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【YouTube】見どころある珍品 本物のヤクザが主演した「懲役十八年」 無料配信中

YouTubeの東映チャンネルで、今度は「懲役十八年」(1967)が無料配信されている。

実際のヤクザ、安藤昇が主演した任侠映画ーーというよりアクション映画というべきか。

2週間限定、12月16日21時まで。


安藤昇の東映デビュー作


同じ東映チャンネルの「修羅の群れ」についてnoteに書いたばかりだ。

「修羅の群れ」は、稲川会・稲川聖城の半生を描いた映画。

実在のヤクザを美化・英雄視する「修羅の群れ」のような映画は、今ではコンプライアンス上つくれない、と書いたが、「懲役十八年」は、実際のヤクザが主演する映画だから、その上を行くコンプライアンスへの反逆である。

安藤昇(1926ー2015)は、安藤組の組長だった。彼についてはネットに色々情報があるから、ここでは詳しく記さない。

とにかく東映は、彼を「鶴田浩二」「高倉健」につぐスターにしようとしたのだから、正気の沙汰ではない。

この映画を見れば、彼に役者の才能がないのは明らかだ。といって、現役ヤクザらしい迫力とか立ち回りがあるわけでもない。

ところが、Wikipediaの「安藤昇」には、

「安藤は俳優として人気も実力もあった」

と書かれてある。世の中の闇を見たようでゾッとしてしまった。


確かに安藤は何本も主演映画があり、テレビドラマにも出演した。それは、人気と実力があった証拠というより、当時の興行界のある種の性格を物語るものと思われる。

実際には、彼の主演作に高倉健作品のようなヒット作はなく、演技賞をとったこともない。

一定の人気はあったのかもしれないが、演技の「実力」については、各自本作を見れば明らかだろう。

だが、この映画には、安藤以外にも見どころがある。


あらすじ


特攻隊の隊長だった川田(安藤昇)と副官の塚田(小池朝雄)は、戦後の混乱期、死んだ部下の遺族たちを貧窮から救う活動をしている。

2人は、闇市を「マーケット」に作り変え、遺族たちの恒久的な働き口にしようと画策していた。

その遺族の中に、川田が死なせた部下の妹である石岡比佐子(桜町弘子)がいた。川田は、米兵の売春婦(パンパン)になる寸前の彼女を救って以来、彼女に恋心を抱いていた。

川田と塚田は、マーケット建設資金を得るため、「特攻精神」で外国人の工場に盗みに入るが、占領軍のMPに見つかる。川田は、塚田に「あとは頼む」と言い残し、ひとり罪をかぶって懲役に入る。

川田は、刑務所の中で刑務官の不正と戦い、いつしか「大将」と呼ばれるようになる。

一方、シャバに残った塚田は、朝鮮戦争の景気に煽られ、遺族会のカネを使い込んで、金儲けに走るようになっていた。

ある日、刑務所に若いチンピラ(近藤正臣)が入ってくる。乱暴者の彼は、川田が恋心を抱いていた石岡比佐子の行方不明の弟、石岡健一だった。

川田は、健一と比佐子を通じて、塚田が堕落したのを知る。健一が脱獄したのを追って川田も脱獄し、塚田との決闘に向かうのだったーー


近藤正臣の実質的デビュー作


本作は、脇を固める役者が豪華だ。

インテリヤクザ役の小池朝雄もいいが、どうしても「刑事コロンボ」の声の人だ、と思ってしまう。ヤクザと刑事コロンボの取り合わせがなんとも奇妙だ。

他に、若山富三郎、小松方正、山城新伍、菅井きんなど、のちにテレビでもおなじみになる人たちが出ている。

近藤正臣は、前年の「893愚連隊」などに続き、本作も実質的デビュー作の1つといっていい。

近藤正臣といえば、テレビでおなじみになるのは、1970年代以降のNHK大河ドラマや、「柔道一直線」などの端正な2枚目イメージだ。

それ以前のヤクザ役の彼は、私も知らなかったので、新鮮だった。ギラギラした野獣感は、後年の印象とまったく違う。

北野武が「龍三と七人の子分たち」で近藤正臣を起用したのは、この時代の彼を知っていたからだと思った。

水島道太郎のような60年代初期まで主役級スターが、脇役として存在感を見せているのも見どころだ。


映像美


この映画は、映像がきれいで感心してしまった。

50年以上前の映画だが、そんなに古く感じない。前に触れた「修羅の群れ」(1984)より新しく感じるほどだ。

リストアがうまくいっているのもあるだろうが、撮影そのものが、ローアングルから広く撮る手法で、画面がきちんと整理して見える。

そのおかげで、ごちゃごちゃしたストーリーを、あまりストレスなく楽しめた。

いわば舞台を客席から見るようなアングルが多用される。ちょっと溝口健二っぽい。その一方で、クローズアップも効果的に挟んでいく。

こうした画づくりは、大画面で見ないと意味がない。ビデオで、小さなテレビで見たのでは魅力が分からなかっただろう。昔レンタルビデオで見た、という人にも、大画面テレビで再見を勧めたい。

