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科学(理学療法)と非科学(スピリチュアル)から考える治療の本質とは?

私は理学療法士を7年間続け、現在はリハビリテーション分野には携わっているものの一般的な人が思い描く理学療法(歩く練習,マッサージ,筋力訓練)とは無縁な状態だ。

それでも理学療法で学んだ知見を活かして、ボディワークを
就労という領域で利用者様に日々提供しているのである。

※ここでのボディワークの定義は
「様々な身体に対する技法をもって働きかけを行い気づきや自己成長に伴うQOLの向上を図るもの」とする。
(リハビリ,マッサージ,カイロ,オステオパシー,マインドフルネス等々)


「働く人のための理学療法」という新しい分野を今は開拓中である。


さて、話は変わるが私は徒手療法もそれなりにやってきた。
特にオステオパシーに関しては4年間で月1~2回通い詰めたほどだ。
そのオステオパシーと呼ばれる徒手療法の‘‘秘奥義‘‘の勉強会が東京にあると聞いて今月の初週に受講したのである。(12月)

その秘奥義の名前が
「クラニオセイクラル-バイオダイナミクス」である。


受講の動機は2つある
1つは、いつか何らかの形で事業所で一対一のボディワークを提供する際に役に立つと感じたからである。

2つ目は講師が何と宇宙物理学者なのである。
バリバリ理系の学者が何故バイオダイナミクスを学び実践しているのか
非常に興味が湧いた事が受講のきっかけでありどちらかというと
2つ目の動機の方が大きい。

ちなみにバイオダイナミクスについても簡単に説明させて頂く。
どうやらオステオパシーにも二つの流派が存在し、
一つがバイオメカニカル(生体機械論的アプローチ)である。
この流派の特徴は解剖・生理学に基づいた形態的な面からの施術を行う
流派である。私が今まで勉強してきたのがこの分野である。

もう一つが、バイオダイナミクス(生体力学的アプローチ)である。
より穏やかで繊細なタッチを特徴として人間を「一つのもの」として捉えて施術するという考え方を取っている。

この二つの流派には決定的な違いがある。
それは、問題点(オステオパシーでは「鍵となる病変」と呼ぶ)を
見つけ出すか出さないかの違いである。

これは決定的どころか、そもそも問題点を見つけ出さない治療は、
治療として成り立たないのでは?という疑問が真っ先に浮かぶ程である。

バイオダイナミクス・・怪しい。
だからこそ知りたい!という良く分からないものの探求心
好奇心が頂点に達したのである。

ちなみにHPに記載されていた文章をそのまま一部引用すると

「何もしないでただ生命力にゆだね見守ること」
これがこのワークのエッセンスです。

この講座は、クラニオの施術者を「養成」するものではありません。
従って、解剖生理学の詳細や、施術者としてのテクニックを
学びたいという意図の方には向いていないかも知れません。
ここでお伝えしたいことは、
ジャッジなくクライアントに意識を注ぐ、

しかもセラピストとしての願望もエゴも押し付けない
シンプルなあり方、というものです。

何もせずクライアントの「健康」だけをだた見つめる事・・
その事が、「治癒性」「生命力」を高めるとの事だ。

回復に向かう力が沸き上がっていく、世界が私を生かそうとする
力をただ意識する、注意を向ける・・だたそれだけ。

上記の文面から、神秘的な側面が強い事から「スピリチュアル」ではないかと皆さんは思われるであろう。わたしは「オステオパシーの皮を被ったスピリチュアルなのではないか?」と思ってしまった。

ちなみに「スピリチュアル」とは
目に見えない精神世界,心霊主義または科学では明かされていない領域
と定義づける。そのため、代替医療もどちらかというとスピリチュアルな領域として今はカテゴライズしたい。

そして、当然この「スピリチュアル」と「理学療法」の相性は水と油である。犬猿の仲である。(最近はそうでもないかもしれないが・・)

理学療法という科学の立場では
「何か良くなった気がする・・」
「何かすっきりした感じがしました」
では治療結果としてはやや不十分であり、目に見える形でそれらを証明しなければならないのである。(法則性を見出すため)
また、100人中80人がある方法で改善効果が認められたのであればその方法を用いるのが科学である。

「良くなるか分からないがとりあえず今からお手当てをしますね・・」
ではそれは認められないのである。

もちろん、「科学的根拠はあるのか?」と言っているものの、私も含めぶっちゃけほとんどの理学療法士が科学的根拠に基づいているかというと微妙だと思う。(もちろん王道は知っておく必要はある)

