闇の中の抑え込まれたもの
見えそうで見えない。そんなときは
立ち位置を変えると見えそうな気がする。
私はテレビを観ない。厳密には“ほとんど”観ない。一応テレビ自体は自宅にあるが電源を入れるのはもっぱらパソコンの方だ。「情報収集はネットが9割」の生活を送っている。ただネットの場合は能動的に情報を仕入れられる反面、どうしても自分の興味がある情報に偏りがちになるので、世の中の出来事やトレンドを知りたいときには、テレビの報道番組を見るようにしている。
そんな私も以前はテレビっ子だった。
学校から帰宅すると家の茶の間では、いつもテレビの電源が付いている生活だった。何を見るわけでもなく、とりあえずテレビをオンにするのが癖になっていた気がする。
思秋期になると、テレビに超ミニスカートの魅力的なお姉さんが出ていると
テレビなのに、座っているソファーからズルっとお尻をずらして、テレビの中のスカートを“低い位置から覗こうと”試みたりもした。(間違っても電車の中で同じような事をしてはいけない)あなたもご存知だろう。DNAに刻まれたオスの本能的な行動の一つだ。
「手に入りそうで、手に入らない状態のときに人は最も欲しがる」
なんてビジネス系の話を以前どこかで聞いたことがあるが、これにならうなら「見えそうで見えない状態のときに男は最も観たがる」といえるだろう。
テレビっ子時代に好きだった番組の一つに、マジックショーがある。
番組のスタジオにマジシャンが呼ばれて、色々な手品を披露する。
そんな影響もあってか、ある時期に手品にはまっていたことがあった。
独学で学んで、ひとり部屋にこもって手品のタネを仕込みながらほくそ笑んでいたりもした。そのあと一つの手品を覚えたら家族や友人などに練習がてら披露するのだが、最初の頃はよく失敗をしてトリックを見破られ、友人には、してやったり顔をされ、悔しい思いもたくさんした。
だた場数をこなすうちに少しずつ上達してきて、友人や出会った人に即席で手品を披露して驚かせたり、楽しませることができるようにまで成れた。
そのころには、マジックを観る楽しさよりも、自分がマジシャンになって手品をやる楽しさの方が勝っていた。
実際に手品を人に魅せるとわかるのだが、実は、マジシャンは手品を行うときには手品を行う側(仕掛ける側)と観客側(仕掛けられる側)の両方の視点をもっているのだ。観客から見たときに、どのように見えてどう捉えるのかを計算しながらトリックを仕掛けているのだ。
そうやって観客をミスリードしていくのがマジシャンの常套手段である。別の言い方をすれば、観客の捉えかたや見え方などの認識を操作しているとも言える。そうやって観客に奇跡を演出している。
つまり、マジシャンの一連の動作や思考というのは、観客の側からみると
「一部」しか見えていないのだ。
先日、朝日新聞のコラムを読んだ。
2022年5月5日の朝日新聞のコラム「折々のことば」には次のような内容が書かれていた。
奇抜とは「思いも寄らないほど、風変わりなこと」といった意味で使われる言葉だ。普通ではない、理解が追いつかないもの。そんな「奇抜」なファッションをしている若者に対して、ときに周囲の人間は、冷ややかな反応や否定的な態度を示すこともある。なにか異質なものを恐れ、遠ざけるように。
このコラムを読んで私が感じたこと。それは、
「一つの視点に囚われているうちは、本質は見えてこない」ということ。
奇抜なファッションだからといって、その若者の私生活や人付き合い、性格、生き方など、何もかもが、奇抜かといえば必ずしもそんなことはないだろう。例えば性格や私生活が奇抜さとは間逆の若者もいるだろう。
<深い闇の中に抑え込まれているもの>こういったものは通常、あからさまには姿を現さない。
では、どのように姿を現すかと言えば、物事の捉え方や感じ方、行動パターン、趣味趣向、人付き合いの仕方、職業の選び方、物事への取り組み方など。こういったところに断片的に姿を現す。
<街を行く若者の奇抜なファッション>も、きっと抑え込まれた若者の本質の「一部」が翻訳されたに過ぎないのだろう。
日々接する人たち。
日常のささいな出来事。
こういったものも、実は本当の姿の「一部」に過ぎないのかもしれない。
一つの視点に囚われてしまうと、勘違いによる人とのすれ違いや
誤解、誤った判断、間違った解釈などをしていまいかねない。
今の視点がすべてだとは思わず、柔軟な姿勢でものごとを他の視点からも見てみる。そうやって複数の視点から対象を見ることで、複数の「一部」が線で繋がり「本質」が見えてくるのかもしれない。
見えそうで見えない。そんなときは
立ち位置を変えると見えそうな気がする。