書評:中島国彦『森鴎外 学芸の散歩者』(岩波新書) 近代日本文学の「幸福な父」
第一人者による包括的評伝
鴎外(1862ー1922)の没後100年を記念した刊行でしょう。
著者の中島国彦(早稲田大学名誉教授)は、漱石の権威であるとともに、鴎外の権威でもあります。
漱石、鴎外、本人とその周辺の書いたものは、断簡零墨の類まで全部何度も読んでいるのは間違いありません。現在、日本近代文学館理事長。
記念出版の著者としては最適の人と思われます。
貴重な検体にゆっくりメスを入れるような、慎重で柔らかい筆致が特徴です。
新奇な説、刺激的な視角があるわけではないですが、学界の知見をバランスよく取り入れたように見受けられ、鴎外の入門書としては現在最高のレベルでしょう。
鴎外のある一面を取り上げるのではなく、初学者に対しても、その「全体像」を浮かび上がらせるのが本書の目的のようです。
それは、簡単なことではないわけです。鴎外の享年60は、今では若いけれど、濃密な仕事ぶりで、相当数の作品を残している。
「鴎外はいわばテイベス百門の大都」
という木下杢太郎の言葉は、本書でも引用されています。
鴎外は、古代エジプトの都テーベほど巨大だという意味ですが、その巨大な都の「百の門」のできるだけを指し示すのが、本書の目的と言えるでしょう。必ずしも、それぞれの門の中に深く入っていませんが、それは本書の役目ではありません。
「その奥に踏み入れることは、わたくしたちに残された課題である。」(p234)
と、著者は読者と研究者に呼びかけています。
鴎外は読まれているのか?
ただ、鴎外は今、どのように読まれているのでしょうか。
というか、鴎外は関心を持たれているのでしょうか?
詳しくは知りませんが、漱石が今も国際的に読まれていると言われるのに対し、鴎外にそういう評判は聞きません。
鴎外は、近代以前の「日本語」が実験を重ね、現代語となる過渡期に、その実験に参加した文学者でした。
本書では、鴎外のその時々の作品を、少し長めに引用しています。それは、こうした文体の変化を実感させようとする目的もあるでしょう。その試みは成功していると思います。
そうした引用によって、かつて読んだ記憶がよみがえるとともに、新たに鴎外の文章の魅力に気づいたりします(私にとっては「半日」がそうでした)。
そして、どの時期の鴎外を読んでも、
「立派な文章だなあ」
と感心するのは、今も昔も変わりません。
鴎外の作品には、どの作品にもこうした「立派さ」を感じます。
その一方で、作品に対する愛着が、漱石ほどは湧かない。私に関しては、昔からそうでした。
今の若い人は、初期の漢文脈の文体は、もう受け付けないのではないでしょうか。
また、文体の立派さ、みたいな感覚も、もう共有できないかもしれません。
そうであれば、鴎外は、何よってこれから読者を獲得していくのか、ちょっと心配になります。
鴎外の3重の偉大さ
鴎外と漱石が「偉大」であるのは、3つの理由、あるいは、3重の背景があると思います。
第1に、「19世紀」という世紀の芸術的な偉大さです。それは、ゲーテ、ベートーヴェン、ワーグナー、バルザック、トルストイの世紀でした。
鴎外は特に、その後半のロマン主義に大きく影響されました。
20世紀の作家、トーマス・マンは、19世紀を振り返って、その「雄大さ」について語っています。
雄大さ、それも陰鬱で苦悩に満ち、懐疑的であってしかも同時に真理に対して厳しく、真理に熱狂する雄大さ、一瞬の陶酔のうちに溶け去っていく美の中にこそ信仰なき束の間の幸福を見出すことを知っている雄大さ、このような雄大さこそ19世紀の本質である。(トーマス・マン「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」)
「一瞬の陶酔のうちに溶け去っていく美の中にこそ信仰なき束の間の幸福を見出すこと」という言葉は、鴎外が大きく呼吸したロマン主義の核心をついていると思います。