病院時代にオステオパシー用いた施術を患者さんに実施した所、
上司に呼び出され「科学的根拠はあるの?」と詰められたのだが
「だったら一年目はどうなるのだ」と心の中で突っ込んだ事がある。

話を基に戻すが、理学療法士のみならず医療分野において国や政府から認められた人たちを「専門家」と呼ぶ。専門家たちは科学信仰である。
なんせ3~4年はみっちり科学をたたみみ込まれるからである。


よって科学信仰者である私は、講座中もKY発言を連発するのであった。
「何をもって回復と呼ぶのか?」
「プラシボ効果なのではないか?」
「同調圧力がもたらした幻想なのでは?」
「バイオダイナミクスを知らない人が施術を受けた場合効果が認められないのではないか?」
                          等々である
何故上記のような発言をするのか?
それは本当に「何もしていない」からである。
ただ、触れているのみでそれで終わりなのである。

踵に触れて健康(生命の息吹)をただ見つめる・・・のみである。
ちなみに、「愛」はいらないそうだ。(笑)
※先生曰く「余計な事をするな!」である。

ここで思い出したのは「思考が現実化する」という有名な人の言葉だ。
意訳すると「思えば叶う!」というやつだ。
「その実践か?」と疑ってしまった。


また、量子力学に有名な実験によって
「観測する事で物体の性質が変化する」というものがあるが
その原理かと一瞬考えた。

しかしながら、あまりにも身体に及ぼす影響としては微細すぎる
のではないかと思ってしまう。

※なお2重スリット実験に関しては本当に良く分からないので
各自で調べて欲しい。

よく適当に触れただけで肩の動きを変えてしまう施術動画を見て周り
(客?サクラ?)が驚いているがその持続効果はいかようかは不明である。


ちなみに、私以外の受講生は好感触であり終わった後の満足感やポジティブな印象を持たれている様子であった。皆が晴れやかな顔で清々しい心持ちの中で私だけが納得できていない様子なのは、さながら宗教に支配されまいとする愚民のニュアンスがあった。

そして、私の頭の中にある思いが去来した・・・


どうやら変化をもたらす要因はセラピストの技術ではなくもっと別の要因があり,恐らくその割合は自分が思っている以上に高い


薄々は感じていたが、改めて気づかされたのである。
これは大きな収穫である。

事実として効果がなかったかと言われるとそうでもなかったのである。
施術を受けた後、確かに疲れが取れたような気がした。
(肉体というより神経の疲れがとれた)
呼吸も楽になった、、それは確かである。
しかしぶっちゃけ良く分からない。

「さあ、いよいよ治療というものが分からなくなってきたぞ」と
モヤモヤしている自分がそこにはいたのである。

問題点を抽出して介入して変化を引き起こすスタイルと
真逆のスタイル(評価しないというスタイル)を信じ切れていないが
確かに体は楽になったし、私以外の周りの人間は満足している
様子なのである。

人の癒しが起こるプロセスとは何なのか?
治るとは何を指すのか?

もう一度本格的に考える必要があると思い色々本を漁ったが
特に参考になったのが東畑開人先生の著書「野の医者は笑う」である。


この書籍で述べている「野の医者」とは
癒しについて関り、正規の科学から外れている人たち」をさすのである。
※つまりスピリチュアルも含んでいる。

詳細は読んで頂ければいいが、臨床心理士である東畑先生は様々な
「野の医者(例,ヒーラー,足つぼ,レイキ,占い,民間セミナー等々)」
と関り一つの衝撃的な事実を述べている。以下を参考にして欲しい。

野の医者たちは懸命に「何故病気が起こりどの様にすれば治癒するか」を物語っていた。そのような物語をクライマンは「説明モデル」と呼んでいる。
治療者と病者が説明モデルを共有してその説明モデルに基づいて課題に取り組むとき治癒が生じる。
クライマンは治療というものは一般的にそういうメカニズムで行われていると述べる。

