ちゃんと現実を生きる 〜二十四節気と七十二候のススメ〜
世の中、さまざまなタイプの人がいるもので、僕の知り合いにはこの時期になってもまだ夏であると言い張る人がいる。
どうしてまだ夏だと思うのかと聞くと、その人は決まって
「だってまだ暑いから」
という回答をする。
どうやら気温で季節を判断しているらしい。
季節がどれかの判断はもう個人に任せれば良いだけの話なのだが、さすがに気になってしまった。その人は本当に「季節」を感じられているのだろうか。僕たち人間は「五感」という素晴らしい感覚を持ち合わせているはずだが、その人の感覚は鈍っているように思えてしまう。
九月も折り返したが、気温の数字しか見えていないと、この時期はまだ「夏」であると言えてしまう。
僕らの豊かさは、どこへやら。
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僕は夏の定義がいつまでであるかを議論したいのではない。
僕たちはもっと、五感を使って日々を生きても良いのではないかと思う。
見る
聞く
触れる
味わう
嗅ぐ
それら一つ一つに注目するだけでも、季節の移ろいというのは興味深いものとなる。ちょうど今の季節でいえば、
見る→日没と日の出のタイミングが変わって、朝晩の景色が違う
聞く→セミの大合唱に代わって、秋の虫たちが朝晩に音を奏でている
触れる→夏のジメジメが和らいできた
味わう→ぶどうの種類が増え、梨が美味しい季節になってきた
嗅ぐ→自転車で走っていたら、ふわっと金木犀が香った
こんな感じで、季節の移ろいというのは、五感を通していくらでも感じられる。ものによってはすごく微妙な変化を捉えているかもしれないが、そのような細部の違いを感じるということが、現実世界をしっかりと生きているということなのだと思う。
だから僕は、イヤホンをして街を歩くということあまりしたくない。
耳を塞いでしまうことで、現実世界から遠ざかっているように感じる。
僕たち現代人は、どれだけ現実を味わえているのだろうか。
それはつまり、どれだけ現実を生きているのかという問いでもある。
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僕ら日本人の祖先たちは、そんな季節の移ろいを日常の中で感じてきた。
二十四節気と七十二候というものがある。
それぞれ、日本の四季の細やかな移ろいを記している。元々は古代中国で発案された季節の表し方だったが、日本では江戸時代に暦学者によって日本版に直された。これらを読むだけでも、だいぶ日常の季節の移ろいというものが感じられる。五感で四季の移ろいをたしなむヒントが、その二十四節気と七十二候には詰まっている。
ちなみに、9月13日〜9月17日にかけては
「鶺鴒鳴」
という。
その言葉の通り、セキレイが「チチチ」と鳴き始める頃だそうだ。
もしかしたら僕が住むこの都会では聞くことができないかもしれないが、山の方に行くと聞こえるかもしれない。
かつては、そんな自然の中から季節を感じていたのである。
そう思うと、都市に住む人が季節を感じられないのは、当たり前のことだ。
季節とは自然の移ろいであって、そのヒントが都会にはないわけで。とはいえ、そんな都会にもまだいくらかヒントは残っているはずだ。
街を、周りを、また改めてしっかりと眺めてみよう。
きっと季節の移ろいを告げる「何か」があるはずだ。
現実をしっかりと生きて、充実した毎日を過ごしたいものである。
そのヒントとして、二十四節気や七十二候というものがある。
この現代だからこそ、そんな大事な感覚を無くさないようにしたい。
2022.09.17
書きかけの手帳
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