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071 努力は人のためならず

努力で知る自分
 肉体的にも知的にも努力をすると、多分に自身の限界を知ることになる。そして、それの達成率がいかにも自分の能力に見える。だから努力によって自分を測ることができるという感覚になる。
 しかし、努力で知る自分は本当の自分なのであろうか。そんな簡単なことで自分を知れるはずはない。それはほとんどの努力は、その努力の方向も達成率もすべて社会的産物だからである。その努力により知ることになるのは、よくも悪くも社会への協調・迎合度合いだけなのである。

意味の無い努力
 「意味の無い努力は存在しない」このように考えたい時がある。すべての努力には意味がある、といったような意味にである。こんなときの努力の意味を具体的に考えれば、一生懸命にがんばれば結果などものの数ではないとか、努力したことは次の努力につながるとか、その努力の過程は自分の記憶にしっかり残る人生の彩りだとか、このほかにもいろいろな解釈が考えられ、努力になんらか意味を見い出そうとするものである。
 しかし、これらの答えは、疑問に正面から答えていないのである。ただの願望なのである。だからこのように理由づけをしても何も解決しないのである。この応えは、悲しいかな一種の心が発する疑問へのごまかし(背任)行為なのである。

意味無い努力は意味がない
 「意味の無い努力は存在しない」という考え方は疑問ではなく答えなのである。この答えの前には、「今している努力は意味がないのでは?」という疑問があるのである。再言すれば「今している努力は意味がないのでは?」という疑問に対して「意味のない努力は存在しない」と答えを続けているのである。
 しかし、残念ながら「意味の無い努力は存在しない」では疑問に応えていないのである。なぜなら「意味の無い努力が存在しない」が文字通り正しければ「今している努力は意味がないのでは?」という疑問が生じえないからである。現に疑問が生じているのは、今している努力にはどうも意味が無さそうだと感づいているからである。
ではなぜ、このように感じるのか。誠実に答えるならば、自身がすでに「この努力に意味がない」ことを充分に知っているからである。だから「意味の無い努力は存在しない」とする努力こそは、ほんとに意味ないことのである。それなのに意味あることとすることで色々な誤解を生じさせ、問題がこじれてくるのである。
 このようなことが頭に浮かぶのならば、なにはともあれ、努力とはなにか知るにいいタイミングにある。

意味有る努力
 逆の言い方をすれば「意味の有る努力は存在する」となる。これは確かにありそうである。しかし、ごく普通に考えれば、すべての努力に意味があるはずもないし、なくてもいいのではないか、とも考えられる。なぜ努力に意味を求めるのか。また、努力には意味がなくてはいけないのか。努力になにを期待しているのか。なんのための努力なのか。意味のない努力の方が美しいのではないか。色々疑問が生じてくる。