レヴィ=ストロークは面白い小話を書き伝えている。
ある懐疑的なアメリカの原住民のケサリードが呪術師の事を疑うあまり
真実を知りたくて弟子入りする。すると呪術師はケサリードに秘伝の術を教える。綿毛を口の隅に隠し、舌を噛むかして、口の中を血まみれにする。すると綿毛は血の塊のようになる。呪術の後にそれを取り出して「病原菌を取り出したぞ」と宣言するそういう術である。
ケサリード自身は呪術を信じていないにも関わらずその術を使うと人々は驚いて次から次へと治療が成功する。
つまり、治療とはもっともらしい時に成功するのである。

アメリカの精神科医ジェローム・フランクは「説得と治療~心理療法の共通要因~」という本で恐るべき結論に達している。心理療法が人が癒すことが出来るのは治療者がクライアントに説得するからなのだと。
つまり、治療者の説明モデルがクライアントを巻き込むことで治癒が生まれる。そういう結論だ。
だからフランクは全ての治療の本質は「科学的真実」ではなく
「レトリック(もっともらしい事を言って納得させる技法,雄弁術)」
にある
とまで述べている。

実際医学や臨床心理学も大量のミラクルストーリーを語り続けてきたのではないか・・。医学はテレビを通じて外科医の奇跡的な手術を宣伝し、再生医療の最前線で人知を超えるテクノロジー盛んに広告してきた。臨床心理学も出版物や講演で自分たちの治療が素晴らしいものであるとアピールしてきた。
私たち(専門家と呼ばれる人たち)も「野の医者」も同じメカニズムにのっとって治療を行ってきたのではないだろうか?

上記の引用は全て「野の医者は笑う,心の治療とは何か,東畑開人」である。

ここまででいえる事は、「スプリチュアル的な介入も科学的な介入も
治癒のプロセスにレトリックが存在する
」という事である。

※レトリック:もっともらしい事を言って納得させる技法,雄弁術

人の癒しが起こるプロセスとは何なのか?

さて、私の経験談もお話させて欲しい。

私に理学療法の本質を教えて下さった師匠と飲んでいた時の事である。
※一番最初の病院でお世話になった人

私は聞いたのである。
「患者(クライアント)に変化(治癒)がおこる要因って何でしょうか?」

師匠は答える。
「5つの要因があると思う。
 1つは、患者(クライアント)の自然治癒力
 1つは、セラピストの知識
 1つは、セラピストの技術
 1つは、信頼関係
 1つは、プラシボ効果
変化にもたらすために重要なアプローチは【設定】だよ!」と教えて頂いた。

私はさらに突っ込んだ
「【設定】とは何なのでしょうか?」
具体的に教えて頂いたが一言でまとめてしまうと要は
レトリック(もっともらしい事を言って納得させる技法,雄弁術)
なのである。

話は変わるが今日たまたま教会で礼拝をしたときに
なんと教会でおばあちゃんに対し施術しているセラピストがいたのだ。
私は、少し遠くから観察していた。

おばあちゃんは恐らく肘内側上顆炎(肘の痛み)らしき症状を訴え
時間が少ない中でセラピストは説明するのである。
「これは恐らく手首を曲げる筋肉が頑張りすぎて起こった症状ですね。
使いすぎない様に注意しましょう。」
「今から隣り合う筋肉の硬さを取り除きますね」

これぞ、まさにレトリックである!!(笑)

この様な説明がないと「変化」は起こりずらい。
それは臨床経験上もあきらかである。

痛みの原因を「内臓にある」だとか「経絡にある」というように解釈が
バラバラであるが原因を説明する事は、すなわちレトリックを
用いている
のである。

また「設定」とはレトリックだけではなく、施術者が有している
属性(資格,臨床経験,年齢,実績等々)や環境設定(病院,自宅,お寺)
などである。

つまり、変化が起こるプロセスとは、属性-環境設定‐レトリックを用いる事で生じる「期待」と「イメージ」なのではないか?

そして「設定」とは、変化を引き起こすための「期待」と「イメージ」
を作り出すための環境調整である。

クラニオバイオダイナミクスの話に戻すが
決して安くない金額の値段設定である。
これも「設定」である。

「大金を支払っている以上、変化が生じるはずだ。」
「海外のオステオパシーの研修を受けた経験があり
 資格も有している先生だ。故に効果が認められるはずだ。」

上記は全て、信頼関係やプラシボ効果をもたらすための「設定」
としても捉える事もできる。

※やや穿った見方だが、その様な要因も治癒の過程に必ず介在している。

ちなみに、臨床家はこの「プラシボ効果」はあまり好きではない。
プラシボ効果とは、薬効成分を含んでいない錠剤を与えても医者を信頼していれば患者は顕著な改善を見せるというものである。

