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「ユダヤ人が日本人の祖先」説の奇妙な帰結 〜「一神教VS多神教」というフェイク〜

聖書にある「ユダヤの失われた10支族」の一部が、古代日本に流れ着いていた、というのが、ご存じ「日ユ同祖論」。

日本人の祖先(の少なくとも一部)はユダヤ人だという、戦前からある説です。

いわゆる「偽史」の代表の1つですが、学問的証拠が乏しいことを前提に聞く「お話」としては面白い。いまだに人気があるのはわかります。

ただ、この種の「お話」は、イデオロギーを含んでいるので注意が必要です。

最近も偶然、田中英道氏(東北大名誉教授)の「秦氏ユダヤ人は日本に同化した」という動画をYouTubeで見ました。8月10日に公開されて、すでに10万回以上視聴されています。

「新しい歴史教科書をつくる会」の中心人物だった田中氏のような右派が、「日本人の祖先はユダヤ人だった」という説に同調するのは、一見奇妙に思えます。

しかし、田中氏のような右派は、天皇家がユダヤ人だったとか言いたいわけではない。ユダヤ人はあくまで秦氏のような天皇に仕える存在だった。それで日本文化に独自の貢献をした、という考えです。

それで田中氏が何を言いたいかというと、日本文化は中国・朝鮮文化の亜流だという見方を退けたいわけですね。

日本は中国文明なんかとは根本的に違う。ユダヤの思想も同化したほどの独自の「日本文明」だ。だから白人とも対等に張り合えるんだ、中国より上なんだ、みたいなことを言いたいようです。

そういう考え方には共感しないのですが、私が「日ユ同祖論」で興味があるのは、ユダヤ教ないしキリスト教のような一神教が、日本には昔から入っていたはずだ、と唱えるからです。

少なくとも3、4世紀には爆発的に広がっていたキリスト教が、日本に初めて入ったのは1549年、というのは、やっぱりおかしいと私も思うんですね。

キリスト教は古代から日本に入っていた、という説は、「日ユ同祖論」の1バリエーションとしてあって、私にはそっちの方が面白い。

これには、ユダヤ人が直接来日して広めたとか、中国で繁栄した景教(キリスト教の一派)を遣唐使などが輸入した、とかの説があります。

たとえば、東住吉キリスト集会の高原剛一郎氏は、YouTubeで「空海と聖書 ザビエル以前に聖書が伝わっていた日本」という動画を上げています。

日ユ同祖論を基本としつつ、空海が景教(キリスト教)を唐から持ち帰った、というような話をしています。再生回数5万以上で、こちらもよく見られています。

高原氏は、エネルギッシュな説法で人気の伝道師のようですが、進化論に反対しトランプを支持するなど、こちらもなかなかに香ばしい方です。

田中氏の動画と、高原氏の動画を続けて見ると、同じようなことを言っていながら、結論が正反対の方向になることに気づきます。

田中氏は、キリスト教(ユダヤ教)のような一神教が、日本の多神教の中に「同化」した、と言います。つまり、一神教は多神教に敗北したわけです。肖像画などで見ると、ユダヤ人の秦氏は、日本に来た時は厳しい顔つきでしたが、自然崇拝の多神教に同化することで、日本的な優しい顔になった、とか言います。

一方、高原氏によれば、キリスト教のような一神教が、仏教の中に入り込んだからこそ、仏教は日本に広まった。そもそもインドの仏教にキリスト教が入り込んだのが大乗仏教だと言います。もともとは無神論だった原始仏教に、弥勒信仰のような一神教要素が入って、初めて民衆に広まった。日本がその大乗仏教を受け入れた段階で、一神教は、日本の多神教に勝利したのでした。

つまり、「日本主義者」の田中氏が、日ユ同祖論を持ち出すのは、

「日本の多神教が、ユダヤ(西洋)の一神教に勝った」

というストーリーを語りたいがためです。

一方、原理主義的なキリスト教徒の高原氏がこれを持ち出すのは、

「一神教(キリスト教)が、日本(東洋)でも無神論や多神教に勝った」

と言いたいがためです。

議論の帰結が正反対なんですね。

「一神教VS多神教」は、戦前から日本の知識人が好む図式です。

一神教は見方が狭い。多神教は包容力がある。という具合に、たいがい、日本の多神教のほうが、西洋の一神教よりエライ、ということになります。

これは戦後は、相変わらず右派の西洋批判に使われるとともに、「絶対的正義などない」「正義より平和を」の諦観的平和主義でも使われる。その意味で、右も左もよく使う図式です。

しかし、この「一神教VS多神教」こそフェイクな思想問題だと感じます。日本人であろうとなかろうと、全世界の人や文化は、どちらの要素も持っている。どちらを強調するかで、論者の都合のいいように議論を運べるからです。

日ユ同祖論が、同じような「論拠」から、正反対の結論を引き出すのも、このフェイク図式が関係していると思います。

たとえば戦前の右翼は、ユダヤ教やキリスト教のような一神教は日本に合わない、多神教が優れている、と言いながら、天皇を一神教的に崇拝することを求めました。

天皇制をめぐるこの矛盾は、現在も存続しています。天皇制を支持する小林よしのり氏と、天皇制を否定する井上達夫氏の議論の中で(「ザ・議論」)、井上氏が「人権尊重のような理念で国民を統合すればいい」と言うのに対し、小林氏が「民衆は具体的な天皇というものがないと統合されない」と反論する時、高原剛一郎氏が多神教に対して一神教の優位を述べるのと、同じ論理を使っているのがわかるでしょう。

つまり「右」の小林氏は、リベラリズム(多神教)の井上氏に対して、まさに一神教(天皇制)を擁護しているわけです。通常、右翼は、天皇制含めた日本の文化は多神教的だから、西洋の一神教より優れている、と言うにもかかわらず。

だからといって、田中氏や高原氏(や小林氏)の議論を、無価値だとか有害だとか言いたいわけではありません。

イデオロギー抜きで歴史を語るのが難しいのは、田中氏や高原氏だけの問題ではないからです。田中氏が言うように、戦後のアカデミックな歴史学がマルクス主義で偏向した(たとえば「階級闘争」的側面を過剰に強調した)のは一面の事実で、いま新世代の学者に是正が求められているところだろうと思います。

フェイクも含めて、歴史は面白いなあ、と思うのですが、そこからイデオロギーという「小骨、大骨」を抜くのが大変だ、という話です。


<参考>





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