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ウクライナを「応援」することは道徳的に正しいのか?

ロシアのウクライナ侵攻が始まって2週間以上が経とうとしている。国際社会からの痛烈な非難とは裏腹に、ロシア政府は侵攻を止めないどころか、より一層過激な軍事行動へ突き進む。多くの一般ウクライナ市民が犠牲になり、戦闘行為下多くの軍人が命を落としている。ウクライナ人の一部は難民としてヨーロッパ各国へ流れ、日本も先日ウクライナ人難民の積極的受け入れを発表した。ウクライナは、ロシアの侵攻に根気強く反抗し、一部戦場ではロシア軍以上の戦闘力と士気を見せ、局面逆転をもたらした。

このように勇敢・果敢に戦うウクライナに対して国際社会は、金銭、医療物資、食糧や水、シェルターから戦闘武器まで様々な物品を通して支援を提供している。それ以外にも、日本においても多くの人々が命をかけて自国を守るウクライナ人に対して「ウクライナ軍頑張れ!」という応援のエールを送る。このようにウクライナを「応援」することは一見したところ、理にかなう行動であり、道徳的に正しい。しかし、本当にそうなのだろうか。

先ず、ロシア軍の侵攻に対してウクライナ人が武器を手にとり対抗することは、自らが帰属するネーション(民族という定義が一番近い)に愛着とアイデンティティ、そして個人的・集団的プロジェクトの遂行を持っているウクライナ人なら合理的判断である。言い換えれば、自分が生まれた土地と民族に愛と帰属意識を感じ、この土地を失えば今までの生活、習慣、文化、経済的基盤などが失われてしまう。それを防止する為、ウクライナ人は武器を手にとり侵略者に対抗する。実に合理的である。

次に、防衛過程においての殺人はどうだろう。例えば、キエフを陥落させようと大勢のロシア軍が攻めてきて、それを防ぐ為ウクライナ人が銃を持って攻めてきたロシア人歩兵を全員射殺した。これはれっきとした殺人行為であるが、正当化できるのか?これについては、異なる倫理・道徳規範によって違いがあるが、自分の考えでは最低限度であれば正当化されるように思える。自分の生命を守る上で最低限の反撃行為は許される。もちろん、投降や戦闘不能状態に陥っている兵士をわざわざ残酷な方法で殺すなどは許されない。

ここまでは良いとしよう。ここからが問題だ。侵略されるウクライナ人と侵略するロシア人の戦争に対して、我々非当事者の日本人はどの程度援助するべきなのか。先ず、ロシア政府は国際法秩序に反しており、その戦争行為もまたいくつかの国際条約や倫理規範に違反している(ここでは過去の国際関係や歴史的あれこれの複雑な関係は除外して、この戦争事象のみに視点を合わせる)。ロシアの戦争の不法性や不正義性は明らかで、ロシアの戦争を正当だと考えるのはプーチンと一部支持者のみだろう。このような不正な戦争に対して抵抗せず軍事行動に加担してしまっているロシア軍人は個人・集団として責任を負う(例えば、不正な戦争においての殺傷行為に対する刑事的責任、国家の誤った判断に対して反抗しない道徳的責任、さらにはより高い立場にいる将軍などは政府がこのような結果を導いてしまったことに対する集団的責任を負うだろう)。

我々非当事者は、このような不正義的状態を認識している以上、それを非難し、修正し、必要に応じて罰則を与えなくてはならない道徳的責務があると考えて良いと思う。もちろんそれは個人の能力に応じてであるが。戦争について知り、それを異なる人に伝え、一刻でも早く戦争が終わることを願い、戦争の残虐さを認識するなど一般人である我々にもできることは多い。

それ以外にも、ウクライナ人とロシア人という両者の戦闘の間に介入することも救済的責任として一程度正当化できる。例えば民間人の救護活動や寄付などだ。難民の受け入れももちろんそこに含まれる。しかし、ウクライナ人に武器を供与し、その戦闘行為を支持し、さらには讃えること(端的に言えば「応援」すること)はどうだろう。正当化できるのか?

例え話を上げてみよう。AとBが殴り合いをしている。殴り合いの発端はBにあるとする。Bの方が優勢でAが負けかけている。ここでちょうどCが通りかかる。Cはいくつかの選択をすることができる

1)医療キッドを持ってきてAの救護をする(一応殴り合いでも救護行為ができることにする)

2)AとBの争いを止める

3)近くに落ちている鉄パイプを拾い、Aに渡してBを

4)見てて何もしない

ここで論争的なのが3)と4)である。鉄パイプを渡せはAはBに対抗する上で優勢になりうる。同時に、武器を得たことによって、Bは以前よりも多くの傷を負うことになる。その場合、武器を渡したCはBの負傷に対して責任を負うことになる。4)を選んだ場合、AがBにボコボコにされるのをその場に立って見ていることになる。もちろんこの場合3)のような責任は負わないが、その代わりに何もしないことに対してある程度の道徳的責任を負うことになる(不作為に対する道徳的責任)。

ウクライナの現状に照らし合わせた場合、何が正しいのか。自分の考えではウクライナ人の戦争を我々非当事者が武器提供や戦闘に対する称賛を通して「応援」することは正当化できない。なぜならそれは間接的に殺傷行為に加担していることになり(ロシア人の殺害)、そのような権利は、戦争状態下にいない我々にはない上、その行為に対して我々は道徳的な責任を負うことになる。だが、これに対して、これはウクライナ人を見殺しにしてしまうことになるという批判を受けるだろう。それは正しい指摘である。しかし、ロシア政府や軍人が現在進行形で不正義に加担しているとしても、我々がその現状に対して、ロシア人を殺傷するという権利がない以上、戦闘とは異なる形で支援を行うべきなのである。

確かにロシア(政府や軍)は不正義を行っている、そしてその不正義の犠牲者はウクライナ人である。ロシア軍兵士はそのような不正義に加担している。しかし、最終的にウクライナ人であれロシア人であれ、人間である。そこに存在する不正義を、自分の能力に応じて除去することは人々の道徳的責務である。しかし、その過程において殺傷行為に加担することは正義にかなわない。

このような理由故、自分はウクライナに対する武器提供や救援物資や食料などの人道支援を除いた、間接的に戦闘の助長に関わる募金や言論に対して否定的である。同じ理由において、ウクライナの国旗をまとったデモにも多少であるが否定的である。

「ウクライナ頑張れ」ではなく、「戦争をやめろ」。それこそが我々が高らかに叫ぶべき正義にかなったシュプレッヒコールであると自分思う。

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