「ほどほどの金」と「安定」の向こう側にある「自由」と「真の謙虚さ」
これを書いたのは、もう2年も前のこと(と書きながら今、「いや、あれから“まだ2年”しか経っていないのか……」と思った。自分の中の『時間』に対する感覚が、ますます“一直線”ではなくなってきている感じがする。まぁ、戻れないことだけは変わらず「確か」なのだけど)。
今朝、目が覚めたあと布団の中でもぞもぞと、スマホの画面をとおしてこれを読み返していた。そして「今日はこれについてあらためて綴ってみたいな」と考えた(おかげで少し早起き。時間がたっぷりあって嬉しい&気持ちいい)。
「自分の時間やエネルギーを何に使うか捧げるか」について
あらためて「真剣であれ!」と思う日々。
本当に、私たちに平等に与えられているのは
1人に1つの「この命」と「1日=24時間」くらいで、
夢中になればなるほど、人生のスピード感は増していくものなのだろう。
この限られた人生の中で、何を「一番」にして生きていくのか……
意識的にであれ、無自覚にであれ、
どんな優先順位で暮らしていくかは人それぞれで。
だけど、「社会」ってものをうまく機能させていくためには
(つまりは、“権力者が満たされる社会”を維持するためには)
多くの庶民が「ほどほどの金」と「安定」を最優先にして
おとなしく働いてくれるのが一番なのだろう。
(「大金」でないところがポイント)
そう洗脳されていることを、ほとんどの人間が
自覚することなく生き、死んでいく。
それを「みんなと同じ、幸せな人生」だと信じて。
「個」が目覚め、みんなが自分の人生を輝かせるために
それぞれの可能性を追求しはじめたら、
社会の仕組みを利用している権力者には都合が悪いから。
「個」が目覚めないよう、たくさんの洗脳術を駆使して
この社会の中に「あほな庶民」を囲っておかなくてはならない。
「真実」だと思わされているものの向こう側。
本当の正義があるとしても、いつだってそれは
まるで「存在しないもの」のように隠されている。
「誰が」「得をするように」「仕組んでいるのか」、
見極める目を育てないことには、明らかな「違和感」さえ
感じることができなくなる。
それは洗脳術を駆使する人たちの思うツボ。
庶民には、自分の頭でものを考えることのできない
「あほ」でいてもらわなくっちゃね!である。
透明な洗脳術は、この社会に蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
さて。今日はどうしてこんなことを書いてしまったのか……。
ある意味とても「山羊座の満月」っぽいような……?
(今は冥王星も山羊座にいるしね?)
とにかく私は今、「ほどほどの金」も「安定」も選ばない。
「自由」を求め、自分の人生を歩いている。
どんなに社会に洗脳されたままの方が楽に生きられるとしても、
目覚めてしまったからには……戻れない、戻らない。
ますます夢中に、謙虚に、全力で、可能性を追求していく。
それこそが、すでに「自由」であり、私はもっともっと先へ行く。
(あとはやはり「健康」だな。この社会で権力者の歯車として働きながら
心身の健やかさを保つことほど、難しいことはないのでは?)
そして。
“この「命」を全うしよう”と自分の可能性に全力でひらいていくことこそが、
真の「謙虚さ」なのではないだろうか?
もしも「奇跡」のようなものがあるとしたら、
そんなふうに自分の「命」に真剣である者のもとへ降ってくるものだと、
どんなにばかみたいでも信じていたい。
そして、自分の命にすら尊厳を与えられないような者に、
真に他人の命を尊重することなどできないはずだ……と。
2011年3月11日の震災以降、『私と金』のテーマは生々しい「現実的問題」として何度も何度もこの人生に巡ってきた。そのたびに吐くほど向き合わされ、考えさせられてきた(それについては現在公開中の『砂漠を横切るラクダのように』の中でも嫌になるくらい語られている)。
『金』のことを思うとき、いつも私は泥沼の底へと引きずり込まれるような、実に無力で惨めな気分になる。あの地震が起きる前からそうだったし、今だってそう。
だけど(だからこそ?)、もうやめたのだ。
「できないこと」を思い煩って心身ともに消耗し死にたい気分に呑み込まれるよりも、「できること・したいこと」に人生をかけて取り組むこと、チャレンジすること・し続けること――それを決意し、覚悟したから。
(……うん。だけどこんなのは全部が全部「働けない=働こうとしない人」の言い訳にしか聞こえないのかもしれないことも、よくわかっているつもり。しかし私は「働きたい!」のだ。腹の底から“これだ”と思えるものに全エネルギーを注いで、そういうことで『金』を得ていきたい。暮らしていきたい。そう想うことを自分にゆるし、実行し、だからこその「謙虚さ」を知った。学んだ。そしてそれすらも全部丸ごと「表現」していくのが私らしさであると、今を生きる私は勝手に感じ、信じているのだ。YES!YES!)