私はプラシボ効果を狙う事も技術の一つだとして師匠から教えてもらっていたため何も感じなかったが、ある優秀なセラピストに聞いてみたことがある。

「プラシボ効果を狙ったリハビリって先生はありかと思われますか?」

その優秀なセラピストは答えた。
ありだけど、僕にとってはそれは本物の専門家ではない

本物の治療とは、別の次元で行われるべき」だとその優秀なセラピストは考えているだろう。事実その優秀なセラピストは解剖・生理・リハビリの技術面に関して他のセラピストを卓逸していた。

血反吐を吐く思いで勉強に励み自己投資も相当して、臨床経験も豊富であるからこそ、重みのある言葉であるが
踵に触れるだけで良くなる人、それだけで満足感を得られる人たちを見て
「治るって何なのだろう?」と考えざる得ないのである。


※この記事を書いている時の私の心理状態としては
「クライアントが満足すればそれで良いのでは?」と良くも悪くも
開き直っている自分がいる。

※もちろん、専門的な知識や技術を否定しているわけではない。

疑問が確信に変わった研究を以下に紹介させて頂きたい。

彦根市立病院緩和ケア内科 黒丸尊治先生の勉強会資料を抜粋

日本ホリスティック医学協会 関西支部 (holistic-kansai.com)

なお上記で応募すれば有料動画が見れるので参照して欲しい。
かなり興味深い知見が得られるの内容である。

偽薬と本物の薬で「改善度」を比較したものであるが、特筆すべき事は
心理関係においては50%以上はプラシボ効果によるものである。

例えば、うつ病であれば抗うつ薬の効果が100%とし
そのうちの75%がプラシボ効果で良くなる割合なのである。

※本物の薬は10点の改善効果があった。
 偽物の薬は7点の改善効果があった。

重要な事は「本物の薬の作用の中にプラシボ効果も含まれている
という点だ。ここがプラシボ効果を軽視するトリックである。

つまり、我々が提供する専門的な技法(心理でいう認知行動療法や精神分析、リハビリではAKAやボバース等)は少なからずプラシボ効果が介在しており、しかもその割合は少なくない可能性があるのである。

なお、糖尿病に関してはヘモグロビンA1Cの値を調べるが、偽薬は
3割が低くなるという恐るべき結果が出ている。

プラシボ効果・・悪く言えば「思い込み・・
良く言えば「信じる力」もしくは「心の治癒力」ともいえるであろう。

実際に市販されているプラシボ薬もある程だ。

上記は市販のプラセボ薬である。
きっかけや儀式や道具によってプラシボ効果が生じるのである・・
とにかく、飲み込むというプロセスが重要

科学(理学療法)とスピリチュアル(レイキやバイオダイナミクス)の両方の共通性はレトリックやプラシボ効果という元も子もない事を述べてきた。

信じているものが違うだけで本質は同じなのである。
※私は科学という宗教を信じている。

しかし、何度も言うが私は技術や知識を軽視しているわけではない。

私の師匠が教えてくれた言葉をここに引用する。

技術とは概念のもと成り立つものである。
概念とは知識の集合体である。
理論は知恵を導く。

技術は知恵の結晶である。
知識の多さは技術の深みである。

私なりに意訳すると概念とは「治療哲学」である。
何をもって病理とするのか?
何をもって治るとするのか?
諸悪の根源は何なのか?
自分の行う支援の限界点はどこなのか?

このような概念を形成して「治療哲学」として確立するためには
「知識」と「技術」が必須なのである。

それだけはくれぐれも頭の片隅に置いて頂きたい。

※なお心の治療は目に見えない曖昧なものであるが
 体の治療に関しては目に見える物理的現象である。

※体はニュートンの運動法則に適応するが、
 心は適応するものがない。(参考にはできるものはある)

 つまり、身体に介入する理学療法士は具体性が高く
 はっきりした方法論を用いるが一方で自由度が低い。
 心に対する介入は抽象度が高く自由度が高いが曖昧で
 あり時には軽薄となりやすいのではないかと考える。

クライマンのヘルスケア・システムから俯瞰する

ここで、科学(理学療法)とスピリチュアル(野の医者)をさらに俯瞰していきたい。非常に分かりやすいモデルとして医療人類学者であるクライマンのヘルスケア・システムの構造について紹介させて頂く。

