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毒育ちが語る『進撃の巨人』

注意事項

・当記事は『進撃の巨人』(諫山創著,講談社)の読了を前提としており、ネタバレを含みます。未読の方は十分にご注意ください。

・当記事はあくまで一読者個人の感想、解釈、考察に過ぎません。当記事によるいかなる責任も負いかねますので予めご了承ください。 









私と『進撃の巨人』

 先日発売した別冊少年マガジン5月号をもってして『進撃の巨人』が遂に完結した。本作は私などが説明するまでも、そして語るまでもないほどの超大作漫画であるが、毒育ちの目線から語らせていただこうと思う。

 私が『進撃の巨人』と出会ったのは学生時代だった。「友人がみんな見ていた」という至極単純な理由からアニメを見始めたが、その圧倒的な世界観に一瞬にして引き込まれてしまった。いったい巨人とは何なのか、エレンや調査兵団はどのようにそれと戦っていくのか、そして壁の向こうには何があるのかなどが気になって仕方なかった私は、小遣いをはたいて単行本をすべて購入した。しかし次第に巨人や壁の謎がなかなか見えないと感じ始めると私は読む手を止めてしまったのたが、まあ端的に言えば「よく理解できなかった」の一言に尽きる。

 それから数年、『進撃の巨人』が完結するという一報を受けて私は再び単行本1巻を手に取ると、今度は読む手が止まらなくなった。“壁の中”で止まっていた理解が“壁の外”を含めた展開にまで広がったのは、留年や卒業、母との対決、社会経験、そして毒祖母との対決と離別、それらに伴う新たな発見や知見が本作への理解を深めたからかもしれないと感じている。

『進撃の巨人』とは、血縁、親子、家族、愛といったテーマを根幹に様々な要素が複雑に絡み合った作品であると私は思う。魅力溢れる豊富なキャラクターたちの誰かしらに共感し、投影し、時には否定し、嫌悪さえする。常に“何かしらの感情”に揺さぶられ続けるからこそ、この作品は大勢の読者を引きつけてやまなかったのではないだろうか。


巨人について

『進撃の巨人』には、そのタイトル通り様々な巨人が現れる。その中でもっとも数の多い無垢の巨人とは、「不安定なパーソナリティや愛着スタイル、発達状態のメタファー」だと私は推察している。無垢の巨人が人を捕食する現象が、現実世界での(無自覚な)パーソナリティ障害者、発達障害者およびそれらの傾向がある者が善良な人間に対して害を及ぼす様と重なったからである。この推察を裏付けるかは不明瞭であるが、諫山先生はかつてネットカフェでのアルバイト中に酔っ払いに絡まれたことから無垢の巨人の着想を得たそうだ。

 しかしその無垢の巨人の正体とは、マーレ軍によって強制的に巨人化させられたエルディア人、つまりマーレという社会や国家のシステムによって生み出されたものに過ぎなかった。事実パーソナリティ障害や愛着障害、発達障害といった概念も現代社会太によって生まれたものである。つまり本来ならば他害的にならなかったはずの性質が、文明や科学の発展および社会や国家というシステムによって“他害的になってしまった”とも考えられる。

 その一方で知性巨人(九つの巨人)とは、「文明、科学、経済力、軍事力、兵器といった強大な力の象徴」だと私は捉えている。たとえば強大な力を持つ代わりに十三年の寿命が定められる仕組みからは、現実世界におけるプロスポーツチームが想起される。プロスポーツ選手の寿命というものも十数年、長くとも二十年ほどであり、チームには新たな若い選手が加入することで世代交代していく様は、巨人の力の継承とどこか似通っている。

 そして無垢の巨人とは「不安定なパーソナリティや愛着スタイル、発達状態のメタファー」であることを考慮すると、知性巨人とは「成功したパーソナリティ障害者の暗喩」とも考えられる。使い方次第で他人や周囲にとっての脅威にも恩恵にもなり得る一面を持つ様は、巨万の富を持つ者、民衆の上に立つの者、大衆を引きつける者、絶大な権力を持つ者、そして圧倒的な軍事力を有す者など資本主義社会における成功者と等しいのかもしれない。そしてそのような者たちとは、パーソナリティ障害(特に反社会性パーソナリティ障害)の傾向を持つ可能性があることを併せて指摘しておく。


壁内と壁外

『進撃の巨人』において巨人と肩を並べる象徴が、「壁」の存在である。

 百年余りに渡る壁内(パラディ島)での治世とは、表向きこそ安定していたのかもしれない。壁の外に出ようとさえしなければ、最低限の“保障”は用意されていたからだ。

「一生壁の中から出られなくても……メシ食って寝てりゃ生きていけるよ…でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか…」
(『進撃の巨人』1巻 第1話「二千年後の君へ」)

 しかしその“保障”も一部の人間たちが独占していたのが事実であり、壁内でも争いや格差といった不条理が常に蠢いていた。アルミンの両親が犠牲となった口減らし、アニが指摘した「力を持つ者ほど中央部に行くことができる」という歪んだ構造、人々を騙るために用意された偽王制などがそれを如実に物語っている。