いちばんハッとさせられたのは、小松方正の悪人顔を下から撮ったショットで、絵画のようにキマっていた。監督(加藤泰)がいいのか、撮影がいいのか、難しいことはわからないが、全編にセンスの良さを感じた。

ただ、こうした撮影法は、演技をじっくり見せるためのものだから、脇役陣のうまさとともに、主役の安藤の下手さも際立たせてしまっている。安藤は、「顔」では何とか演技ができても、身体が演技していない。セリフも棒読みだが、身体も棒立ちで、それがバレてしまう。


「十八年」の意味


見始めて、なぜ懲役「18年」なのか、何となくわかった。

それは、日本の占領期(1945〜1952)から、この映画公開時(1967)までの歳月である。

「戦後日本批判」というのが裏テーマだ。

この映画は、冒頭のアクションシーンからジャズ風の音楽が流れ、若者受けを当て込んでいたのがわかる。

高倉健の任侠映画が、60年代学生反乱の若者たちに受けていた。その人気から逆算して作られた企画だと思われる。

安藤昇が演じる川田が象徴するのは、

A 「アメリカへの怒りと、アメリカに負けた責任を忘れずに生きる、庶民的正義感と倫理的潔癖性を持った日本人」

であり、小池朝雄が演じる塚田は、

B 「かつての敵であったアメリカに従属し、今またアメリカの戦争(朝鮮戦争)で金儲けをして庶民を支配しようとする、堕落した戦後日本国家」

の象徴だ。

非力なAが、強力なBに一矢報いようとする。分かりやすい構図だ。それは、日米軍事同盟(安保)に反対していた当時の学生のメンタリティ(反米主義)にそうストーリーだった。

塚田に抗議して、遺族の老婆(菅井きん)が焼身自殺するのは、ベトナム反戦で焼身自殺した僧侶を思わせる。

塚田は、反抗的な比佐子を、沖縄(まだ日本復帰していない)の米軍のパンパンにするぞと脅す。このように、反米感情を煽ろうと色々脚色されている。

しかし、そうした政治的含意を持たせすぎて、ごちゃごちゃした不自然なストーリーになっており、分かりにくく、共感しにくい。

任侠映画とアクション映画がごちゃまぜになって混乱している。この時期の映画の迷走を象徴しているようだ。

こうした迷走から、1973年の「仁義なき闘い」で実録路線に転換することになる。その過渡期を象徴する作品だ。

また、こうしたストーリーは、安藤昇のような演技の素人には負荷が大きすぎた。

戦後の日本の変質をテーマとするなら、その「18年」の変化を演技で見せなければならない。

その変質を演技で示そうとしているのは、この映画では小池朝雄だけである。小池だけが、そういう知的な演技ができた。しかし、主役の安藤には無理で、それが全体をぶち壊している。(そして、時間の経過が分かりにくいのがこの映画の大きな欠点だ)

それなりの狙いがあり、役者・スタッフを揃えたが、企画倒れに終わった残念な映画という印象である。


「敗戦後」の空気を味わう



それでも、1970年くらいに物心ついて、1960年代を実感としては知らない私には、発見があった。

「敗戦国・日本」という意識が、このころまでは濃厚にあったということだ。それを感じ取れたのが、私には最大の収穫だった。

最後の決闘で、塚田は川田を「貴様は敗戦国の亡霊だ」となじる。「敗戦国の亡霊」が、まださまよっていたのが1960年代だった。

それは、1970年の三島由紀夫の自決と、大阪万博によって、清算されたようだ。70年代に入ると、すぐにオイルショックになり、戦後の高度成長をいかに守るか、が国民的課題になる。この映画に示されるような戦後の倫理的葛藤は、良かれ悪しかれ消えていくことになる。

なお、最後の場面は、「明日に向って撃て」(1969)のパクリかと思ったが、この映画の方が先だった。いずれにせよ、こういう終わり方も、また1960年代的だ。

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