クライマンは、特定の地域の社会文化的状況下で人々がどのように心身不調に対処するのか、すなわち病気をどのように認知し、 命名し、説明し、
処置するのかの総体をヘルスケア・システムと呼んだ。

クラインマン医療人類学の意義,大橋英寿より引用

我々のヘルスケアを取り巻く場において
3つの「セクター」が存在するのである。

一つは民間セクター
(例:ホームケア,セルフケア,人間関係,悩み相談等々)


一つは専門職セクター
(例:病院,医師,理学療法士,作業療法士,公認心理師 等々)

一つは民俗セクター
(例:シャーマニズム,信仰治療,占い等々)



人は上記のセクター間を行き来しながら病気や心身不調に対処していく
クライマンは述べている。

ちなみに、足つぼや鍼灸やオステオパシーやカイロ等は「専門職セクター」と「民族セクター」の間に存在するのである。

アメリカではオステオパシーは医療行為とみなされているため
「専門職セクター」にあたるのである。

それぞれセクター間で相互作用が起こっている。
例えば、体の不調が出現した時,民間セクターを用いて
病院(専門職セクター)に結び付けたり
腕の良いヒーラー(民族セクター)を紹介したりする。

また、「専門職セクター」で補えない部分を
「民族セクター」が補い逆もまた然りである。

人々のヘルスケア(人間の健康維持-回復)を取り巻く「場」に関わって
いる理学療法士(科学的な介入)や野の医者(スピリチュアル的な介入)は
本質的には平等である。

「専門職セクター」と「民族セクター」の大きな違いは
国と政府から認められているか否かである。

よって、私を含めた「専門職セクター」に属する治療者は時として
野の医者を攻撃するのである。
政府は科学信仰であり、我々もその教育を受けてきたため
「科学的根拠はあるのか?」という批判を行うのである。

一方で「民族セクター」に属する治療者たちは時として
医療で補いきれない側面を痛烈に批判するのである。

科学はもちろん欺瞞的な部分がある。
(製薬会社の情報操作やワクチン問題)

何を信じれば良いか分からないこんな時代だからこそ
野の医者たちが大頭したのではないかと思う。
※逆に今までが異常だったのかもしれない。

しかしながら全体(ヘルスケアシステム)で見たとき
両者のセクター(専門と民族)は
本来足りない部分を補うように相互作用しなければならない。

よって、争うこと自体が不毛なので協力し合うべきなのではないか。

私のモヤモヤが徐々に晴れていく。

シンプルに私は
クラニオバイオダイナミクスを治療として認められなかったのである。

では治療者はどこに向かえば良いのか・・・?

自分の信じている治療哲学が何なのかについて分かっていなければ
「何をもって治癒」とするかも分からないのである。

リハビリテーションの定義に「全人間的復権を目指すもの」と
あるが「所属する環境」や「個々の治療者の価値観」や
「軸となる学派(宗教)」によっても「全人間的復権」の定義が
複雑化されていくのである。

「治療の本質とは何なのか?」謎が謎を呼ぶのである。

ここで再度、書籍の「野の医者は笑う,心の治療とは何か」から引用したい。

治癒とはある生き方の事なのだ。
心の治療とはある生き方を与える
そして、その生き方は一つではない。
              ~中略~
それぞれの治療者はそれぞれの価値観を持っていてそれを時には
あからさまに、時にはひそやかに押し付ける。

故に心の治療とは、クライアントをそれぞれの治療法の価値観へと巻き込んでいく営みである。

心の治療に限定されているがこれはリハビリテーションにも言える事ではないだろうか?実は我々が提供している治療(癒しに関わる全ての総称)には個々のエゴが必ず介在しており、エゴに巻き込む営みこそが治療なのかもしれない。

※ここで言うエゴとは、「私の思い」「価値観」「願望」とする。

もう少しで治療の本質に答えが見いだせそうな気がする。

次に、「膝関節理学療法マネジメント,監修:石井慎一郎,
編集:森口晃一」の森口先生の序文が大変参考になったため紹介させて欲しい。

患者の機能障害の対応はセラピストの着眼点や判断によって異なる現状がある。当然臨床結果もセラピストによって異なる事が多いのは否めないのである。このように個々のセラピストの知識,経験,時には感覚によって提供のバリエーションが生じる理学療法を「アート」と捉えることが出来る。 
                 ~中略~
臨床現場ではこの「アート」の部分と「エビデンス(科学的根拠)」を融合する事の難しさが理学療法の課題であると感じている。

