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「ちゃんとした人間」をいかに育てるか -親と学校の使命-

秋田の金足農業高校野球部にて、いじめの事件があったらしい。3ヶ月の対外試合禁止処分となるそうだ。

「指導」と称して二年生が一年生にいろいろ暴力を振るっていたようだが、その「指導」という概念はどこからくるのだろうか。

おそらく伝統として上級生から代々受け継いできたのだろう。と判断したいところだが、何を言っても結局は僕の想像でしかないということになる。

でも、その想像はたいして難しいことではない。古き良き伝統もあれば、古き悪しき伝統もあるわけで。ちょっと前までの日本の学校では、先生が生徒に対して暴力を当たり前のように振るっていた。そのことを考えると、野球部にそんなくだらない風習が残っているとしても、ちっとも驚かない。


教育基本法では、教育の目的を「人格の完成」としているが、そんな目標には程遠い現実があるようだ。

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Yahooニュースのコメント欄は民度が知れている。今だにそんな部活内での暴力を容認するような体育会系のコメントが、当たり前のようにされていることに正直おどろく。暴力一つで、肉体的にも精神的にもその人が追い込まれることだってあるのだ。「指導は当たり前だ」とか「肩パンくらいなら」などと、時代錯誤も甚だしい。

とはいえ、学校のいじめを予防・早期発見するということは、たしかに大変難しいことである。先生や監督者から常に生徒の行動が見えているわけではないし、そもそもいじめの線引きもあやふやだ。特に際どいのが言葉の暴力で、追いかけ始めたらキリがない。ただやはり、暴力のようなできる限りみえる範囲で「ダメなものはダメ」という毅然とした態度でかまえておくというのは、指導者としてのあるべき姿なのではないだろうか。

そして、生徒を監督するものとしていじめを対処するには、いじめをする側の心理を知らなければならないとも思う。「人に暴力を振る」というのはまず一般的にはあり得ないことだが、生徒の家庭の事情やこれまでの経験からくる性格の歪みによっては、いじめは容易に起きてしまう。いじめられる側はもちろん可哀想なのだが、いじめをする側はもっと可哀想な状況だったりも。そんな事情を把握しながら、いじめる側の心理に引っかかる「重み」のようなものを取り除く仕組みが求められるようにも感じる。

じゃあそれってどうやんのよと言われると、答えに困るのが現状だ。性格というのは子ども時代から一貫した流れがあって形成される。だから、高校生のいじめる側の心理を把握したところで、その彼/彼女の心に引っかかる「重み」を取り除くには、もう手遅れだったりする。


だからこそ、僕が今触れている3〜5歳という年齢は、人格形成の基礎ができていくという意味で、非常に重要な時期にあるなと感じる。


ちゃんとした人格が形成されるということは、どの勉強以上にも重要なのである。

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だが、もうすでに性格が歪み始めている怪しい5歳児も、現場を見回せば存在する。そうなるとその年齢にして、すでに扱うのが大変だ。

そんな子に見られる共通点があるとすれば、それはやはり家庭である。


親と子。


非常に基本的なところなのだが、難しいところ。この愛着関係ができていなければ、子どもはときたまあり得ない事件を起こしたりする。

だが、残念ながらどこにでも通用するHow toはない。親子の数だけ形があって、変化もする。だから、いろんなケースを見ながら、自らの手で親子の愛着関係は形成しなくてはならない。


こんなことを書きながらも、僕はまだ親ではない。だから親の本当の苦労をまだ知らない。


だから簡単にこんなことを書いてしまうけど、自分の子どもができたらまた価値観が変わるのだろうなと、そう思う。

2022.09.08
書きかけの手帳

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