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決めつけずに考える力

みなさん、日々のニュースをどんな視点で見ていますか?

私は学生の頃なんかは、ニュースを見ても「まあ、私には関係ない人たちのことだしな」と他人事として考えてしまっていたのですが、非常に勿体無かったと思います。

思考力や物事を調べる力、好奇心など様々な能力を高めてくれるキッカケになるニュースをそんな風に捉えていた頃の自分に「大人の嗜みとしてニュースの見方を知っておくべきだぞ!」と力説したいくらいです。

ニュース(報道)の見方

ニュースを見るとき、私は以下のような手順を用いることが多いです。それぞれの間を更にループすることも多々あります。

①感情による個人的感想を持つ→②感想を捨てて客観的な事実のみを残す→③疑問(好奇心)を持つ→④疑問について調査する→⑤考察してまとめる→⑥「私の意見」を持つ

この習慣は、20代後半くらいから身に付けたものなのですが、出来ればもっと早くから身に付けておきたかった習慣のひとつで、子供が生まれたら身につけて欲しいと願うことの一つです。

具体的にどういうことか説明するために、最近起こった痛ましい池袋の交通事故のニュースを例にしたいと思います。

この事件については本当に多くのことを感じ、考えました。そして、私はまだそれを消化しきれていませんので、所々むちゃくちゃになっているかもしれませんが、頑張ります。。

①感情による個人的感想を持つ

まず、この事件について大抵の人は亡くなった母子や遺族へ感情移入し「悲しい」「辛い」という気持ちになりますよね。そして、加害者側に怒りや憎しみの感情を持つかと思います。

このこと自体は、至極当然のことだと思いますし、私自身もそう感じた人間の1人です。存分に人間らしく悲しんだり、怒ったりして良いと思います。

ただ、ここで終わってしまうのは余りにも条件反射的すぎると思うのです。

自分の感情に流されている状態というのは、実はとても気持ちのいいことです。

思う存分、怒りの言葉を発してエネルギーを発散したり、悲しみの涙を流すということはカタルシスを感じ、何ならこのまま感情の発散を続けていたいと思ってしまうくらい依存性の高い本能的な行為です。

だからこそ、大人はここで終わってはいけないのです。

②感想を捨てて客観的な事実だけを残す

次にすべきことは、なるべく先程のような感情を排除した事実のみを正しく認識することです。

つまり、自分の感情バイアスや報道機関のバイアスをなるべく抜きにした事実のみを認識するのです。

情報リテラシーの問題になると思いますが、私個人のやり方としては、一つのニュースを色々な報道機関が各々どのように報じているかを比較し、一致していている部分は事実として認識します。一致しない部分は、何らかのバイアスがかかっている可能性を考えます。

・乗用車を運転していた男性が、母子を含めた8人(運転者夫妻を含めると10人)の死傷者を出す交通事故を起こした。

・加害者は今現在、逮捕されていない。

→これは事実。加害者の年齢よりも圧倒的に未来のある若い母子が亡くなったということや、加害者の社会的立場が高いことから、年代や経済格差による対立を生むような感情論になりがちだが、感情バイアスを外すために運転者の属性をなるべく排除して事実を認識するようにする。感情バイアスを外すと、自分も加害者の立場になる可能性も想像できる。

・加害男性は足を悪くしており、アクセルとブレーキの操作を誤った可能性が高く、ブレーキ痕がなかった。事件当時はパニック状態でハンドル操作をしていなかったと思われる。

→これは、事実と思われる事柄。各報道機関による捜査関係者への取材=ほとんどの報道機関共通の報道内容なので。

このようにシンプルに事実を見つめると、今度はそれまでかかっていたバイアスについて疑問が出てきます。

③疑問(好奇心)を持つ

なぜ自分を含めた多くの人が「高齢者運転の是非」「社会的立場のある加害者に対する疑念」というバイアスをかけているのか?

そして、そのことは本当に問題の本質なのか?

