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【短編小説】ニンジン

我ながら、馬鹿みたいだけれど。
私は包丁を逆手に構え、まな板に乗せたニンジンを睨んでいる。

太い方が頭、細い方が脚。まあ、脚は一本しかないけど。そう決めると、私はニンジンの顔と、お腹の真ん中とを狙って、包丁を思いっきり二度、振り下ろした。

サクッ、サクッというみずみずしい音とともに、ニンジンはたいした手応えもなく、三つのぶつぎりになる。
なんて甲斐のない。私は舌打ちをする。仮にも「人」参だろ。痛がるなりすればいいのに。

本当に、馬鹿みたいだけれど。私はこいつを許せない。存在ごと消してしまいたい。
私は三つに分かれたニンジンの「頭」を床に叩きつける。「頭」は音もなく砕けた。しかし飛び散ったのは血でも肉片でもなく、青臭い匂いのする、鮮やかな橙色のジュースだった。

うちの夫は、いわゆる健康オタクである。夫は先日、このような家庭内ルールを作った。
「これからは毎日、夕飯にニンジンを食べる」
栄養があるから、だそうだ。私はそれで構わないが、問題は息子だ。今年四歳になる息子は食べ物の好き嫌いがひどく、自分の気に入らないものは頑として口に入れない。ニンジンもその一つなのだ。

不安は的中した。息子は毎日のニンジンを断固、嫌がった。夫や私が「食べなさい」と言うと、泣くか、ひどいときにはニンジンを手づかみし、壁や床に向かって投げ散らかす。

そんなことを何度も繰り返したある日、私は夫に言った。
「もう良くない? 無理に食べさせなくても」
ニンジンの栄養うんぬんより、毎晩の息子との攻防の方が、心身によほどこたえる。
しかし、夫の意見は違った。
「好き嫌いは直さなきゃ、ダメだろ」
そう言うと、夫はスマホで何やら検索し、『うちの子供もぱくぱく☆野菜嫌いに負けないレシピ』というブログを私に見せた。

結論から言って、『うちの子供もぱくぱく☆野菜嫌いに負けないレシピ』は役に立たなかった。
息子にとって、嫌いなものはもはや食べ物ではなく、ただの異物でしかない。だからどう料理したところで、「食べる」という発想には決してならないのだ。

細かく刻んで混ぜても、最後の一片まで執念深く取り除こうとする。あげく「とりにくい」と癇癪を起こし、皿ごと放り投げてしまう。ケーキやパンにしてみても、「色が気持ち悪い」と食べない。

苦肉の策で、すりおろしたニンジンをカレーに混ぜてみた。カレーなら色も味も濃いから、息子も気づかないはずだ。いつの間にか、毒を盛る犯人みたいな思考になってしまったことに、自分でも笑えてくる。
息子は、私がニンジンを盛ったカレーを、そうとは気づかず食べた。つかの間、私はほっとする。

しかし、私のその最後の手段は、食後夫が放った一言で、封じられてしまった。
「あれじゃ、食べたうちに入らないよ」

そのときから、私はニンジンを殺したいと思っている。

午前中、息子を幼稚園に送り出し、洗濯物を干してからスーパーへ向かう。
ニンジン。ニンジン。ニンジン。今日もなにか、ニンジン。
落とした視線の先で、春先の柔らかな陽光がアスファルトに光っている。それを見るともなく眺めながら、私の頭の中はニンジンでいっぱいだった。
ニンジン。ニンジン。ニンジン。

ふと視界が、「人参」の二文字をとらえた。
それは漢方薬局の貼り紙だった。大型スーパーへ続く通り、牛丼、マクドナルド、古本、ドラッグストアなど、店がめまぐるしく入れ替わるこの場所に、昔からある店だ。ただし、客が入っているのを見たことはない。

ガラス扉の向こう、棚の上には、植物だか動物だかを乾燥させたものたちが、透明の筒に入れられ、陳列されている。
手前のガラスケースでは、生前の形そのままのすっぽんのミイラたちが、甲羅のお腹を上にして、透明の袋でパッケージされている。
息子は初めてこれを見たとき、店前で「カメが怖い」と泣きじゃくった。以来息子は、この通りを歩くとき、私の手をしっかりと掴んで、漢方薬局の方だけは絶対に見ないよう神経を張り詰めている。

すっぽんのガラスケースの端に、白い、黄ばんだ人形のようなものが座っているのが見えた。そいつは脚を投げ出す格好で、ガラスケースの壁に背中を預けている。人の形にしては頭部が平坦で、頭頂部も首もない。まるで、視界を塞ぐため、顔に袋を被せられたような形だ。あれはなんだろう。