鴎外はそれを、本場のドイツで吸収しました。鴎外のドイツ留学(1884〜88)の前年、ワーグナーは亡くなりましたが、ワーグナーマニアでノイシュヴァンシュタイン城を建てたルートヴィヒ2世が怪死した事件(1886)を現地で見聞し、衝撃を受けています。その事件をもとに書いた「うたかたの記」は、彼のデビュー作の1つでした。
鴎外は、西欧ロマン主義の最高の精華を日本に伝えたのです。
第2の背景は、日本の明治国家の「偉大さ」です。戦後は、そういう歴史観は一種のタブーになりましたが、鴎外の生きた時代は、日本が近代国家としてアジアから頭一つ抜け出して、国際社会に颯爽とデビューした時代でした。
鴎外も軍医として従軍した日清、日露戦争で勝利して、「領土」もどんどん広がりました。日本が上げ潮であることは、国民のほとんどが実感したことでしょう。
だから政治にも余裕があり、欧化政策の中、西園寺公望のような文化のパトロンがいて、日本の芸術が活況を呈しました。漱石の新聞小説が人気になり、新しい文学や芸術が人々に受け入れられました。鴎外が、政府高官でありながら、ほぼ自由な芸術活動が許されたのも、そうした背景があったからでしょう。
日清戦争の後、小倉に「左遷」されていた鴎外が中央復帰したのも、日露戦争に向かう流れの中でしょうし、その日露での勝利の後に、鴎外は軍医総監(軍医のトップ)としてキャリアの頂点を迎えます。その背後には、軍国化を進めた山縣有朋との友好的関係がありました。つまり、明治日本の国威の伸長とともに出世していったのが鴎外です。
第3に、この時代の芸術界を担った文化エリートたちが、並外れた実力者たちだったことです。
鴎外、漱石はじめ、明治時代の論壇・文壇のリーダーの多くは、江戸時代から続く士族やエリートの家系です。鴎外は、津和野藩典医(藩主お抱えの医師)の14代目でした。幼少期から特別な教育を受けて、明治期に入ってからは国家から特別な庇護を受けました。
その時代だったからこそ、和漢洋の教養が混ざり合った、高度な知性が育ったのだと思います。彼らは、漢文も英文も、和歌も俳句も、普通に使いこなしています。そういう文壇の質の高さは、少なくとも戦前まではあったのですが、戦後失われてしまったものの1つです。
鴎外は、こうした3重の恩恵を受け、近代日本にそびえ立つ偉大な文豪となりました。世界に知られる有名な日本人作家は鴎外の後にもいるでしょうが、「偉大」と呼べる作家は、もう出ないかもしれません。
鴎外の限界
しかし、鴎外を出現させた特別な条件が消えると、鴎外の限界が現れたように思います。
日露戦争で中央に復帰した鴎外は、「ヰタ・セクスアリス」などの意欲作を発表します。
だが、1911年、明治が終わる1年前に起きた大逆事件、幸徳秋水らの処刑は、鴎外をはじめとした明治の文化人に深刻な衝撃を与えました。本書でも、そういう見方をとっています。
社会主義に甘い西園寺公望路線が否定され、文化も含めた国家統制と抑圧が強まっていきます。近代日本の「青春」が終わったのでした。
ただ、同じ明治の文化人といっても、大逆事件の受けとめ方には、世代によって違いがありました。
鴎外は江戸末期の生まれで、徳富蘇峰と同じ世代です(鴎外は蘇峰の1つ上)。蘇峰が、鴎外の作品を活字にした最初の編集者の1人であったことは、本書でも触れられています。
大逆事件にすぐ激烈に反応したのは、鴎外や蘇峰より下の世代です。幸徳秋水と同じ、明治に入って生まれた世代、蘇峰の弟の徳冨蘆花や、鴎外の後継者のようになる永井荷風、また、さらに若い石川啄木などは、日本の行方に強烈な危機感を感じ、それを作品に反映させています。
鴎外より若い漱石の「こころ」は、乃木希典の自決(殉死)に仮託して、大逆事件の衝撃を語っている、という解釈も近年現れています。
一方、鴎外や蘇峰ら、大逆事件のとき50歳代になろうとしていた世代は、この事件への反応はどちらかといえば鈍いものでした。
鴎外は短編「食堂」などで大逆事件を取り上げますが、その書きぶりからは、政治的というより文学的事件のように捉え、あまり深刻に考えない余裕のようなものを感じます。
余裕というより、中島が本書で言うとおり、
