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『くちびるリビドー』第18話/3.まだ見ぬ景色の匂いを運ぶ風(6)


 夕日を見た、久々に。本物の太陽が本物の海へと呑み込まれていく瞬間を。
 語り続ける私たちに「時間」なんてものは存在しなかったけれど、高く晴れ渡った空に真っ白な光を放っていた昼の神は、西に傾くほど巨大化し赤みを帯びながら、確実に私たちの頭上を移動し続けていた。
 そして、それを待ち構えるこの海の何者にも媚びることのない厳しさと激しさを前にしていると、嘘の言葉なんて口にするより先に風に吹かれて消えてしまう。沈黙さえ、岩に打ちつける波の音が(それは砂浜に寄せては返す平穏な波音とはまるで異なる)容赦なく剥ぎ取っていってしまう。

 やっぱり、ここの海は特別だった。
 砂浜から眺める遠浅の海は、レースの縁取りみたいに薄く伸びた「海の裾」のようだけど、岩場の海はいつだって、いきなり深い「海の腹」なのだ。
 油断すると危険がいっぱいで、簡単には触れさせてもらえなくて、だけどどんなに醜態をさらそうと全部丸ごと受け止めてもらえて、なのに慰めなんて微塵もなくて。
 せいぜい100年ぽっちの寿命しか持たない私たちなど、この圧倒的な自然の脅威の前では皆、ちっぽけで均一な「単なる人間」なのだ。どんな人生も必ず終わり、最後は誰もが死んでゆく――そう思い知ることの、心地よさ。

 知らず知らずのうちに麻痺してしまったセンサーを呼び覚ますように。寝ぼけたままの魂を、揺さぶり起こすように。
 私たちはただ在りのままに佇み、心のままに想いを吐露した。
 潮風に吹かれ続けた髪はまるで塩蔵わかめ、顔も手も服さえも塩辛くなったままで。
 太陽が完全に姿を消し、どちらからともなく「そろそろ戻ろうか」と腰を上げるまで。







くちびるリビドー


湖臣かなた








〜 目 次 〜

1 もしも求めることなく与えられたなら
(1)→(6)

2 トンネルの先が白く光って見えるのは
(1)→(6)

3 まだ見ぬ景色の匂いを運ぶ風
(1)→(8)


3

まだ見ぬ
景色の
匂いを運ぶ風


(6)


 夕食は、おばさんの家に再度お邪魔することになっていた(昼に店を訪れたとき、彼女は『深浦マグロステーキ丼』を配膳しながら「きりたんぽ鍋作るから、食べに来て」と繰り返し、伝票も「ここはおばさんに奢らせてね」と持ち去ってしまったのだった)。
 昔のようにベタベタのまま車のシートにもたれて、海から家へと暗くなりはじめた道を走っていると、本当に今がいつでここにいる自分が何歳なのか、わからなくなりそうだった。
 しかし、時間は確実に流れている。
「あの頃よく買いに行ってた能代のきりたんぽ屋さん、覚えてる? 残念なことに、この六月で閉店しちゃったんだよ。店主が高齢になったからって」というおばさんの言葉が、止まらないときの経過を痛感させる。
「えぇ~。継ぐ人いなかったのかなぁ。あの店、赤飯も美味しかったよね」
「ね。惜しまれつつ閉店、だって。だから、きりたんぽはスーパーで買ったやつだけど、おばさんの味は変わらないから」と、彼女は得意気に言った。
 そして、それは真実だった。
「う~ん! やっぱり美味しい! いくら教えてもらったとおりに作っても、絶対的に何かが違うんだよね。醤油かな、それとも水かなぁ……」と、私は唸りながら言った。

 何度も食べたこの味。ママには作れないこの味を、私に伝授してくれたのはおばさんだ。
 介護のために深浦の実家に戻るまで、おじさんとおばさんは結婚後もずっと能代で暮らしてきたせいか、私にとってのふたりは「青森の人」というより「秋田の人」という感じで、『きりたんぽ』や『だまこ』(炊きたてのご飯を半殺しになるくらいに潰して、一口サイズに丸め、きりたんぽの代わりに入れたりするのだ)といった秋田名物は、すっかりと私の「おふくろの味」になっている。だまこを作るときは、ご飯を潰したり、その器を両手で必死に押さえたり、アツアツのご飯を手の平に乗せて小さく丸めたりするのをよく手伝ったっけ。

 そして、東京に戻った私のもとには「瑠璃子にも作って食べさせてやって」とおばさんから、きりたんぽやセリなどが詰まったダンボール箱が何度も送られてきた(きりたんぽは、わざわざ能代のお店で買ったもの。水を少しつけてフライパンで軽く焼き直し、そのまま食べても最高に美味しい。甘い味噌をつけて食べれば『味噌たんぽ』だ。そしてセリは、近所のスーパーには売ってないような新鮮なもの。食べる直前に鍋に入れればシャキシャキで絶品)。
 せっかくの食材を台無しにしないよう、きりたんぽ鍋を作るときにはわざわざ鶏ガラからだしを取り(比内地鶏の鶏ガラもよく一緒に送ってくれた。やはりこれは味を大きく左右する)、時間をかけて丁寧に取り組んだものだ。……それでも、自分一人で作ったものは(たとえどんなにも美味しくできても)おばさんの家で食べるものとはどこか違うように感じられたっけ。



 それはきっと、作ってもらう者の「喜び」であり、受け取る「愛の味」だったのだろう。
 ママのために美味しく作ってあげることは「与える愛」であり、私はまだその喜びをよく知らない。どんなにママが「美味しい!」「ゆりあ、天才!」と褒めてくれても、いつだって私は「当然でしょ。それだけの時間と労力をきちんとかけてるんですからね」とか思いながら、クールに受け流していたものだ。

 そして今、二十七歳になった私は思う。
 外食が大好きで、手間のかかる料理などほとんどすることのなかったママとの生活しか知らなかった私に「食の大切さ」を教えてくれたのは、おばさんだ(「食べたものが体を作る。基本は、何をどんなふうに食べるかだ」というようなことを、私は言葉ではなく、台所に立つ彼女の姿や日々の食卓から学んだ)。
 好きな店で好きな料理を味わうことは楽しいが、こっちは「無償」。お金で買ったわけじゃなく、お願いして作ってもらったわけでもない。
 その「おふくろの味」は懐かしく、変わらぬ「愛の味」に満ちていて、気づいたときにはもう舌の上を通過している。細胞の隅々にまで広がり、全身へと沁み渡る。そして再び記憶される。私はまたしっかりと受け取っている。

 そうなのだ。ママを前に料理をしても、そこには喜びなんてまるで感じられなかったのに(それは私に与えられた「役割」であり、ギブ&テイクの成立する「仕事」だった)、おばさんのために彼女の好物を買って行こうとするときの私は、純粋に「おばさん、喜ぶだろうな」という嬉しさでいっぱいになっていた。
 なんの見返りも求められずに何かを与えてもらったとき、人の心には自然と「いつかこの人に同じだけのものを返したい」という想いが根付くのだろうか。
 そして――どんな人にも得意・不得意があり、すべてを与えてくれる親なんて、きっとどこにもいないのだろう。ママからもらえなかったものを、おばさんから受け取ることのできた私はラッキーなのだ。そう思う。



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第19話へつづく



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