ガラス扉が開き、店主の老人が声を掛けてくる。
「何か気になりますか」
「――あれは?」
私は、ガラスケースに座るミイラを指さした。警戒より、あれが何だかわからないもやもやした気持ち悪さの方が勝った。

店主は私の指す方を見て、「ああ」と納得したように言った。
「あれは人参です」
「ニンジン?」
あれが? 驚く私を、店主が店内へと促す。
「スーパーの人参とは違うでしょう。朝鮮人参といって、スーパーのとは、また別のものなんです。高麗人参とも言います」
サプリの広告なんかで名前は聞いたことがあるが、実物を見るのは初めてだった。

「今は『人参』と言ったら、普通、スーパーの赤いやつの方だと思いますよね。でも日本に入って来たのは、こっちの朝鮮人参が先なんですよ。いわば、先代の人参ですかね」
その後、店主は人参の効能などを色々と説明してくれたが、私はほとんど聞いていなかった。
近くで見ると、質感はやはり乾燥した植物のそれだ。それでも、このニンジンには四肢があり、ちゃんと人の形をしている。小首をかしげてケース下を見下ろしている姿には、何か意思があるようにすら思える。
先代のニンジン。人の形のニンジン。物を想うニンジン。

「ください」
気づいたときにはそう口に出していた。
「ありがとうございます」
店主は梱包用のセロファンを手に、カウンター後ろの棚へと向き直る。透明の筒が並んでいる中の一つに、まっすぐ「気をつけ」をした先代の人参たちが、窮屈そうに詰め込まれていた。
「あの」
私は慌てて店主を制止する。
「できればそこの、座っているものを」
店主は私の視線を追い、なるほど、と破顔した。
「面白い形をしていますよね。棚には入らないのでここへ座らせておいたのですが。本当に人のようで、私もだんだん、可愛らしく思えてきました」
店主は人参の胴体をそっと優しくつまみ上げ、セロファンで包んで茶色の紙袋に入れた。

人参は結構な値段がしたが、後悔はしなかった。
帰ったら針山にしよう。私はそう決めた。

帰宅すると、息子を幼稚園に迎えに行く時間だった。今日は午前終わりの日だ。
袋から出した人参は、とりあえずキッチンカウンターに座らせておく。

帰って来た息子は、座っている人参に気づくと、一瞬で怯え、泣き出した。
「これいや、いや! 捨てて!」
大人の私でもミイラかと思ったのだ。怖がりの息子なら、無理もないだろう。
私は膝を折り、泣きじゃくる息子に視線を合わすと、その両腕を強く捕まえた。
「これは先代のニンジンだよ」
腕をつかまれてびっくりしたのか、息子は大人しくなる。
「せんだい?」
「ニンジンのご先祖様が、ミイラになって戻って来たの。今日から、これが見張っているからね」

その晩から、息子はニンジンを残さず食べるようになった。
「お、食べてるじゃん」
夫が嬉しそうに言う。
「ニンジンすき!」
息子は、夫でも私でもない誰かに聞かそうとするように、大きな声でそう訴えた。

こうして、私がニンジンに悩まされることはなくなった。
先代は針山になることはなく、キッチンの戸棚の中に、今も鎮座している。
使う量が増えたので、最近ではベランダで家庭菜園をはじめ、自分でもニンジンを育てるようになった。

先代が見守っているおかげだろうか。私の育てるニンジンたちは皆、先がきちんと二股に分かれて、より人間らしい形をしている。
夫や息子は「気持ち悪い」と食べたがらないが、それで構わない。これは私のものだ。

電話が鳴る。幼稚園からだ。息子が園で癇癪を起こし、クラスの子を叩いたらしい。
担任の若い先生が言う。
「できればお母さんの方からも、向こうの親御さんとお話ししていただきたいのですが……」

私は電話を切ると、ベランダの家庭菜園へ向かった。
細い葉の束を片手でわしづかみにして、ニンジンを一体、地中から引きずり出す。

私は左手でニンジンの葉を掴んだまま、その頭をまな板に強く押し付けた。右手で包丁を構える。ニンジンは橙色の両足をばたつかせ、くねるようにしてそれを逃れようとする。
ばたばた、ばたばた、ばたばた――その様子を眺めているだけで、私はだんだん良い気持ちになってきた。

機械的なメロディを聞き私は我に返った。洗濯機が止まったのだ。いつまでもこうしてはいられない。
私はニンジンを押さえつける左手に改めて力を込め、お腹をめがけて二度、包丁を突き刺した。弾力のある、ぐにゅ、ぐにゅ、という感触。ぱっくり開いた二つの傷口から、赤黒いどろりとした液体が流れ出す。
ニンジンはお腹に包丁を突き立てられたまま、しばらくは両足をビクビクと痙攣させ、そのうち動かなくなった。

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