あの働く日々の中(それは震災後、2012年が終わる頃)、会社に向かうバスの中で私は『ほぼ日』の糸井さんと吉本隆明さんのおしゃべりをまとめたもの(『吉本隆明「ほんとうの考え」』)を読んでいた。すると『003 お金』のところで涙が出てきてしまい(「何度読み返しても胸が熱くなる」と、あの日の私は綴っていたけど、本当に、今また久々に読んでみて……静かに涙があふれてきたわ)、その一瞬、ぐっとこらえて窓の外なんかを見たりして、心を落ち着かせ、そして確信したのだ。
そして、これを読んではっきりしたのだ。
「あぁ。私もお金のこと、ほんとうに欲しいとは思ってないんだな」ということが。
私は自分のことを、おそらくはずっと「自分では稼げないくせに、ものすごぉ~く金に執着していて、金が欲しく欲しくてたまらないから、それなのに稼げないから、こんなに苦しいんだ」と思っていた。だけど「お金はもちろん必要だし欲しいけど、ほんとうに、一番に、底の底まで欲しいわけじゃないんだ……」と思ったら、なんだか急速に心が静かになって楽になったのだ。
私はずっとずっと考えてきた。やりたいことを追い求めれば「お金」のテーマがつきまとい、何かに属して働けば「カラカラになっていく心」と向き合うことになる。たとえ小さく誰かをサポートできたとしても、自分が生きていくための金を稼ぐことができない限り、それを「仕事」にするのは難しく、何度チャレンジしてもここに引き戻される。こっちを残しつつ、とりあえずアルバイトを……なんて器用なことができるなら、とっくにどうにかなっている。だけど、いくらバイトでも手も気も抜きたくないから、いつだって全力投球しかできないから……「両立できる気がしない」というのは言い訳か? 自分で自分の限界を決めていることになるのか? どうしたら「これ!」と思える道で、お金も稼いで、生きていけるのだろう。……別に、すごい大金を稼ぎたいわけじゃない。ただ、自分一人が自立して生きていけるだけの、贅沢は言わない……それだけを、好きなことをして、人にも還元できて、小さくても自分の世界を確立し、それを仕事に生きていきたいだけなのに……。
だけど、ようやく腑に落ちた。
みんなにムダだと思われても、「それが何の役に立つの? どんな意味があるの?」と笑われようと、自分にできることは“こういうこと”なんだ。“こういうこと”しか、本当にはやれないんだ。したくないんだ。
つまり――自由を生き、どんなにお金に困っても、本当に欲しいものは『お金』じゃない。お金では買えない。それでもやっぱり人間だから死なない程度に、食べるのに困らない程度に、お金は欲しいわけだけど――と、そういうことだ。
~『砂漠を横切るラクダのように』【4-(2)】より~
そうして生きて、生き抜いて、生き延びて――今、ここ。
(まだ、ここ? もう、ここ?)
自分の人生を「信じたい」と思える限り、やれそうな気がする。
というか、結局こういう生き方しか「できない・したくない」んだな……。
そしてそれは「自分を知ること」であり、「受け入れること」であり、ある意味では本気で「自分をあきらめること」でもあって(ほかの生き方を「できる」と思うことを)、そこからでないと「明け渡すこと」などできないのだろうし、『自分の人生』をスタートさせることなんてできないのだろう。
(いや、自分を知らぬまま、「受け入れるって何? あきらめるって? 明け渡す……なにそれ?」のままでも、自分の人生を生きている人はたくさんいるのかもしれない。なので、あくまでも“私の場合”ね!)
そうだ。私は「私の言葉」しか語れない。
私たちはみんな、それぞれの『私』しか生きられないのだ。
だから――私は、書く。
書いて、表現していきたい。
そしてこれが、この生き方・時間の使い方・エネルギーの注ぎ方こそが、今の私の「自由」と「真の謙虚さ」!!!(あらためて、ここに記す)
追記
私が知らない・縁がなかっただけで、世の中には、ここに書いてあることが丸ごと意味不明になるくらいの「素敵な会社」も存在しているのだろうな。そういう職場で、疑うことなく自分の「居場所」を確保し、やりがいを感じながら働くことが叶っている人も、きっといるのだろう。ほどほどじゃない、そこそこの大金と安定を手にし、自由に、謙虚に、厳しさと楽しさの両方を味わいながら……。そういう「全部」が叶う世界があることも、感じ続け、憧れ続けていたいと思う。