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父の手

 五歳で脊髄損傷を患い、下半身完全まひの身体障害を負ってからほぼ二年入院した。

 血液やCT、点滴、投薬、リハビリ……。受けた治療や検査はもう数限りない。あまりに様々な治療があったはずだが、そのあたりの詳細はもう断片的だ。検査があると聞くたび、幼い私は恐ろしさで泣き叫び、付き添いの母を困らせる子どもだったから、記憶に蓋をしているのかもしれない。

 そんななか、覚えているのは放射線治療である。

 私と母の間では「電気を受ける」という言い回しをしていた治療だった。多分、術後の感染症を防ぐための治療だったと思うが、詳しくは聞いていないのでわからない。

 薄暗いレントゲン室のような部屋に連れていかれ、中央にあるガラス製のベッドに車いすから移されて横になると、母が「外で待ってるから」と言い残し、空になった車いすを持っていく。そして「じゃ、いきますね」という検査技師の言葉とともに、部屋の天井から下がった手術室のライトのような器機から、オレンジ色の光が一瞬光る。検査はそれで終了。すぐ母が空の車いすを押して入って来る。痛くもなんともない治療だったので、私は他とは違い泣き叫ぶこともせず、その治療を受けていた。

 異変が起き始めたのは、治療から半月ほどたった頃だろうか。

 まず髪の毛がごっそりと抜けはじめた。割と髪は厚いほうだったが、毛髪自体も細くなり、みるみる頭皮が見えるほどになった。毎朝起きると、枕に抜け落ちた髪の毛を集めてごみ箱に捨てるのが習慣になった。手鏡を見ると、オランウータンかチンパンジーみたいな頭になっていた。

 次に体がだるくなり、吐き気もひどくなった。三度の食事もほんの数口、口にするのがやっと。もったいないと思ったのか、残りは母の食事となった。

 ある日曜日のこと。その日は特に朝から調子が悪かった。ひたすらだるく眠く、いつにもまして食欲もなかった。

 その日は午前中、母がどうしてもはずせない所用で出かけており、かわりに父が付き添いに来ていた。

 父は私がこの治療を受けるようになってから唯一好んで食べられたバニラのアイスクリームを一緒に食べた後は、特になにを話しかけるでもなくベッドのそばに座り、テレビを眺めていた。当時も今も、父はアルコールが入った時以外、口数が多い方ではない。私もなかば起きてなかば寝ている状態でテレビを眺めていた。気がつくと、眠りに落ちていた。

 どのくらいたったか。私は目を覚ました。
 というよりもよおした吐き気で、底に沈んでいた意識をわしづかみにして戻された。

 異常を感じたのはその瞬間だった。

 激しいめまいがした。人生初のめまいだった。天井や壁がうねうねとゆがみ、ベッドが揺れた。マットが蟻地獄のように沈んでいき、飲みこまれていきそうな感覚がした。なにかを叫んだ記憶が確かにある。

 その時、左手が何かに包みこまれた。

 それまでそばでたたずんでいるだけだった父が両手を伸ばし、私の左手を包み込んでいた。

 蟻地獄はなおも私の身体を飲みこもうとしていた。

 私は父の手を力まかせに握った。

 父の手を放したら自分はなくなる。

 本気で思った。かなり強い力で父の手を握ったはずだが、父は顔色を変えずに握りかえしていた。どくどくとした動悸が伝わっていただろう。

 ひたすら、父の手を握った。視界が揺れていたので父の顔は見ることができなかったから、どんな表情をしていたのかはわからない。ただただ、私の小さな手を握っていた。

 やがて、めまいはおさまっていった。天井や壁もまっすぐになり、蟻地獄もなくなった。私は荒い呼吸をととのえながら、もう大丈夫だと思ったところでそっと手を放した。汗でぐっしょりぬれていた。

 大丈夫か。父がたずねてきた。私はうなずいた。そうか、と父はうなずきを返し、薄くなった髪の毛に触れないようにしながら、額の汗をティッシュで拭ってくれた。当時は一日ひと箱吸っていたハイライトのにおいがした。喉がかわいた、というと、もうひとつ買ってきてくれていたアイスクリームを食べさせてくれた。今度のはいちご味だった。

 数日後、父は仕事帰り病院に立ち寄った。母が「どうしたの」と訊くと「これ」と、持参した紙袋を母に手渡した。紙袋に入っていたのは、黄色い毛糸で編まれた帽子だった。以降、外泊許可が出ると、私はこれをかぶって散歩に出かけるようになった。

 放射線治療はほどなく終わった。髪の毛はまた元通り生えていて、吐き気もだるさもなくなった。あのめまいは一度きりだった。


 ……あの時、父はどんな気持ちでいたのだろう。

 だいぶ後になってから訊いてみたことがある。返事は「覚えてないなあ」のひと言だった。

 でもこれは勘でしかないのだが、照れ隠しにそう答えただけなような気がしている。もしかしたら、我が子の手をただ握ることしかできなかったのが悔しかったのかもしれない、とも。どこか抜けたところのある父でもあるので、本当に覚えてないのかもしれないが。

 でも、私にとっては、別にどちらでもいい。

 私は覚えているから。

 蟻地獄に沈みそうになった私を、父が必死で救ってくれたことを。

 互いの手を、握り続けたことも。

 煙草のにおいも、いちごアイスの味も。

 その後買ってもらった毛糸の帽子のことも。

 私が覚えているから、それでいい。

 去年、父は喜寿を迎えた。

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