見出し画像

フォスターはなぜ消えたのか

昨日、ナチスドイツの音楽政策に関するドキュメンタリーを紹介したが、それは当然、同盟国である日本にも影響していた。

以前、柿生中学の中にある郷土資料室で、「戦前戦中の教科書」の展示があった。

戦中の小学校の音楽教科書を見ると、やはりドイツ音楽中心だった。シューベルトやシューマンの楽譜が載っていて、いま見ても高級な感じがした。

ドイツ帝国音楽局総裁だったリヒャルト・シュトラウスは、1940年には「皇紀2600年奉祝曲」を書き、日本に贈った。


で、戦後は、音楽教育も転換する。

私が小学校の頃、1960年代だが、音楽の授業でさんざん歌わされたのは「フォスター」である。

アメリカの作曲家、スティーブン・フォスター(1826〜1864)。

教室では「アメリカ音楽の父」と教えられ、シューベルトに匹敵する「早死にした天才」のように習った。

「おおスザンナ」「オールド・ブラック・ジョー」「草競馬」「スワニー河」あたりは、死ぬほど歌わされたので、いまでもソラで歌える。

しかし、その後、フォスターの曲を聞くことはほとんどない。


その理由に触れている「フォスターの曲は、なぜ姿を消したのか」というブログがあった。筆者は小林大輔氏。

少し長いが、引用するとーー(太字が引用)


終戦まもなく学校に通った私の年代にとっては、音楽の教科書にアメリカの作詞・作曲家・フォスターの作品は必ずと言うほど載っていました。
学年が進んで、私が中学のころまでそうでした。
だから、フォスターの作った『オールド・ブラック・ジョー』『おおスザンナ』『草競馬』『ケンタッキーの我が家』『故郷の人々(スワニー河)』などは、世界で最も知られたフォーク・ソングだと思い込んでいました。
ところが、今の子供に「フォスターって、知ってる?」と聞いてみても、ほとんど誰も知りません。
「『オールド・ブラック・ジョー』って歌、歌える?」と尋ねても、
「何ですか、それ・・・」と、言われるケースがほとんどです。

なぜ、私の子供時代には、あんなにひんぱんにフォスターの作った曲は、音楽の教科書に載っていたのでしょうか?

ここから、私の推測です。
戦後、アメリカ軍が、日本に進駐しました。
進駐したアメリカは、日本を統治する際、
「アメリカは、決して怖い国ではありませんよ。こんな優しい国ですよ。皆さん、ほら、怖がらなくても良いんですよ」
と、まず、日本を懐柔する必要があったのです。
このため進駐軍は、日本の文部省に介入して音楽の教科書に、アメリカはこんなに優しい国と印象づけるためフォスターの曲を入れさせたのではないか・・・。

その証拠に、日本が独立して、進駐軍が本国に引きあげる頃には、フォスターの曲は、学校の音楽の教科書から、しだいに姿を消しているのです。


この小林氏が言うように、フォスターが戦後の音楽教育で重用されたのは、政治的理由だったのだと思う。戦中にドイツ音楽偏重だったのと同じで、戦後はアメリカ偏重だったのだ。

だが、「消えた理由」は少し違うようだ。

フォスターは、「進駐軍が本国に引きあげる頃には、しだいに姿を消した」わけではない。

サンフランシスコ講和条約が発効して、進駐軍が消えた1952年以降も、それは残っていた。現に1960年代の小学生である私も、フォスターをさんざん歌わされてる。


私が考える「消えた理由」は、こうだ。


フォスターは白人で、黒人霊歌からヒントを得て作曲し、ミンストレル・ショー(白人が顔を黒く塗って黒人の真似をする)のために書いた。

いわば「擬似黒人音楽」だったわけだ。

1960年代前半までは、その音楽は、アメリカの人種融合のシンボルともなり得た(だから占領政策上も都合がよかった)。

しかし、1960年代を通じて、こうした「人種融合」は欺瞞的だと拒否されるようになった。

そういう「白人化した黒人文化」は偽物であり、かえって差別的・文化収奪的とされた。黒人文化は、黒人自身が堂々と主張するようになる。

つまり、フォスターが消えたのは、私が小学校時代には図書館にあった「アンクルトムの小屋」がその後消えたのと、同じ事情だろう。

まあ、今の言葉で言えばポリコレだ。

だから、フォスターが消えたのは、1960年代の「革命」の後、1970年頃だと思う。


これが私の推測だが、どうだろうか。

このあたりをきちんと研究している人もいると思うので、実際にいつ、どのようにフォスターが教科書から消えたのか、いつか知りたいと思っている。


そして、政治や思想の都合で、偏重されたり、消えたりしたことに、フォスターもフォスターの曲も、一切責任はない。

いちばん気の毒なのはフォスターさんである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?