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どこへでもいける


いつからか、なにも描かれていない

真っ白なキャンバスをまえにすると

紙に筆をおろすのがこわくて

なかなか、

絵を描き始められなくなっていました。


最近その理由について、深く考えてみました。

時をさかのぼって。

なにが、こわいのか。

いつから、こわくなってしまったのか…



幼いころから、わたしたちは学校に通いはじめ

文字を書き、計算を解き、絵を描いた。


文字はきれいに、計算は速く、絵は壮大に。

それができたら、先生に、友達に褒められた。

でも、できなかったときに

褒められることは、ほとんどなかった。

後ろ指を立てられてしまうこともあった。

”頑張ったのに。”

それがとても悲しかった。

わたしは、褒められることが大好きだったから。

褒められなければ、何も意味がなかった。


学校は、小さいけれど”社会”だと思います。

学校が世界のすべてで、”その場所”で

うまくいかなかったら、

この世の終わりのように思ってしまいます。

でも、学校にいるかぎりは

みんなで同じものを勉強して、作って

同じ場所に、並べられてしまう。

褒められた、あの子がうらやましい。

褒められなかった自分が、情けない。

そのことに

無意識に恐怖を感じ続けてきたのではないかと、

思いました。

誰も、悪いわけではないけれど。


大人になった今でも

「評価されなければ」

「上手くいかなかったら恥ずかしい」

なにかにつけて、そう思ってしまいます。

もう誰も見ていないのに。


でも

子供の時とは決定的に違うことがあります。

それは、”自由であること”


わたしは、もう、なにを描いても

なにを勉強しても、計算なんかしなくたって

誰かのとなりに並べられることはない。

どこへでもいける。

悲しく感じる人もいるかもしれないけれど

わたしは、そのことがとてもうれしい。


わたしのこころはきっと、

まだ”自由”になりきれていないのだと思います。

でも、今はもう

こうあらなければいけない世界のなかに

身を置かなくてもよくなったのだから

時を重ねたら、

いつかはこころが解き放たれ

なにも恐れず

絵を描き始めることができるはず。


わたし一人の、わたしだけの世界。

あらそいのない、平和な世界。


でも、その作り上げた世界を、

絵を、文章を、成しえたものを

だれかに、「すてきだね」と言ってもらえたなら


やっぱり

とびはねて喜んでしまうと思うのです。


子供のころのように。














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