ちなみに、私がこの件について考えた具体的な疑問はこんなことです。

「高齢者による交通事故は増えてるというのは、本当かな?本当なら、どうすればいいのかな?」

「交通事故に対する法律ってどうなってるの?逮捕するしないの線引きはどんなルールなの?」

このように疑問を持つには、好奇心や他人への共感が必要です。つまり、自分の内面レベルが物をいいます。

ここで、振り返ってみると①で自分視点でニュースを感じ、②で一旦自分視点から離れて別角度の視点を持つ。そして③でもう一度自分視点に戻り、①②を元に疑問を感じるという流れになります。

このように視点をくるくる変えることがニュースの見方の本質と言っても過言ではありません。

④疑問について調査する

ここまでの流れで予想できると思いますが、④で、また自分視点から離れます。

まず、色々調べてみると、交通事故の数自体は、免許取り立ての若者世代と高齢者がほぼ同数(ともすると、運転者数から考えると若者の方が多いくらい)の状態だということがわかりました。

つまり、今回の件の原因としては、高齢者による交通事故の増加も要因の一部ではあるが、全部ではないので、他にも考えるべきことがあるという結論になります。

次に、交通事故に関する法律や逮捕に関して色々調べてみましたが、事件のすべてが明らかになっていない今、確かなことは言えないものの、加害者の社会的立場よりも「加害者がかなり高齢である」という事実が適用される法律、逮捕要件の重要因子になっていることだけは確かなようです。

加害者側の話をするのは、彼らが何もコメントしていないので、決めつけにならないよう注意したいのですが、少なくとも日本の平均水準より上の生活、経済活動のできる人々であること、またその環境ゆえに自分たち含め周囲への影響を最低限に抑えるすべを知っている人々であることも事実でしょう。

噛み砕いていうと、富裕層で周りの目を気にする世渡りの上手いタイプだということです。

私だったら、自分や自分の親が死亡事故を起こした時に素早くSNSのアカウントを消そうとか、自宅電話を解約しようとか、そこまで考えが及びません(このことは事実かどうか不確かですが)

普段から「人からどう見られるか?」「周りの人に迷惑がかからないようにしよう」ということを人並み以上に考えているような人たちだったんだろうと思います。

逆説的な表現をすれば、それが出来るからこそ社会的に高い立場を手に入れることが出来たのだと思います。

⑤考察してまとめる

ここでまた、自分視点になります。

なぜこの件について私を含め、多くの人がこんなに感情的になってしまうのかを考えてみると、私の場合、被害者側の人々の年齢や境遇が自分に近いということを差し引いても、「未然に防げたはずなのに」という気持ちになってしまうからだということに気付きました。

他の人には他の理由もあると思います。

自分より経済的に恵まれている人への羨望や、世代間格差に対する憎しみなど、様々な理由が考えられますが、私は

「家族含め周囲の人間は、もっと免許返納を促せなかったのか?」

「加害者本人が自身の足が悪いことを自覚していたのに、なぜ運転を続けたのか?」

「田舎ならまだしも、交通網の発達した東京(シルバーパスで高齢者は無料でバスに乗れたりする)に住んでいて、経済的にも余裕があったのに、どうして自動車を手放さなかったのか?」

このことについて、なにも加害者側から状況を聞くことができていないから、これらのことに納得できない気持ちになっているのだと思います。

まあ、おそらく「こんなことになるとは思っていなかったから、そこまで深刻に捉えていなかった」という理由に尽きると思うのですが。

であれば、再発防止のためには個人の判断に任せていてはいけない問題なのではないか?という結論になり、何らかの法律や条例の整備が必要だということなります。

⑥「私の意見」を持つ

ここまできてようやく、自分の意見を述べることができるようになります。

高齢者に免許返納を促す話が出ていますが、自主的に返納する高齢者は、自身の能力やその他のことについても判断能力の高い高齢者であり、そもそも事故を起こす可能性の低い人であると言われています。

たしかに、そういう側面もあると思います。

しかし、自主返納も是非やってほしいことなので、どうかこの動きには水を差さず、自主返納を拒否する運転能力の足りない高齢者に向けての対策も更に考えていってほしいと思います。

私個人の意見としては、一気に色々変えるのは難しいと思うので、これを高齢者による運転の是非問題と捉えるなら、まずは自動車以外の交通網の発達している東京23区内は条例なり法律なりで、運転免許の上限年齢を設定する、というのが一つの案です。

運転する権利を老人から奪うことになる=憲法違反になるのでしょうか?

