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「日本の大学の第二外国語って廃止した方がいいと思う」に対する批判への応答

今回の記事では、自分が数ヶ月前に書いた記事に対するStella.氏の批判へ応答する。元記事と批判記事にまず目を通したい方は以下のリンクからお願いします。

元記事:

Stella.氏による元記事に対する批判:

では、まずわざわざ自分の記事に決め細かく目を通した上で、自分の議論に対する貴重な批判をいくつも挙げて頂いたStella.氏に感謝したい。自分の議論に対してさまざまな視点や立場から建設的な批判を頂けることは、なによりの喜びであり、自分の知的発展において大きな役割を果たしてくれるのはいうまでもない。

さて、Stella.氏の記事に目を通したところで、ここからは手短に各論点に対して自分の反論と弁解を述べさせて頂く。もし自分の理解が間違っているや、ここで述べた反論に理論的整合性の観点における問題がございましたら、教えて頂けると助かる。

当批判記事を読んだところ、基本的に自分の論点が誤解されていたり、歪められていたりという点が多いというのが率直な印象である。それに加えて、相互矛盾する論点もいくつか指摘したい。あらかじめ言っておきますが、もちろんここでは、著者の他の記事にも軽く目を通している上で応答している。

先ず、Stella.氏このように述べている

たとえ、現状、英語が世界的な支配言語であるとしても、大多数の日本人にとっては日常生活においても、仕事においても、そもそも英語は必要ないのである。もちろん、国連などの国際機関で働くなど、職業によっては、英語の常用が必須となるが、全大学生のうち一体何%がそのような就職先を選ぶだろうか。ほとんどの大学生は国内の企業に就職先を見つけるのではないだろうか。国内の企業で働くのに、英語の能力はそもそも必要ない。

この指摘はその通り。しかし、だからといって国内企業で英語が必要ないという訳ではない。グローバリゼーションによって世界が繋がる今の時代では、例え地方にある中小企業であっても、海外の企業とビジネスをするチャンスはなんなりとある。

経団連が2022年1月に行ったアンケート結果においても、この点は明確である。企業が大卒者に求める「資質、能力、知識」のうち外国語能力が含まれる「能力」で、最も重視されているのは「課題設定・解決力」「論理的思考力」の2点であり、肝心の「外国語能力」は、驚くなかれ、最下位である。これが意味するのは、たとえ仮に第二言語の学習が、英語力の低下に起因したとしても、日本の企業側からしてみたら、そんなこと最初から問題ではないのである。

指摘されているように、日本企業は外国語能力を重視していない(これは大きな問題!)。そういう意味では、英語能力が必須な訳ではないのはその通りである。だが、できることに越したことはない。さらに言えば、この批判は他の言語を学んだ方が良い理由にもなっていない。

アジアで見たとき、日本よりTOEFLのスコアが高い国といえば、シンガポール、インド、マレーシア、バングラデシュ、香港、フィリピン、韓国、中国などが挙げられるのだが、これらの国のうち、韓国を例外として、他の国はイギリス、あるいはアメリカにかつて植民地支配を受けていた国、あるいは、歴史的にアメリカ・イギリスが関係していた国である

この批判は理論的整合性が取れていない。先ず、この議論の通り、他のアジア諸国が英語に長けているのは植民地支配の影響か、米英との歴史的関連性に求めらるというのならば、なぜ日本のTOEFLスコアの国別ランキングで、他のアジア・ユーラシア諸国のカンボジア、ベトナム、モンゴル、タイ(同じく植民地支配を受けていない)、台湾、ウズベキスタン、アゼルバイジャンなどよりも低いのかということを説明できない。次に、中国はイギリスの植民地にはなってはいないので、植民地支配の影響を受けていたというのは些か暴論である。

同時に、ここでは日本と英米の歴史的関係性を完全に無視しているように読み取れる。明治維新を経てアジアの最初の「文明国」になった日本の人々は、当時積極的にヨーロッパ諸言語(英語も含む)を学んだ。その結果として、戦前の日本はアジアにおける知的ネットワークの中継地として多くのアジア人留学生を受け入れ、日本語で欧米の知識を伝えた。戦後、日本はアメリカと軍事・政治・経済・文化において緊密な関係を構築してきたことを忘れてはならない。二つの経済大国として頻繁に人的・物的交流を行ってきた。韓国とはそう変わらない。

さらに、他国の英語語学水準を植民地支配だけで説明することはできないように思える。その場合、台湾人の日本語能力はどうなのか?ベトナム人のフランス語は?それに、植民地主義をどのように定義するのか(例えば、ネオコロニアリズムについてはどうなのか)や植民地政策の具体性を見ない限り(例えば、植民者と被植民者との間に明確区分を維持し、一部被植民者エリートのみに植民者言語の教育を施した例などもある)、それが果たした役割を正確に測ることはできない。何より、植民地解放後これだけの時間が経つ国々の外国語能力を植民地主義に求めるとこは、裏を返せば独立国とその国民の主体性を無視ないし否定した乱暴な議論であるように思える。

「日本の大学は第二外国語を必修にするのではなく、あくまで学生の興味に応じて選択可能なものとし、逆に英語学習に集中した講義をもっと設けるべきであると思う。」と述べているが、それまで中学・高校と英語の授業をやってきたのに、大学でももっと英語に力を注ぐべきだというのは、高等教育の質を著しく下げる要因となる。高等教育機関(つまり大学)は語学学校ではない。現状、大学でこれだけ英語の授業に力を入れている大学は日本だけと言っても過言ではないのではないか。その必要性が支持されていないにも関わらずだ。

