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左翼お調子者

ひろゆきと沖縄辺野古「座り込み」の話題を見ていて、富村順一という人を思い出した。

今の人は知らないだろう。1970年代、天皇の戦争犯罪を糾弾する『わんがうまりあ沖縄』などを出版し、左翼のヒーローになっていた沖縄出身の人だ。

沖縄関連に限らず、当時、こういう「左翼のヒーロー」はたくさんいた。

有名なのは、原一男がドキュメンタリー「ゆきゆきて、神軍」で映像に残した奥崎謙三だろう。

率直な言い方をさせてもらえば、「左翼のヒーロー」にならなければ、食い詰めているか、犯罪者になるか、しかないような人たちも多かった(実際の犯罪者もいた)。

しかし、左翼の気に入るようなことを言ったり、したりすると、注目が集まり、お金が入る。次第に左翼が気に入るツボがわかってきて、その言動も巧みになる。

活動家の支持を集めるのはもちろん、「朝日、毎日」のような左派系の新聞に好意的に取り上げられ、リベラル系の政治家からも「目覚めた庶民」の代表のように持ち上げられる。

持ち上げられて気持ちよくなっている人たちを、「お調子者」というと少し気の毒だが、左翼の言いたいこと、やりたいことを過激に代行する「鉄砲玉」のようなものになる。

そして、ネタが尽きると、忘れられていく。たいがいは悲惨な最後になる。

左翼に限らず、政治活動をすると、必ずこういう人たちが出てくる。食い詰めた人か、学生であることもある。マスコミに一時的に持ち上げられ、もともと狂っていた人生が、さらに狂う。

私の身近にもそういう人たちがいた。左翼活動を地道にやっている人たちはいい。しかし、変にマスコミの脚光を浴びると、勘違いが始まる。政治活動とは怖いものだ、人生を狂わせると思った。

私が「活動」をやめたのはそういう実態を見たからだし、自分がマスコミに入ったら、そういう利用の仕方だけはすまいと思った。いまだマスコミがそういう人たちを利用しているのを見て、相変わらず罪作りだなと思う。



富村順一についての資料(真偽不明ながら、ネットにあった情報を貼り付けておく)


富村順一の面影

最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。


富村順一の最期

東京タワージャック事件の富村順一。
『鉄の暴風』の虚偽事実の記載をネタに、沖縄タイムスを恐喝したとされる富村順一。
左翼集団に襲われ重傷を負って車椅子生活を余儀なくされたと云われる富村順一。
そして、公安提報者候補として私を警察に紹介した男、富村順一。

いつまで経っても、彼の死亡情報がネット上に現れないので、本ブログで述べておく。

平成13年秋の生活保護法による保護決定から十有余年に及ぶ生活・住宅・医療扶助を受けつつ、何不自由のない生活を大阪市西成区にて送っていた富村順一は、同区梅南2にある借家を終の棲家として、この冬に死亡した。

晩年には車椅子生活となり、昨秋までは電動式のそれを駆って、早朝に自宅を出て勝間街道を北上、鶴見橋商店街を東進して国道26号線を越え、あいりん地区(通称・釜ケ崎)にある労働センター付近を徘徊して露店で買い求めた弁当類を付近の公園や南海電鉄の高架下あたりで食して朝食をすませるという生活を続けていた。



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