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修行としての料理 道元とスティーブ・ジョブズ

料理の哲学を深めた、という点で、道元の曹洞宗は随一ではないでしょうか。

これは、開祖の道元が、宋で修行した時の体験に由来する。

ある日、高僧が寺で料理をしているのを見て、道元が、

「そんなことは若い助手にやらせればいいのに」

と言うと、

「お前は修行が分かっとらん」

と高僧に言われて、ハッと悟るわけですね。道元自身が書き記している。

その高僧の言葉で、禅の修行は日常にあること、そして、料理の大切さを理解するわけです。

だから、曹洞宗の大本山、永平寺では、いまも高い位の僧が料理を担当する。

その役職を「典座(てんぞ)」と言う、ということを知っている人は多いでしょう。

典座の仕事を追いかけた、福井放送制作のドキュメンタリー番組を見たことがあります。今もYouTubeで見られるでしょう。

60歳を過ぎた老僧が、1時間かけてゴマを擦ったりする。料理の考え方や手順は細かく決まっている(料理人が「考えすぎ」ないように)。

精進料理はベジタリアンだし、「淡い」味つけ、水を含めて材料を一切無駄にしない節約ぶりなど、現代人にも大いに参考になる(ゴマ塩や漬物をおかずにするので、塩分がやや多そうな気がしますが、少食なら問題ないでしょう)。

そして、料理というのは、機械的な作業を、確実・丁寧・安全にしなければならない。そこで「無心」になれる、というところに、修行としての料理の核心がある。

と、エラソーに書いてますが、私はもちろん仏教に詳しいわけでも、ちゃんと修行したわけでもない。

ただ、生来、神経症で悩んできたので、かつて森田療法や行動療法を学んで実践した。知られるとおり、こうした療法には、禅の考え方や修行が生かされています。

スピノザが言うように、人間は生まれつき「考える」ことがやめられない、「考える」ことに憑かれた動物だ。

そこで「正しく考える」方法を教えるのが哲学なら、「間違ったことを考えない」「考えるのをやめる」方法を教えるのが宗教で、特に禅はそれに焦点を当てている。

禅の考え方によれば、座禅のような瞑想だけではなく、料理とか、掃除とか、「無心」になれる日常の作業すべてが修行になる。それは、「考えすぎる」病気である神経症者にとっては、心の安定をもたらす、治療ともなるわけですね。

禅はインド由来のヨーガ(心を安定させる訓練、本来は仏教の一要素)の一種であり、今のヨーガは「インド禅」とも言われる。

いま我々が言う「禅 Zen」は、そのインドのヨーガが中国化したものが、さらに道元などによって日本化したものですね。

その思想的特徴は、「超能力(神通力)」を求めない。もともとの人間の心は清浄なものだから、余計なことを考えるのをやめれば、悟りの境地に近づける、といった哲学です。「超能力」を求めるのは、禅から見れば、原始的な考えです。(大乗仏教の中で、原始仏教の徹底的な無神論を、いちばん残しているのが禅だ、とも言われます)

そうした禅の考えこそ、日本人の精神の基本だ、と思われた時代もあった。鈴木大拙に発する国際的な「禅ブーム」は、戦前から、戦後の最近まであったと思います。

いま、日本は「禅の国」だ、というイメージはあまりないのでは。禅の精神を学びに来る外国人がそんなに多いとは思えない。今の日本はアニメの国ですね。

それでも、スティーブ・ジョブズが禅に影響を受けた、という話は有名ですね。

ジョブズが師事した僧侶は、永平寺で修行した日本人で、最近彼の伝記も出ていました(読んでいませんが)。

ジョブズも生来「考えすぎる」人だったのでしょう。

禅の影響は、ジョブズが簡潔な服装や生活を志向したことに出ている。

そして、アップルの製品は、余計なものを削ぎ落として、ユーザーに「余計なことを考えさせない」、「無心」にさわれる製品であるところが、禅の精神にもとづいていると言える。

残念ながら、彼が料理をどう考えていたかは知りません。

話は飛びますが、ゲームというのも「無心」になるのに良いです。

引きこもりで、ゲームばかりしている人は、家庭内「出家」して、禅の修行をしているようなものだと思ったりします。

彼らも、家庭や学校での人間関係を「考える」ことに疲れ、傷ついている。

早いうちに「自分には修行が向いている」ことに気づけば、禅寺などで生きる場を見つけることができたのに、と思います。







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