 この壁内の状況とは、私にとっては毒祖母の支配していた実家に近しい。私も毒祖母の家に居座り、毒祖母という不条理にさえ目を瞑っていれば、確かに「家畜のようにただ生き長らえること」はできたはずだ。
 かつては私の母や伯父も壁の外へ出たものの、結局は毒祖母の実家という壁内に引き戻された。まるで「ほら、壁の外は危ないんだから私の側に居れば安心で幸せでしょう?」と言わんばかりに。しかしそのような生活とは、あくまで「毒祖母の強い自己愛を満たすだけの“まやかしの幸福”」であると私は知ってしまった。だから私は壁の外へと自由を求めてしまったのだ。そして壁の外に行けば、自由とそれに付随するような幸福が必ずしや私を待ち受けていると信じてやまなかった。

 紆余曲折を経て私は毒祖母の支配する家から脱した訳だが、壁外という名の社会にも毒祖母と似通った数多のパーソナリティ障害者、つまりは無垢の巨人たちが蔓延っていた。その残酷な現実を前に、私は絶望するしかなかった。「これでは壁外も壁内も同じじゃないか」と。

「結局…森を出たつもりが世界は命ん奪い合いを続ける巨大な森ん中やったんや…」(『進撃の巨人』28巻 第111話「森の子ら」)
「壁の外で人類が生きてると知って…オレは ガッカリした」(『進撃の巨人』33巻 131話「地鳴らし」) 

 それでも自分自身や家族が傷つかないように、そして自分たちが生きていくためには限りない不条理と戦うしかないのだ。自由を得るには、他人や子供、親、社会や環境に対してではなく、“自分自身”に対して責任を持たなければならないのだ。

「戦わなければ勝てない」
(『進撃の巨人』2巻 第6話 「少女の見た夢」 第7話「小さな刃」)
「戦わなければ 勝てない 戦え 戦え」(『進撃の巨人』26巻 第106話 「義勇兵」)

 

責任転嫁が引き起こす悲劇

 しかし『進撃の巨人』の世界では、自分で責任を取らずに“特定の誰か”へその責任を押しつけるような事象が常に渦巻いていた。

 長らくフリッツ王から奴隷として扱われた挙げ句に二千年もの間巨人生成の犠牲となった始祖ユミル。親の責任や都合を押しつけられ、それに応えることを強いられた幼きジークとライナー。妾の子として迫害された一方で血の繋がりのみで継承の器を担わされそうになったヒストリア。周囲の大人から担ぎ上げられて都合良く利用されたユミル。国や家庭の事情からマーレ戦士の候補生にさせられた子供たち──このような作中の事例とは、とりわけ「親や大人が子供たちへ責任転嫁する罪深さ」を表現しているのではないか。そしてマーレ国やその他諸国がパラディ島を責任の“掃き溜め”としてきた経緯もそれと同義である。迫害や差別の果てに、都合の悪いエルディア人を次々と楽園送りにした責任転嫁の罪深さもまた底知れないはずだ。 

 親から子へ、人から人へ、社会から社会へ、国家から国家へ、といった責任転嫁の連鎖太が“臨界点”に達した時に戦争や紛争、そして作中における地鳴らしに至るのではないか。何よりもこの責任転嫁の根本的な原因とは、人間の持つ強い自己愛ほかならないと私は常日頃から痛感している。


グリシャは毒親なのか

 ここからは各キャラクターに焦点を当てていく。
 まずグリシャについてだが、作中で描かれた彼は私の毒祖母の姿と重なって仕方がなかった。“一回目の育児”ではジークに対して価値観の押しつけ、道具のごとく扱う、条件付きの愛情と、まるで毒祖母が私の母にした仕打ち瓜二つであった。そして“二回目の育児”ではエレン対して良き父親然していたが、それが孫の私を(傍から見れば)非常に甲斐甲斐しく世話していた毒祖母そのものだった。ジークも同じように指摘しているが、「一度失敗したらどんなアホでも二度目はちゃんとするわな」というのが私の率直な所感である。

 そもそもグリシャとは実に他責的な思考の持ち主であると私には感じられた。妹のフェイが殺されたのも社会や差別のせいだと思い込み、媚びへつらう父親を憎んだ。幼心ならばそうなるのは致し方ないし、その心情は理解できない訳ではない。しかし大人になり、親になったグリシャはエルディア復権派に“狂信”すると、今度は息子のジークを利用しようとした。子供に思想や責任を押しつけてはいけないと知っていたにもかかわらずに、である。これこそがグリシャが犯してしまった責任放棄という名の罪だと私は認識している。

 以上からグリシャは、“少なくともジークに対しては”毒親であったと言える。しかしクルーガーの忠告および継承した進撃の巨人の影響、そしてパラディ島におけるカルラとの出会いとエレンの誕生などを経て、グリシャジークに対する罪を猛省したのかもしれない。