努力は人のためならず
 ただいえるのは、他人のための努力は存在しない、ということである。それは、仮に直接的な努力が他人のために見えても、それは他人がそうなることを欲する自分を満足させる努力であるからである。対象とされた他人が仮に一時的に喜んだ場合であっても、いずれは苦々しく思う可能性がある。潜在的な自分の気持ちが不明であり、そんなことを欲していない可能性が多分にあるのだ。だから不明な部分を除き、確実に言えるのはすべての努力は自己のためであるということ。「努力は人のためならず」である。
 また、他人から直接的な効力感を得るだけではない。それを知った人がいて、それでいい人などという評判があがったりして、努力はまわりまわって自分に返ってくる。「努力は人のためならず」である。
 そして社会に暮らせば自分だけに効果をもたらす努力はない。社会の中での努力はすべて、他人との比較対照をベースにしている。自分が試験勉強を努力すれば、ほかのだれかの順位が下がる。自社の利益を上げれば、他社の利益が下がる。自国が儲ければ他国がとすべて同じである。また、個人の自由意志でなりたい職業についても、ほかのなりたい人を蹴落としている可能性がある。自分の努力は善くも悪くも他人に影響を与えるのである。だから「努力は人のためならず」である。他人にとってよろしくないのである。
 大体、なぜ努力が存在するのだろうか。好きなことをしていれば、努力しているという感覚にはならないはずである。また、しなければならないことであっては、他に選択の余地がないほど追い込まれれば、それは努力といった感覚にならず、ただやるだけとなる。またしっかりした理想を持てばほぼ同じ心理的な状況であって努力にはならない。全くほかに選択肢はないのだから、ただ淡々とやるだけである。
 だから努力していると感じるのはどういう時か。他の選択肢がある中であり、あわせて、ほんとうはやりたくないのだがといった心労を伴い、行うことが努力なのである。だからその心労に対して、意味や甲斐を求めるのである。だから努力の真の意味は心労することにある。他の選択肢を充分に検討していない状態である。他に選択志があるということは後悔をする準備があるということである。
 この努力によりできるものがプライドやコンプレックスである。その努力が報われればプライドとなり、報われなければコンプレックスとなる。両方とも心労により歪んだ心である。換言すれば穢れた尊厳である。心が自然な状態なら、プライドやコンプレックなどは生じていない。社会を通してみた自分に誇れるもの、すなわちプライドがあるのであれば、それは自分自身を卑下した尊厳である。努力でない努力をした時、自分自身は決して社会の評価を欲しないからである。逆に自分を卑下するコンプレックスがあるであれば、それは自身の誇大な尊厳である。自分はもっとできるという無根拠な気持ちがあるからである。それは不十分な努力による場合もある。いずれにしろ「努力は人のためならず。」自分という人をゆがめる、自分のためにならないことである。
 この「やりたくない自分に負けない」自分に克つという克己の精神は尊ばれている。しかし、この意味の克己は原語のセルフ・ディグニアルには無い意味である。原語の克己は、欲望にまけないこと、すなわち、やりたいのだがやってはいけないことをしない克己なのである。ただ昭和のはじめについた自分に負けない意は、そういった社会情勢があるからついたのであり、美化も醜化も当時の人間の失礼にあたる。
 心労を伴う努力はいびつな人間を作る。いびつな人間はいびつなことを他の人間に求める。そしてさらにいびつな人間をつくる。いびつな人間が集まって、よりいびつな社会になる。いびつさを自覚して加減できれば、いびつさを活かすことができるようになる。
 努力は人間一般にとって一方的にためになるものではない。心理的に中途半端な状況でやっているのだから、当然中途半端な人間になるだけである。また、他人に努力を求めるのは、あまりにもかなしく未熟な人間の心理状態だからである。だから「努力は人のためならず」となる。人間の努力は人間のためにならないのである。

努力とは自分を知ること
 だから努力こそは注意すべきことである。努力は簡単に効力感や無力感を生じさせる。簡単に有意義にしたり、無意義にしたりする。そんなに簡単に人生を楽しんでいいのであろうか。努力は劇薬に似ているのである。いい努力を少しすればいいのである。
 特に社会が要請する努力には、迎合しない努力こそが必要である。努力しない努力こそが必要である。それは、何もしないのでなく、事前に徹底的に調べ、よく考えることである。どんな状況下であれ、心底しなければないないことを探し、それをすれば努力などではなくなる。努力していると思わないぐらい自然な心理状態になる。甲斐を求めるのは自分にとってセンチメンタル(感傷的)なことなのである。ただ徹底的に頭と心と体の発する自分の声を聞いて応えればいいのである。そうするしか自分には方法がない、だから、ただしているのだと。その心理状態が「(ほかに)仕方がない」「(ほかに)仕様がない」なのであり、効力感を求めない心理状態なのである。
 かといって自身をあまりきつく追い込んでもいけない。自分が自身に逆切れする。あくまで上手に、丁寧に自分を追い込んでいく。そして自身にはそれしか選択しがない状態にする。そんな状態になるまで、自身が発する疑問に対して、自分でなんども回答する。自問自答である。努力とは自問自答でなくてはならない。ゆっくり丁寧に自分を扱うことであり、自分自身を知ることに通じる。

無駄な努力はない
 努力が甲斐を欲するのは、そのまま不毛であることを表わしている。それを知れば、それまでの努力が他に仕様の無かったと受け入れればいいだけである。真の努力は甲斐などを求めないのである。それまでの努力を無駄とすれば、それまので努力は無駄でなくなる。「努力は人のためならず」であり、自分で努力を消化する努力をして次の「努力しない努力」や「努力でない努力」や「ほんの少しでいい努力」にいくのである。
 唯一意味ある努力とは、意味があるものを無意味にしていく努力である。もうすこし丁寧にいえば、意味があるとして考えているものを、無意味の方向に考えていく努力なのである。しかし、いくら近づけても努力は無意味にはならない。そこに真の努力がある。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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