なるほど・・
治療とは生き方と価値観を巻き込んでいく営みであり
私は、上記の営みは「エゴ」を押し付けるものではないか
かと思った。(事実その様な側面は良くも悪くもある)

しかし、クライアント(患者)が自分のために良くなって欲しいという
「エゴ」を「アート」として表現した方が適切だろう。

個々の生き方や価値観はそれぞれが異なる「アート」である。

さあ、もう少しで答えが見いだせそうである。

治療とは生き方を巻き込むプロセスであり、生き方とは「アート」である。
つまり「個性」だ。

私自身がこれまで生きてきた背景の中で
何を癒しとして来たのか・・これこそが私なりの「アート」である。

私にとっての癒しのプロセスとは「体と心の仕組みを知る事
であった。自分自身の仕組みを知る事こそが癒しであった。

そのプロセスに巻き込む事・・
なるほど・・これが私にとっての「アート」なのかもしれない。

実際に私は就労移行支援事業所で講座を開催させて頂いているが
「体と心の仕組み」について力説している。

仕組みを知る事は癒しにつながる
その事を本能的に理解していたからだ。


そして多くの人から「楽になった」
「生きづらさの原因を知る事ができた」とお声をいただいている。

これがまさに、東畑先生が述べる「クライアントをそれぞれの治療法の価値観へと巻き込んでいく営み」なのではないだろうか。

もちろん、自分にとっての癒しのプロセスを他者に強要するのは「アート」ではない。「エゴ」である。時として客観的にクライアントに対し様々な手段を用いて介入しなければならない。その時に役に立つのは「知識」
であり「技術」であり「エビデンス(科学的根拠)」なのである。

そう考えたときにやっぱり「理学療法士は実はとんでもなくすごい事を実践しているのではないか」と改めて感じる今日この頃である。

※理学療法士のみならずリハビリテーションに携わっている人たちの包括的視点やバリエーションの多さよ・・・。

とりあえず、答えはある程度見いだせた・・

しかし課題もある。
価値観や生き方の決断がまだまだ難しい事や、生き方を貫くことは意外と
孤独」なのである。自由と不安は表裏一体である。

それらを述べるとおそらく20000字は超える可能性があるため本日はここまでとする。

ここまで読んでくださった方は私のファンかおそらく変人であろう。
(もちろん良い意味で・・(笑))

ここまで読んでくださって本当にありがとう。
そして、ここまで読んで頂いてくださってのであればぜひフォローをしてもらえるとありがたい!!

よろしく頼もう!!

ではでは!!

P.S.
ちなみに何もしないという事を実践している治療法は
クラニオバイオダイナミクス以外に何があるかを考えてみた。

「コーチング」や「マインドフルネス」はどうだろうか?

コーチングであれば、質問により答えを引き出す受動的な態度が求められているため類似しているだろう。

マインドフルネスと「評価せずただ在りのままを見つめる事の実践」という意味では類似している。

しかしながら、両者には目的がある。
コーチングであれば、
質問によって適切な目標を自身で見出す事」を目的にする

マインドフルネスであれば「メンタルの安定化」や「リラックス」である。
企業で行われているマインドフルネスであれば「生産性の向上」であろう。

クラニオバイオダイナミクスに関しては、目的があいまいであり
「設定」も行わないのである。

※強いてあげるのなら「健康(生命の息吹)」を見つめるのみ・・

何かに似ているな・・と思った。
「そうだ、、【禅】だ・・」

禅は、「禅をする事」が目的である。
目標のために【禅】は実践するものではない。

クラニオバイオダイナミクスを実践している時に変性意識状態に突入する。
※変性意識状態とは、世界や宇宙と一体となっている感覚

没入する事とはまた別の感覚かもしれない・・

施術している最中は「禅」を行っている時と同じ感覚になるのである。

そして考察が生まれる。

施術者側が変性意識状態となり【命(生命を生かそうとする力)】を
ただ見つめる事で【共振(一体化)】が起こり
神経の疲れが解消されていくのではないか・・・?と。

そしてまた疑問が生まれる。
「共振(一体化)」が起こる条件って何だろうか。

謎が謎を呼ぶ・・・

これだから良く分からないものを学ぶ事は辞められない・・(笑)





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