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【今年の抱負】 「日本人としての連続性」を取り戻す

抱負も何も、私は定年後の残り少ない人生を、「予算内快楽主義」で気ままに生きていくだけだが。


それでも、気の向くままに図書館で(もう新刊を買うお金はないから)本を選んでいるうちに、自分が漠然と目指しているものが見えてきた。

出版社や新聞社で働いていた時は、流行りの本を読まなければならなかったが、退職したので、流行らない本を好きなだけ読める。それが何よりだ。

私が最近好んで読んでいるのは、以下のような人たち・・

徳富蘇峰、三島由紀夫、河上徹太郎、尾崎士郎、火野葦平・・

読書を通じた、こうした人たちとの<対話>を、今年も続けていくだろう。

その対話に期待しているのは、「日本人としての自分」を取り戻すことだ。


戦前・戦後の連続性を断たれた日本人


我々は戦後教育を受けたから、戦前と戦後の断絶を強調して歴史を教わっている。

「戦前の日本は間違っていた」

「戦後は新しい出発をしなければならない」

という前提で、日本人に「生き直し」をさせることが、占領軍の目的だった。

政治家も、教育界も、マスコミも、皇室も、そういう歴史観を基本にしていて、おおやけには否定できなかった。

右派の人たちはこれを「自虐史観」とか言うが、左派からすれば「戦後の憲法9条は素晴らしい」の「自賛史観」でもある。

価値観として、どちらも一面的だと思うが、どちらかといえば右派に分がある。

その戦後教育のおかげで、日本人は世界で最も愛国心のない国民になった。

そして、それだけではない。日本は、若者よりも中高年の方が愛国心がない、珍しい国になっている(普通は中高年の方が愛国心がある)。ウクライナ戦争を経験した昨年は、その歪みを強く認識せずにいられなかった。

いずれにせよ、戦前と戦後のつながりが、おおやけには断ち切られた以上、偏った日本観しか持てなかったのは仕方なかった。

日本の連続性を取り戻す作業は、個々に自分でおこなうしかなかった。


明治以前からの連続性を取り戻す


同じようなことは、明治維新が生み出した江戸と明治の断層についても言える。

明治政府は、自分たちの正当性を強調するため、江戸時代を暗く、否定的に語ったと言われる。

江戸から明治になって、日本はやっと近代化し、「文明開化」した、と。しかし、それは本当か。

我々は、江戸以前と明治以降との連続性も、取り戻さなければならない。


これは、最近のアカデミズムでも、よく触れられる問題だ。

例えば、苅部直は『「維新革命」への道』(2017)でこう書いている。


「和魂洋才」の罠を取り払って考えれば、近代西洋の思想は、そして「文明」は、それまでの日本列島住民にとってまったく理解不可能で神秘的だったわけではない。それを理解し、共感できる要素が、前近代の思想と文化のなかにあったからこそ、受容されたのである。(同書p37)


このように、明治以前と明治以後の連続性が追求されている。

こうしたアカデミズムの傾向は、おそらく、戦後席巻したマスクス主義史観への反省から生まれたものだろう。

社会主義に限らず、合理主義、民主主義、リベラリズムなどは、すべて西洋の偉い思想家の考えの「輸入品」だ、という考え方を我々はしがちだ。

だが、そういうのは、「輸入」代理業者である大学の教員や批評家に騙されている可能性がある。

アカデミズムでも、前述のような近代以前の見直しと同時に、戦前と戦後の連続性を取り戻そうという動きが、同様にある。

政治学や思想史の分野で、例えば坂本多加雄の徳富蘇峰や平泉澄再評価などに、それが見られると思う。

こうした連続性の追求は、さらに時代をさかのぼれるだろう。

一般に、後の時代は、前の時代を悪く言いがちだが、逆に、前の時代を理想化することもある。それらのバイアスを取り除き、あたかも2000年間、日本人として生きたかのような人間が振り返る「人生」が、本当の「日本史」だろう。


<思想>から自由になる


近代と近代以前、や、戦後と戦前、などを分けたのは、政治や思想の<都合>に過ぎない。

政治や思想に敏感な人ほど、そういう便宜的な断裂を大真面目に受け取る。戦前は何々主義で、戦後は何々主義、といった理解で世界を見るようになる。なんらかの「理論」で世界を見る。知識人や大学の研究者はそういう見方をしがちだった。それ自体が、やはりマルクス「理論」が席巻した20世紀の特色だった。

私自身も、これまでの人生で、主義や思想でものごとを考える人間だったので、残りの人生では、少しでも是正したいと思う。


具体的な<人生>で連続性を追体験


そのためには、いわゆる「近代」以前と以後、戦前と戦後などを、またいで生きた人の本を読むのが役に立つ。

権力や思想は断絶しても、人は連続して生きている。その人の人生を、著作を通じて再体験することで、歴史の連続性を取り戻せるのではないか。

生身の人間が、歴史の「断層」を、どう乗り越えて生きつづけたか。

私が興味を持つのは、そういう「歴史の連続性」を感じさせてくれる人だ。


徳富蘇峰(1863ー1957 文筆家、ジャーナリスト)
尾崎士郎(1898ー1964 小説家)
河上徹太郎(1902ー1980 批評家)
火野葦平(1907ー1960 小説家)
三島由紀夫(1925ー1970 小説家)


彼らは、戦前・戦後を通じて書き続けた。

特に徳富蘇峰は、江戸、明治、大正、戦前の昭和、戦後の昭和を、すべて経験して生きて、書いた(実際に彼は、戦国時代から自分が生きている時代までを1つの視点で連続的に書く日本史を「近世日本国民史」で試みた)。

そして、その蘇峰を筆頭に、彼らは「思想」にはあまり従わなかった。いい意味で思想に「鈍感」だった。尾崎や火野は「思想がない」と言われた作家だし、河上や三島は主流思想に常に逆らった。その点が私好みだ。


別に何かを「研究」しているわけではないが、こうした問題意識から、頭に浮かんだことを今年もここに書いていこうと思う。










私は定年になったら、前から関心があった徳富蘇峰周辺を研究したいと思っていたが、コロナで動けないうちに、もう少し関心の範囲が広がってーー

三島由紀夫、河上徹太郎、尾崎士郎、火野葦平・・

とかも研究したい、と思うようになった。

徳富蘇峰(1863ー1957 文筆家、ジャーナリスト)
尾崎士郎(1898ー1964 小説家)
河上徹太郎(1902ー1980 批評家)
火野葦平(1907ー1960 小説家)
三島由紀夫(1925ー1970 小説家)


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