2020年5月13日(水)

VTuberの切り抜き動画を眺めるのが止まらない。詳しいことは知らないけれども、ホロライブ三期生、という枠組みの面々がとりわけ目に優しい。けれどもそれを見ている時間は、全く脳が働いていないことを把握している。これが、すなわちVTuberの配信を見る行為、あるいはそこに留まらず投げ銭やグッズ購入を通じて彼彼女らの活動を支えることが、たとえ一時期というものでもいいので自らのそれなりの生甲斐に据えられる域にまで達すれば話は別だが、レコメンドに沿って芋づる式に表示される切り抜き動画を、網膜と脳のほんの表面の部分しか働かせないまま惰性で見ている状態は、かなり無為な時間であると、わかっている。わかっているからと言って、それをしている時間の無為さの度合いが、減少してくれるわけでもないのだが。そんなことはどうでもいいので可愛いですね、というふうに言うだけで済む人間になりたい。けれども「てぇてぇ」とか「○○虐」とかいう言葉が作られて、浸透し、それに従属するようにリスナーや配信者が行為をしてしまう状態は、思うところがある。会社の人間に猫を自慢することで溜飲を下げた。

私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける。
しかし、この簡潔な事実を実感する努力を人はいままで怠ってきたのではないか。この事実を実感するためにはまず言語による思考の限界を確認しなければならない。それは同時に部分の総和が全体になるという単純な思い込みを否定することも意味する。
【世界を肯定する哲学(保坂和志)】

実感するための努力。世界を感覚するための、受動的ではなく能動的な行為が求められている。それを明らかに怠っている私には耳が痛い。上に引用した最終章の最終ページの結論が、今見たら表紙に書いてある、けれどもここに至る思考のプロセスを確かめるために、この先何回かこの本を開くことが予想される。

#日記  #エッセイ #コラム #小説 #創作

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