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日記

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日記という形式の器の大きさに存分に頼る
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#創作

2020年5月25日(月)

顎関節症かもしれないという疑いを自分の中で持ってからというもの、顎周りの(不快感を伴う)存在感が俄然と増してきた。顎関節症という言葉を思い浮かべなければここまでではなかったはずだ。顎関節症という言葉なんて知らなければよかったけれども、いつ知ったのかさえ覚えていないけれども、これから先すっかり忘れてしまうというのは叶わないことだろう。心身の状態や何らかの状況に明確な名称が与えられると、たちまち輪郭が

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2020年5月24日(日)

徘徊のち、17時頃から阿佐ヶ谷のロータリーのベンチで時間を潰す。周囲を取り囲んでいる建物のうち一番低いものが中央線の高架で、さながら盆地だった。陽はまるで差し込まなかったので寒かった。ベンチや、ベンチではないけれども座ることを促される平面に、人間が等間隔に並んでいた。時間をやり過ごしていると目的の時間がやってきて、店に赴いた。胃の容量もアルコールへの耐性も、明らかに落ちている。
#日記 #エッセ

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2020年5月23日(土)

中野のレンガ坂に見慣れない拉麺屋があって、吸い寄せられるようにしてそこに入った。およそ二ヶ月の外食だ。自分の脳と味覚が総合的にいま何を食べたいと考えているのかを適切に把握するのは難しいけれども、これは正解だった気がした。大盛の記述がなかったので出来ないのだろうと決め込んでいたが、後から来た人間の注文に耳を傾けているとどうやら普通に可能だったらしく、どえらい後悔がやってきた。繁華街はともかく通常の街

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2020年5月21日(木)

在宅勤務をしているとかえって、掃除する頻度が落ちていくのは私だけだろうか? 白い床に、光によって浮かび上げられるまでもなく塵芥が見える。ふと足の裏を手のひらで撫でる。足の裏に付着していた埃が手のひらに移動する。それを眺めることもなく、床に向かって捨てていく。ここに永久機関が完成する。永久機関の完成記念に鯖の味噌煮缶を主とする炊き込みご飯の制作を敢行したところ、極めて美味しくできたのでよかった。

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2020年5月22日(金)

昨日まで、いやつい一時間まで何の問題もなく滑らかな風情で開け閉めされていた網戸が突如反旗を翻し、抵抗した挙句にレールから外れて庭側に落ちていく原理、これがわからない。シャッターの抵抗感のぶれも然り。気候の問題だろうか? そんなに繊細であるとは思えないのだが。

それとは全然別の理由で、家探しが俄然現実味を帯びてきた。
#日記 #エッセイ #コラム #小説 #創作

2020年5月20日(水)

自宅⇒高円寺⇒中野⇒自宅というのが自粛期間中の散歩コースとして固定化されていて、それは高円寺と中野とついでに言えば西武線の野方の三駅のちょうど中間地点にある、そのどれもから十五分程度離れているという家に住んでいる私にとっては最寄り駅と見なせる区域で、たとえ電車に乗らなくても最寄り駅以外に行く気にはやはりなれない。高円寺では営業している古着屋が三分の一くらいはあって、そこでどれだけ着られるかわからな

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2020年5月19日(火)

在宅勤務が始まってからおよそ二ヶ月が経過した。自宅のデスクの椅子とその上に乗せたクッションが、悲鳴を上げている気がする。デスクに向かうことなんてほとんどなかった。引っ越しに際していちおう購入してからおよそ四年になるけれども、ここ二ヶ月でようやく、持ち主の重量と尻のかたちを覚えてきたのではないか。という下らないことを考えた以外は、胃の内容物を含めて昨日と同じ。
#日記 #エッセイ #コラム #小説

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2020年5月18日(月)

この自明の理を、こうして机に向かい、詳細なうえに深遠な考察を加えながら写真を眺めるという絶対的無為を押し通すことで先延ばしできると思っていた。
【消去(トーマス・ベルンハルト)】

本の一節を引用することくらいしか出来事が生じない、少なくともこの摩滅した感性をもってして掠め取れるような、減退した記憶力で留められる類いの何某かがまるで起きなかった。「絶対的無為を押し通すことで先延ばし」していて終わっ

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2020年5月17日(日)

新たなライフスタイルとやらにおいて、三日に一回という外出のペースが定まりつつある。六枚切りの食パンを二枚ずつ朝ごはんとして食べている、その調達のサイクルに基づいて定められている。街には人間が増えている。昼ご飯には肉肉しい食べ物が食べたくなり、何を買おうか迷った挙句、フレッシュネスバーガーを選択した。需要と供給および店を回す能力のバランスがあまりにも隔たっていて、店員も待たされる客も、何某かの感情を

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2020年5月15日(金)

責任という問題は、出生以前に私たちが相談を受け、現在ただいまそうあるがごとき人間になってよい、と同意したのでなければ、そもそも意味を持ちえないはずである。
【生誕の厄災(エミール・シオラン)】

この文章を見たとき、思わず快哉を叫んでしまった。ペシミズムが行き着くところに行き着けばオプティミズムに反転する、というのはいささか単純すぎるかもしれないけれども、そういう境地を目指していきたい。在宅勤務で

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2020年5月16日(土)

それなりに強い雨。家から一歩も出ず。トーマス・ベルンハルトの【消去】を読み始める。一日に許容できる容量が決まっているタイプの、圧の強くておそらくはちびちび読んでいくべき小説、と思われたのでちびちび読んでいく。

けさ、ある天文学者が、宇宙には何十億個の太陽がある、と喋っていた。聴いたあと、私は洗面をやめてしまった。いまさら顔なんぞ洗っても仕方がないではないか。
【告白と呪詛(エミール・シオラン)】

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2020年5月14日(木)

自宅の壁床天井における新規蜘蛛発生件数が、急増している。寝ているときに口に侵入するリスク、その想像の促進さえなければ住まわせておいてもよいのだが、それが無になることはぜったいにないので、仕方がないのでそっと逃がすように心掛けている。蜘蛛を見かけると必ずと言っていいほど、ぴょん吉、と呼び掛けてしまうのは滝口悠生の小説の影響だ。夜は買い物に行く。この時間でも半袖が許され、かつ長袖でも別段構わない、とい

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2020年5月13日(水)

VTuberの切り抜き動画を眺めるのが止まらない。詳しいことは知らないけれども、ホロライブ三期生、という枠組みの面々がとりわけ目に優しい。けれどもそれを見ている時間は、全く脳が働いていないことを把握している。これが、すなわちVTuberの配信を見る行為、あるいはそこに留まらず投げ銭やグッズ購入を通じて彼彼女らの活動を支えることが、たとえ一時期というものでもいいので自らのそれなりの生甲斐に据えられる

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2020年5月12日(火)

どうにもならないので午後半休を取得した。退勤報告直後にしばらく寝そべることにした。寝そべりを中断するためには、ほとんど偶然の事故みたいなかたちで、その気力が自分の内側に生じるのを待つほかなかった。二時半くらいにそれがやってきたので、家に落ちていたキアロスタミの【クローズ・アップ】を観た。周到な計画や大それた目的を持つことなしに、自分は映画監督であると咄嗟に身分を偽ってブルジョア家族に近づく、のが当

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