方向に持っていきたいと考えた。
ゼロから文章を書くのはそんなに簡単なことではない。読書感想文を書いてみようという子どものチャレンジは素晴らしいと思う。もし本選びや書き方で子どもに助けを求められたら、保護者の皆さんはぜひサポートしてあげてほしい。
でも、立派な感想文なんて目指さなくていい。親が子どもにダメ出しする必要なんてない。子どもが楽しめる範囲で、書きたいように書いたらいい。むしろ、感想文はそんなに頑張らずに、読書を楽しんでほしい。上手な読書感想文を書けても、生活や仕事に役立つ場面はそれほどないけど、読書の習慣は一生役に立つから。
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