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禅と戦争責任

前に、禅とステイーブ・ジョブズの関わりなどを書きました。

禅に対する、私の共感を書いたものですが、一方、禅仏教の戦争責任、という問題もあることに触れておきたい。

禅の良さを「考えない」ことだと言いましたが、これは当然、戦争遂行時には好都合となります。

鈴木大拙らの戦争責任を追及した『禅と戦争』(ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア)という本が有名です。ただし、私は、概略を知るだけで、ちゃんと読んでいない。今度読んでみようと思います。

この本の紹介文は、次のようなものです。

戦争は軍指導者だけが起こしたのか。禅僧の光と影をあぶり出し、欧米的視点で描かれた「国家と宗教と戦争」を凝視する異色作。「死の覚悟、無我、無念、無想」を教える聖職者たち、禅仏教の教理の裏側を徹底的に考察。

光人社「禅と戦争」紹介文

日本軍の日常の行動指針は、禅の修行をもとにしているという話があります。たしかに禅の修行は「軍隊式」です。

今やっているかは知りませんが、我々の世代は、学校で、四つん這いになって床の雑巾拭きをさせられました。欧米ではないことですね。あれも禅の修行風であり、同時に軍隊式でした。

戦時のプロパガンダ映画を見ると、日本人は、みんな悟りを開いたような、うっすらした笑みを浮かべている。日本人の不可解な笑みと言われるものです。「戦場のメリークリスマス」でビートたけしが浮かべていた笑顔。日本人の得意の表情ですが、ああいうところにも、禅仏教の文化を感じます。

「死の覚悟、無我、無念、無想」が開く悟りの表情ですね。

ただ、「戦争協力」を、ただちに非難されるべきとも私は思いません。

今回のウクライナ紛争でも、そうです。

ロシア国内で反戦を叫ぶ人の勇気や正義には感銘を受けます。

一方、テレビで見た、ロシア人のこんな声にも共感します。

「私はプーチンを支持します。なぜなら、前線で戦う兵隊さんたちを悪者にしたくなから」

同じ問題は、日本の「戦争協力」や「戦争責任」にもあります。

しなくてもいい戦争をして莫大な被害を生じさせた責任は、誰かが負わなければならない、とは思いますが、それが必ずしも公正な裁きを結果しないことは、日本人なら皆わかっているはずです。

もちろん、今回のウクライナ紛争で「どっちもどっち」論を私は言いたいわけではなく、プーチンのロシアが悪いに決まっているとは思います。だが、国の責任と国民の責任は分けなければいけない。

それに、戦争と宗教の結びつきでいえば、当然、仏教の責任だけではなく、キリスト教も同じですし、現代ではイスラム教の責任が重いでしょう。どのような国も宗教も、つねに「平和的」であるわけではない。

戦争責任という問題は、当然ながら、ここで簡単に触れることはできない、難しく、しかも尾を引く問題です。

今回のウクライナ紛争でも、偶発的に、昭和天皇の戦争責任がまた言及されたりしました。

私がこのブログで再三触れてきたように、新聞や文化界の戦争責任も、まったく清算されていません。その中に、宗教界の責任も入っているということです。

そして、このウクライナ紛争が終わった後も、戦争責任問題は長く尾を引くでしょう。

ここでは、前に取り上げた「禅」の話題の付録として、ちょっと触れました。


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