第一に、日本の中学・高校レベルにおける英語教育では不十分なのが現状。その段階でしっかりと英語教育ができていれば、決して問題にはなっていない。第二に、高等教育機関は語学学校ではないというのはその通りであり、自分も同じくそうとは思わない。自分の主張はあくまで、現状の一部大学における制度で、第二外国語に費やす時間を英語に費やすべきであると論じている。大学において完全に語学教育をなくすのならば、英語、フランス語、タガログ語含めて全て廃止にすることにも通じるが、その場合Stella.氏自らの主張に反する。

著者の論じ方は、ある一つの言語を単にコミュニケーションを取るためのツールとしか考えていないようだが、外国語を学習することの意義はそんな短絡的に導かれるものではない。それぞれの言語には、それぞれの世界の捉え方というものがある。日本と対外の問題を語ることにおいて、日本人は「日本側から見た・理解した問題の側面」しか知らない。相手側の視点をよく理解するには、相手の言語を介してモノの見方の違いを学ぶ必要がある。

言語は単なるツールではなく、相手側の視点を理解する上での重要な媒体であるというのは大変正しい指摘である。自分は、三カ国語をかなり高レベルで扱える者として、それを一切否定しようと思わないどころか、その現実を日々実感している。しかし、忘れてはならないのが、相手の視点・文化・信念や世界観を理解することができるのは、その外国語を著しく高レベルで扱える者のみである。例えば、自分の英語は通常の日本人よりは優れているが、それであっても「相手側の視点」を理解できるだけの能力がとは思えない。そのようなレベルに到達する上で、外務省などでの研修(2年国内+2〜3年現地+α)ですら難しい。現状日本の高等教育機関は言うまでもない。もし筆者が、その程度の外国語能力で他国民の世界観を理解できるのだと思うのなら、それは大きな間違いである。

加えて、言語だけが相手の立場になって物事を考えられるようになる唯一の道具ではない。例えば、その国の人々との交流(必ずしもその国の母国語でなくても良い)や文化学習などさまざまな方法がある。英語を勉強する=単一的な「レンズ」で世界を観察すると主張することは難しい。

著者は記事の中で、フランス人やエストニア人と中国語で話すことはないが、英語ならなんとか通じると述べているが、これは、非民主主義的であり、一種の人権問題であると思う。まるで「フランス人やエストニア人は中国語は話せないだろうけど、英語なら話せるでしょ?」という差別的な感覚さえ覚える。白人とコミュニケーションするときは英語なら何とかなるというのは、反対側から見れば「黄色人種を見かけたら中国語で話しかけろ」と言われているようなものだ。想像してみて欲しいのだが、海外に旅行に行っていて現地の人がこちらを見るなり「你好」と話しかけてきたら、どのような気持ちになるだろうか。きっと「いや、自分中国人じゃないんだが!?」と思うだろう。フランス人やエストニア人に英語ですぐさま躊躇なく話しかけるというのも、少なからず彼らにこういう思いをさせているのである。

典型的なストローマン(藁人形)論法である。誤解を招いて欲しくないのが、自分は決して特定の生物学的特徴(肌の色等)や文化に基づいてその人が使用する言語を判断するなどと言ってません。断固反対。それは他者の差異を無視した抑圧的行為である。誰も、「フランス人やエストニア人に英語ですぐさま躊躇なく話しかける」ことが正しいなどと述べてない。筆者によるただの曲解である。

自分が元記事で使用した例で示したいのは、英語が現状の支配的言語ないし、世界言語(エスペラント語の試みは結局のところ失敗している。そもそもエスペラント語自体がアングロフォンをベースにした偽りの世界言語であったことはいうまでもない)である以上、多くの人々は第二言語として英語を扱う。そのような意味において、英語を習得することは、世界の色んな国に住む人々とコミュニケーションをとる上で一番汎用性の高い言語なのである。

以上Stella.氏の批判に対して応答を手短に行った。全体的にいえば、筆者の批判は、論理的整合性が取れてない相互矛盾的な場合や単純なストローマン論法である場合が多く、批判に重きを置き、結果的に当記事の主張である「むしろ日本の大学は第二言語を必修化するべき」であるという議論をサポートする論点が少なかった印象である。

日本語、英語(日本の中学・高校レベル)に加えて第二外国語を習得することは決して悪いことではない。筆者が論じるように、言語を通じて多様な「視点」を身につけることができるのは紛れもない事実である。当の自分も、一時期四つ目の言語としてフランス語などにも手を出していた。しかし、言語が視点へと結びつくのには膨大な時間と労力が必要であり、週に三回の授業を4年続ける程度の現状の第二外国語教育では到底身につけることはできない(その程度だとせいぜい初級ビジネス言語レベル、その国で生活できれば優秀なぐらいだ)。そのレベルに到達する上では、言語学習のみならず、その国へと自ら赴き、文化や社会に触れる必要がある。そのような意味において、日本の大学生の第二外国語学習は多くの場合失敗に終わる(よっぽどやる気がある学生なら別だが。しかしそのような学生は、第二外国語が制度化されてなくとも、その言語を学ぶだろう)。

それなら、制度的に第二外国語に時間を割くのではなく、すである程度できるが、依然レベルが低い日本の英語教育に力を入れて、英語の上達を図るべきなのではないのかというのは直感に沿った、合理的な論理的帰結であるように思える。

以上が自分の批判に対する応答である。改めて、Stella.氏に感謝いたします。

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