でも、運転免許には下限年齢もあるので、これには当たらないのではないかと思うのですが、実際どうなんでしょう??

あともう一つの案は、高齢者に限らず免許更新時の試験を厳しくするということ。

私は、今回の件のもう一つの問題点は「運転技能が不足していることを本人が自覚している、もしくは自覚できる状況にあったのに運転を継続できたこと」ということだと考えています。

私自身も免許更新を何度かしたことがありますが、正直拍子抜けするくらい何もなく、なかば自動的に免許は更新できます。

このこと自体が、実は問題なのかもしれないと感じるようになりました。

免許更新時に筆記や運転技能に関する試験を、免許取得時と同じくらい厳密にやる手間というのは、恐ろしく膨大で非現実的だとは思いますが、少なくとも希望者および、家族などからの希望で実施することは可能だと思います。

また、今回の加害者のように足の悪い患者の診察をした医師が当人の運転免許の有無を確認して「運転停止」を勧告するような診断書を出すような仕組みにすれば、少しはこのような事故は抑止されるのではないかと思うのです。

特に高齢者は、家族から免許返納を促されても聞き入れないことが多いようですが、医師からの言葉や書面があることで診断書自体に強制力がなくとも、運転を控えようとか免許返納しようとか、自身の運転について考えを改める機会になるのではないかと思うのです。

実は私は、免許取得時の卒業技能試験に落ちています。正直、このことがトラウマになっていて、自分の運転技能には全く自信がありません(私はペーパードライバーで、運転する機会があっても絶対に運転しない、というより出来ない人間です)

今回の加害者は、直近の免許更新時には、認知能力にも問題がないという結果が出たため、無事に免許更新できたようですが、運動能力(運転技能)については、試験がなかったと思います。

運転には、認知能力だけでなく運転技能=身体能力も必要であるという発想が、免許更新時に抜けているのではないかと思うのです。これが試験として追加されれば、今回の加害者も私も免許を更新することは不可能になると思うので、是非やってほしいです(私の場合は情けない話ですが。。)

また、逮捕の要件についても、逃走の可能性とか高齢者の体調への配慮とか、様々な側面があるということを初めて知りました。調べてみると、色々なケースがあるのですね。

これも私個人の意見ですが、この件の加害者が逮捕されない可能性は充分にあると思います。

ただ、刑事告訴は逃れられないと思うので、そちらで法的な形で遺族の方々へ償いをしてほしいと思います。

無理矢理に遺族へ心からのお詫びをしてほしいとは思いません。そう考えるのは、私の中で「お詫び」という概念が定まっていないからです。

この「お詫び」の話については、長くなるのでまたの機会にしますね。。

まあ、でも出来れば遺族の方々が納得するような心からのお詫びや謝罪をしてほしいと思います。

最後に

と、ここまでニュースの見方について長々語りました。超大作になってしまいましたね。。

このように一つのニュースから、色々なことを考えることが出来るので、私はニュースを読み解くのが好きです。

自分の内面をよく知ることが出来るし、思考する力、表現する力が養われ、人として深まっていける実感を得られます。

多角的な物の見方や、感じ方が出来るというのは私にとって理想です。是非、自分もそうありたいと思いますし、自分の子供にもそうなってほしいと思うので、ニュースについて色々語れる親子になれたらいいなあと思います。

まだまだ。めちゃくちゃ先のことになると思いますが。

あなたの貴重な時間をありがとうございます。私の表現することを少しでも面白いと思っていただけたなら、飛び上がって喜びます。スキやコメントも合わせていただけると、とっても嬉しいです!