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草間彌生とオノ・ヨーコのニューヨーク

草間彌生と会ったのは1988年ころだと思う。大学時代の友人が紹介してくれたのだ。

当時、草間は、日本で売れない小説家として不遇をかこっていた。角川の小説新人賞をとったのは、80年代の前半だ。その作品は、前衛と土俗がいりまじった内容で、私はつげ義春の世界を連想した。かの見城徹氏が売り出しにかかわっていたはずだが、なぜか苦戦していた。

その理由は、会って5分でわかった。80年代のはやり言葉でいえば「ほとんどビョーキ」なのである。聞けば精神病棟に入っているということで、本物のビョーキであった。私に口をはさむ余地をあたえず、憑かれたように一方的に1時間近くしゃべった。

朝日新聞の編集委員だった本多勝一が、同じころの草間のエピソードを書いている。草間から電話があったが、一方的にしゃべられるだけで埒があかない。電話を耳からはなしてしばらく放置し、また電話をとったらまだしゃべっていた、という話だった。

なんだこのおばちゃんは、と、本多と同様、私は閉口した。とはいえ、話の内容は妙に記憶に残った。それは、60年代にニューヨークにいたころの話で、小沢征爾がレナード・バーンスタインに(いまの言葉でいえば)枕営業をして地位を得た、とか、小野洋子(オノ・ヨーコ)がジョン・レノンに(いまの言葉でいえば)ストーキングしていた、といったゴシップ話だ。

・・・いまの若い人は、草間やオノはさすがに知っているだろうが、小沢征爾を知っているだろうか。急に心配になってきた。俳優の小沢征悦、エッセイストの小沢征良のおやじで、ミュージシャンの小沢健二のおじさんです。レナード・バーンスタインは・・・ゲイでした。

話を戻すと、そのニューヨーク時代のゴシップ話は、私を楽しませようとしたホラ話ではあろうが、同じニューヨークで活動し、世界的有名人となった小沢やオノにたいする、草間の嫉妬も感じたのだ。当時の草間の境遇を考えれば、その心情は理解できるものだった。

その後、1990年代になってから、草間は美術家として世界的に知られる存在になっていく。

長年、私の心にひっかかるのは、草間と、小沢、そしてオノの関係である。たしかにこの3人は、同世代で、同時期にニューヨークにいた。

草間彌生(1929年生まれ) 1957年に渡米し、ニューヨークを拠点に前衛芸術家として活動。

オノ・ヨーコ(1933年生まれ) 1956年に作曲家の一柳慧と結婚して、1959年に渡米。ニューヨークを拠点に前衛芸術活動を始める。

小沢征爾(1935年生まれ) 1959年にブザンソン指揮コンクールで優勝し、1961年からレナード・バーンスタインの下でニューヨーク・フィルの副指揮者になる。

草間は、ニューヨークのアートシーンで、オノの先輩にあたる。草間の目に、オノはどう映ったのか。2人はどのように出会ったのか(または、出会わなかったのか)。

小野洋子(オノ・ヨーコ)はそのあとジョン・レノンと結びつくので、クラシック楽壇の小沢とは畑がちがう印象があるかもしれないが、当時は一柳慧を通じて東京の武満徹などともつながる、芸術音楽寄りの人だった(そのころの一柳周辺のことは立花隆が武満伝でちょっと書いている)。

そして、ピアニストの江戸京子の存在もある。1960年前後に渡米し、1962年に小沢と結婚する。同じころ、オノ・ヨーコは一柳慧と破局を迎える。三井財閥の令嬢である江戸と、安田財閥の令嬢であるオノとのあいだに、何か交渉はなかっただろうか。一柳と別れたあと、オノは米人映像作家とのあいだに一女をもうけるが、彼女はその子を「キョーコ」と名付けた。

戦後の前衛芸術高揚期のニューヨークという舞台もおもしろいし、そこでキャラの立った日本人たちが躍動していたのはたいへん興味深い。戦後日本の文化史としても、同時期に国内で起こっていたことより重要な気がする。有名になったあと、草間はそのころのことをしゃべっているのだろうか。

いずれにせよ60年前の話である。江戸京子を含めてみな在命だが、いちばん年長の草間は90歳を超え、ほかの方々もそう長いと思えない。取材をするならいまのうちである。誰か、優れたノンフィクション作家が、60年前の「ニューヨークの日本人たち」を作品にしてくれないだろうか。


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