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【Netflix】「デリーの殺し屋」 安倍暗殺犯・山上容疑者と共通する「母への憎しみ」「誇大な自己」

Netflixの新作ドキュメンタリー「インド凶悪殺人事件録 デリーの殺し屋」を見ていて、その犯人と、安倍晋三元首相を殺した山上徹也容疑者の共通性に、気づかざるを得なかった。

インドの事件は、2006年に起きた。

首都デリーの刑務所の前に首なし死体が置かれる。お前らには捕まらない、という警察を挑発するような手紙も添えられていた。

翌年にかけてさらに2件、同様の事件が起こり、連続殺人事件となる。

タレコミにより、チャンドラカント・ジャーという40代の男が浮かぶ。地方から出てきて、青果市場で働いていたこの男は、逮捕されて罪を認める。供述によれば、2006年以前にも少なくとも4人、一説には1980年代から40人以上を殺したとされた。

ドキュメンタリーは、チャンドラカントの生きた境遇、デリー警察の捜査過程、法医学者やジャーナリストの証言などで、この猟奇殺人事件の真相に迫る。


2人の「殺し屋」の共通点


一見、チャンドラカントと山上容疑者の犯行には、共通点がないように思える。

しかし、次のような共通点がある。

1)母親を憎んでいた

チャンドラカントは、母親を激しく憎んでいた。教師だった母親は、攻撃的・利己的で、たえず問題を起こす人物だったらしい。チャンドラカントは母親に可愛がられず、いじめられ、見放されたと感じていた。山上容疑者と母親の関係に似ている。

2)「世の中の不正」を告発しているように見せる

地方出身者のチャンドラカントは、デリーの警察官から差別され、賄賂を取られていたのは事実だ。とくに自分をいじめたデリー警察の巡査部長を憎んでいた。だから、死体を巡査部長の管轄地に置いた。手紙でチャンドラカントは「自分は腐敗したインドの警察と戦っている」と世間にアピールした。山上容疑者と「統一教会」の関係に似ている。インドのマスコミも犯人の主張を取り上げはしたが、インド以上に日本のマスコミは犯人の思うツボとなった。

3)殺したのは、憎悪の対象や不正の中心人物ではない

両者とも、母親を殺そうとはしていない。また、チャンドラカントは憎むべき巡査部長を殺さず、山上は統一教会の幹部を殺さず、両者とも直接には関係ない(あるいは関係が薄い)、激しく憎んでもいない人物を殺した。

4)ペラペラ供述。多弁である

チャンドラカントは、いったん捕まると、2006年以前の余罪まで、ペラペラ供述した。事件に証拠が乏しく、警察は供述に頼らざるを得ない。しだいに警察は、供述によって操られているように感じる。山上容疑者もペラペラ供述しているようだ。SNSにも盛んに投稿していたらしい。チャンドラカントはマスコミに対して攻撃的で、「俺はいつも真実を語っているが、お前らはウソばかりだ」と挑発した。山上容疑者も同じようなことを言うかもしれない。

5)賢く、計算高い

チャンドラカントも山上容疑者も、犯行にためらいがなく、見事に仕留める。頭が良く、度胸があり、犯罪者として非常に「優秀」だ。チャンドラカントの賢さは裁判でも発揮され、模範囚として振る舞うことで、一審の死刑判決をくつがえし、減刑を勝ち取った。


殺し屋の心理とは


1 「自分は悪くない」ーー自分の責任を一切認めない心理

ドキュメンタリーの中で法医学者が言うとおり、「デリーの殺し屋」が第一に主張したかったのは、

「自分は悪くない。自分以外が悪い」

ということだ。

「親や社会が悪い」「警察が悪い」「インドのシステムが悪い」

とチャンドラカントは言う。

「母親が悪い」「統一教会が悪い」「安倍晋三が悪い」

の山上容疑者の言い分と似ている。

自分には一切責任がないと思っている。責任回避が徹底している。

そして、自分は社会の被害者だと感じる一方、殺した相手の痛みや苦しみは感じない。


2 「自分の偉大さ」を示したい心理

母親に拒絶されたため、健全な自尊心が育たなかった。

みじめな日常の中で、非現実的な自尊観念が生まれる。

チャンドラカントが殺したのは、自分の周りの人物だった。

彼は、少しでも人と親しくなると、その人物の「アラ」が見えてしまう。小さな欠点や些細な悪事が許せない。

そして、道徳的に偉大な自分と比べて、相手を生きている価値のない存在だと思い始める。

彼は、殺す前に相手を拷問した。時には複数を一緒に拷問し、殺したようだ。それを完璧に成し遂げることは、自分の「偉大さ」の証明になったのではないか、と法医学者は語る。

チャンドラカントは、警察を挑発する手紙の中で、自らを「支配者」と呼んだ。

チャンドラカントの場合は、たくさん殺すことが「偉大さ」の証明だった。

山上容疑者が殺したのは1人だが、それが超大物であることで、やはり自分の「偉大さ」の証明になったのかもしれない。

2人とも、最終的に、逮捕されることに抵抗していない。チャンドラカントについて法医学者が言うように、捕まって、自分の「偉業」を誇示したかった。その誘惑に勝てない。

2人にとって、殺す相手は、究極のところ、誰でもよかったのかもしれない。母への怒りや、不正を告発するのが重要なのではなく、想像するだけで陶然とするような、この「偉大な自分」の感覚に中毒性があった。

3 母親との同一化?

このドキュメンタリーの中で、チャンドラカントの暴力性は、生物学的な遺伝ではないか、という説も出てくる。親も乱暴な人だったからだ。

それについてはよく分からないが、チャンドラカントも、山上容疑者も、母親の性格や行動(利己的なことや無責任さ)を、模倣しているように見える。つまり、自分自身が「母親」と同じになっている。基本的には、母親からの仕打ちを、赤の他人に仕返している。

圧政者への同一化というのは、(ヒッチコックの「サイコ」に典型的なように)昔の精神分析ではよく言われた。今の精神医学がどう見るかは知らないが。

漏れ聞こえているところでは、山上容疑者の母親や親戚は「自分たちの責任ではない」と感じているようだ(母親は統一教会には謝罪したそうだが)。責任回避が家風になっているのを感じてしまう。

これから裁判などで山上容疑者の心理が詳しく分析されるだろうが、このドキュメンタリーは予習的に勉強になった。

なお、ドキュメンタリー番組としては、Netflixによくあるように、無理に引き伸ばして間延びしている感じがある。3回のシリーズだが、1回でもよかったのではないか。

また、重要と思われる、チャンドラカントの母親のより詳しい情報とともに、チャンドラカント本人へのインタビューを欠いている(申し入れたが拒否された)のも痛く、ちょっと竜頭蛇尾の印象となっている。

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