夜の蝉
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
松尾芭蕉が『奥の細道』で詠んだ有名な一句。
芭蕉はミンミンとうるさいあの蝉の声が、
岩にしみ入るほど閑か(しずか)だと感じたのだ。
解釈は任せるが(偉そうに、知らないだけ)、
蝉の鳴き声が聞こえているのに聞こえてないような、
確かに鳴いてるがそこには静寂が漂うなんてコトがある気がする。
そうそう。
いつだって気が付けば蝉が本気で鳴き始め、
本格的な夏の到来を迎える。
この夏はコロナに加えて熱中症のダブルパンチに、
電力不足が追い打ちをかける。
そんな日本人が今一番求めている物はワクチンでも特効薬でもない。
"ヤクルト1000"だ。
「睡眠の質向上」、「ストレス緩和」に効くと巷で話題のヤクルト1000が突如、空前の大人気商品となってどこに行っても手に入らないなんてことが起きている。
SNSでなのかテレビでなのか発端は謎だが、
ここ最近の売れっ子は間違いなく大谷翔平かヤクルトではないか。
試しに友人との散歩がてら、
ヤクルト1000を見つけようなんてサブミッションを課して、都内をぐるぐると歩き回った。
当然、スーパーやコンビニを何軒も回っても、
飲料水コーナーの棚にその姿は無かった。
きっとネットを駆使したとて容易に手に入る代物ではないのだろうと今更ながらに実感した。
ここまでのヤクルトの大躍進を誰が予測できただろうか。これまで多様な乳酸菌飲料が生み出され、
乳酸菌の飽和状態みたいになったコンビニの棚で、
端の方へと追いやられその存在は確実に霞み始めていた。それが「睡眠の質向上」と「ストレス緩和」という効力を手に入れ、センターどころかその姿すら見られぬ程の人気者へと返り咲いたわけだが、
それ程までに日本人は"不眠症"と"ストレス"に悩まされていたのかと逆に心配してまう。
散歩のついでだとしても、
中々見つからないヤクルト探訪にストレスを感じ初めた所でそれは違うだろとなって、止めた。
気付けば深夜2時。
六本木のけやき坂を滝のような汗をかいて上っていると友人がふと呟く。
「蝉がまだ鳴いてるよ」
友人から指摘されるまで全く意識していなかった。
言われてみればさっきから鳴いていた気もするが、
意識するまでは静寂そのものに近い。
蝉が鳴くことは当たり前だし、
情緒も無い夜の蝉にいちいち何か感じることはしないし。
ただ、
道に沿って整然と植えられた木々から、
蝉の鳴き声が確かにはっきりと聞こえる。
長いこと海外で生活している友人が日本での無意識の日常を僕に突き付けた。
その瞬間から僕の頭の中にわっと夜の蝉が入り込んだ。
姿を見せない蝉たちの声が何処からとかではなく、
街の騒音問題になっていないのが不思議なくらいにあちらこちらから聞こえる。
「可哀想に」
と続けて友人が蝉に向かって同情する。
僕がなんでと訊けば、
そもそも蝉は夜に鳴かない生き物だと云う。
種類にも寄るが、
本来蝉は昼から夕方までの間にしか鳴かないはずで、
いつしか生態が変わり夜にも鳴くようになったようだ。
理由は二つ考えられるのだと。
一つは熱帯夜が多いこと。
夜になっても最低気温が25℃以上続く夜を熱帯夜と言うが、蝉が最もよく鳴くのは正に25度前後だそうだ。
そしてもう一つが、
夜でも明るいこと。
煌々と光る街の灯りが昼間だと勘違いさせ、
蝉は鳴き続けているのではないかという。
つまり夜の蝉は、
熱帯夜と人間の営みによって誕生したわけなのだ。
ホントだったら寝れたのに(寝るかは知らない)、
こんな深夜に渡って不本意に鳴かされている蝉たちを憐れんで、友人は「可哀想」と同情したのだ。
間違いない。
ただでさえ短命の蝉が睡眠も取れず夜通し鳴きながら、
ずっと命を燃やし続けていたのだとしたら、
こんな蝉たちにこそヤクルト1000が必要だ。
「それで結局何買ったの?」
ヤクルト1000は買えなかったが、
せっかくだからと友人がコンビニで買ったのは、
"C1000"だった。
一口飲んで少し量が減ったビンを僕に見せつけては、
「いや、C800だね」
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