「大逆事件の弁護人平出修とつながりを持っていた鴎外だが、一方で権力側の山縣有朋とも接近しており、自分の位置を見極めつつ(中略)認識を言葉にしていた」(p174)
という、バランス感覚から来る一種の韜晦かもしれません。いずれにせよ、それは、芸術家としては後退というべきではないでしょうか。
結局、大逆事件を起こした時代の流れは、第一次世界大戦(1914〜18)、そしてロシア革命(1917)へとつながり、日本と世界の運命を不可逆的に変えたのでした。
河上徹太郎も言ったように、第一次世界大戦は、鴎外が依拠した19世紀の芸術を決定的に「殺した」のでした。
そして、鴎外が亡くなった1922年、つまりちょうど100年前は、ソヴィエト連邦が正式に誕生した年です。
晩年の作品の難しさ
鴎外より若い漱石は、ロシア革命の前(1916)に亡くなりました。
「遅れてきたロマン主義者」だった鴎外は、もしかしたら長生きしすぎたのかもしれません。
晩年は、時代についていけない思いを抱いていたのではないでしょうか。自分たちの特権的な「秘密の花園」が荒らされ、消されかけているのを感じたはずです。
とはいえ、鴎外は晩年まで旺盛な創作欲を見せました。
明治が終わり、鴎外は50歳代となります。60歳で亡くなるまでの、晩年に近い作品「高瀬舟」を含めた、この時期の歴史小説、史伝の類をどう読めばいいのか、私にはよく分かりません。
「高瀬舟」は、教科書に載り、たぶん読書感想文の対象にもなりやすいと思います。
同時期の「山椒大夫」もそうですが、話そのものはわかりやすく、作品として整っています。
しかし、本書で中島国彦も指摘するとおり、このころの小説には、「作品の整い方と、問題の所在が、なかなか整合しない」(p199)問題があります。つまり、著者が何を言いたいのか、必ずしも明確でないのです。
文学的余韻を持たせようとする技術ではなく、著者の中に、本当に迷いがあることを感じてしまいます。
それはやはり、本質的に19世紀の人であり、また「明治」の人であった鴎外が、表現者として時代についていけなくなった反映であり、それでも時代をなんとか理解しようとして、あがいている姿ではないかと感じます。
このあたりの作品が「代表作」として紹介されると、もっとわかりやすい漱石に比べて、鴎外が不利になるのは、仕方ないような気がするのです。
そして、晩年に新聞連載された史伝、「渋江抽斎」や「伊沢蘭軒」については、「面白くない」と読者に大不評で、新聞社が弱ったという話が伝説として残っています。
鴎外の本領は、鴎外の資質と時代が幸福に合致した、初期の作品だったかもしれません。しかし、「於母影」はもちろん、「舞姫」を含むドイツ3部作などは、その文体の古さから、今では読まれにくい不幸があります。
幸福な「散歩者」
長生きしすぎた、といっても、鴎外が亡くなったのは60歳です。
鴎外が太平戦争まで、そして戦後まで生き延びたら、どうなっていたか。それを考えることがあります。
その可能性はありました。現に鴎外とほぼ同年の徳富蘇峰は、昭和32年(95歳)まで生きました。鴎外より若い漱石も、もちろん戦後まで生きていた可能性があります。長生きしていたら、終戦時に鴎外は83歳、漱石は79歳でした。
漱石や鴎外が長生きすれば、否応なく大東亜戦争に巻き込まれざるを得ませんでした。そこでどういう発言をし、何を書いたか。いずれにせよ、中立ではいられず、蘇峰の評価が敗戦で一変したように、現在の評価は変わらざるを得なかったでしょう。
その意味では、どちらも「明治の文豪」として死ねたのは、幸せだったと思います。
著者が本書のサブタイトルをなぜ「学芸の散歩者」にしたのか、本文の中ではっきり説明されていません。
鴎外は、陸軍退役後も公務について、漱石のような専業作家には最後までなりませんでした。その意味で、自分がディレッタントにすぎないという自覚がありました。
だから、「学芸の散歩者」という呼び名を、鴎外は喜んで受け入れただろうと思います。
専門の医学の方も、実は大したことがありませんでした。
そもそも、東大医学部での成績が振るわなかったから、仕方なく軍医になったわけですが、軍医のトップになったわりには、脚気の治療法を誤って死者を増やしたり、褒められた業績がありません。
鴎外の心身は壮健で、留学中に神経症になった漱石と対象的に、現地の著名人とドイツ語で論争したり、「舞姫」のモチーフになったようにドイツで女を作ったり、人一倍のスタミナがありました。闘士型とも言え、論争を好む性格、喧嘩っ早さは、特に前半生に顕著でした。
家庭人としては、一度離婚しているとはいえ、娘の森茉莉が書いているように、よき父親として子供に愛され、文壇のパトロンとしても、明るく社交的な側面を見せています。
遺書の意味
本書のプロローグは、漱石の次の言葉で始まります。
「功業は百歳の後に価値が定まる。余は吾文を以て百代の後に伝えんと欲するの野心家なり」
漱石とともに鴎外も、没後100年のこれからこそ読まれてほしいという著者の願いがこもっているのでしょう。
しかし、少なくとも晩年の鴎外に、そんな「100年後の野心」があったとは思えません。
この上なく活動的で生産的な人生でした。だけど、生涯の最後に彼の胸に去来した思いは、どのようなものだったのでしょうか。
「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」
という有名な遺書の一節を、本書の中島国彦は、生地への郷愁として捉えています。その解釈のために、本書の最初から生まれ故郷・石見の風景を描いて、伏線にしています。
「『石見人森林太郎』として死を迎えたいという心情は、若くして故郷津和野を出て、生涯戻らなかった鴎外が、いかに故郷を自己の心中に持ち続けたかをうかがわせ、多くの人はそれを深い感慨を持って受け止める」(p225)
(著者の中島は、以前の『漱石の地図帳』もそうでしたが、作家や作品を、「政治・制度」ないし「思想・主義」で捉えるのではなく、「自然・風土・地理」といった側面で捉えるところに特徴があります)
しかし、その解釈に、私は必ずしも納得できませんでした。
晩年の歴史ものの端緒である「興津弥五右衛門の遺書」で、鴎外は、乃木の殉死への密かな共感を示していました。
若き日にルートヴィヒ2世の死(恐らくは自殺)に心を動かされた鴎外には、「死」についての一種ロマン主義的な感覚があったと思います。
鴎外は自決したわけではありませんが、遺書を読む限り、自分の死というものを、絶対的な信条告白の機会のように考えていた気がします。
そこには、古里への郷愁といったものより、もっと理念的な信条があると考えるべきではないでしょうか。
鴎外は、幸福な人生を送ったと思います。何より、のちの日本人である私たちにとって、日本の、文学の、幸福な時代の記念碑のような人物です。
でも本人は、晩年になり、ますます理解できなくなり、ますます理解されなくなる時代の中で、文学者としても、医者としても、公務員としても、中途半端だった、という苦い思いがあったのではないでしょうか。
それは、乃木希典とは全く別ではあるでしょうが、時代や国家に対して、あるいは、もっと抽象的な文化芸術の理念に対して、自分の功績よりも、自分の不十分さを感じる心理だったと思います。それは明治のエリートに固有の意識かもしれません。そして、それはもう永遠に取り戻せない。死に臨む意識の上では、その意味で、乃木に10年遅れた、明治への「殉死」のような感があったかもしれません。
同時に、その思いは、同時代に理解されないだろう、とも考えていたでしょう。乃木の殉死も、芥川龍之介などの若い世代に理解されていないことを、鴎外は認識していました。
本書でも引用されている永井荷風の言葉、
「時代より優れすぎた人の淋しさ」
は、確かに鴎外の一面だと思いますが、一方、チェスタトンのこんな言葉も思い出します。
「時代に先んじた者は、やがて時代に追い越される」
鴎外に「100年後の野心」がなかったと思うのは、これからいかなる時代になるにせよ、自分が「孤独」であることを、最終的に自分の運命と受けとめていたと思うからです。それが遺書に表れている、と私は感じます。