「妻でも 子供でも 街の人でもいい 壁の中で人を愛せ それができなければ繰り返すだけだ 同じ歴史を 同じ過ちを 何度も」(『進撃の巨人』22巻 第89話「会議」)

 だからエレンと共に記憶を辿っていたジークを抱擁したのだろうが、「いや、遅いって」と私は突っ込むしかなかった。またキース教官との対話からエレンに対しても過剰な特別視を完全に捨てていなかった様を見るに、グリシャは決して良き父親とは言い難いというのが私の結論である。(エレンを巨人にする行為については、進撃の巨人の力が影響していた可能性も決して否めないが)


過去を引きずるジーク

 そんなグリシャの息子であるジークの目的は「エルディア人の生殖機能を失くすことによる長期的安楽死」であったが、それは現実で言うところの反出生主義に近いと思われる。非常に差別的な暴論になってしまうが、「(無垢の)巨人化の可能性を持つエルディア人が子供を産むべきではない」は、私の推論においては「不安定なパーソナリティや発達状態を有する者は子供を産むべきでない」という歪んだ優生学的思考に置き換えられる。さもなければ巨人や巨人化の脅威による諸問題(現実世界で言うところのパーソナリティ障害や発達障害による他害問題)が解決しないとジークは考えたのであろう。そしてそのような思考の根底には、「自分なんて生まれなければよかった」という絶望が介在しているはずだと私は推し量る。

 ジークは幼少期から両親に責任を背負わされ、安全基地を持つことができなかったアダルトチャイルドである。安全基地や愛情の不在から健全な自己愛というものが著しく欠落しているゆえに、自分自身や他人を心の底から信じることが困難であったと考えられる。
 私もかつて「私なんか生まれなければよかった」という絶望し、「どうして私なんて産んだの?」という愚問を抱いた。それがいつしか「こんな一族滅べばいい」という思考へ変貌して今に至るが、それはジークの安楽死計画の根本と同じなのかもしれない。

「ただここにいるのは父親の望んだエルディアの復権を否定し続けることでしか自分自身を肯定できない男…死んだ父親に囚われたままの哀れな男だ」
(『進撃の巨人』30巻 第121話「未来の記憶」)

 このエレンの台詞のとおり過去に囚われ続け、

「この世に生まれないこと これ以上の救済は無い」
(『進撃の巨人』29巻 第115話「支え」)

という思考に陥っているジークも私も哀しき毒子供そのものである。

 しかしジークの安全基地であったであろうクサヴァーは、その本心では安楽死計画を否定していたのだと私は推測している。むしろ息子として愛したジークには自分のように家族を失うことなく、誰かを愛してその相手と子を設けるという幸せを手にしてほしかったのではないか。そのクサヴァーの真意という名の愛が「道」を通じて伝わったからジークは自らリヴァイの手にかかる形で命を絶ったのかもしれない。

「あなたとキャッチボールするためなら また…生まれてもいいかなって… だから…一応感謝しとくよ 父さん…」
(『進撃の巨人』第137話「巨人」)


親と向き合ったヒストリアとライナー

 ヒストリアライナーもまた親や周囲の大人から責任を押しつけられたアダルトチャイルドの一人である。アダルトチャイルドが親に奪われた本来の自分自身や自分の人生を己の手に取り戻すには、その親と《対決》する
ほかないと私は以前に論じた。
 
 ヒストリアは親友とも言えるユミルとの出会いや交流、エレンを救出したこと、そして父のロッド・レイスとの直接的な《対決》から自分自身を取り戻すことに成功した。その後はパラディ島の王として、一人の人間として、不条理と立ち向かいながら生き続ける意思を持つと、(エレンの戦略が介入している部分もあれど)母親として子供を産むという決断を下すに至った。

 一方でライナーはパラディ島奪還計画が失敗に終わると、強い希死念慮を抱くようになった。無論ベルトルトアニを失ったこと、エレンたちやパラディ島内の人類への罪の意識、そして自らの行いに対する後悔の念もあるだろうが、その希死念慮の根底にはライナーが本来有していた不安定なパーソナリティがあると私は推察している。ジークと同様にライナーもまた母親や親族からの過剰な期待によって自分自身を正しく愛すことができずに長年苦しんでいたのである。
 そんなライナーは長らく母親との《対決》を果たせずにいたが、最終話にて巨人の力を失ったことでようやく母親と向き合うことができた。この感動的な場面に水を差すようで大変恐縮だが、これについても「いや、少し遅いって」と私は感じてしまった。しかしどんな形、いかなる状況であっても親子が互いに向き合うことができたならば、それに越したことはないのかもしれない。

「ずっと…ごめんね ライナー… これ以上何も…いらなかったんだよ」
(『進撃の巨人』最終話「あの丘の木に向かって」より)

 ヒストリアやライナーのエピソードから言えることは、詰まるところ毒親という名の不条理ともいつかは「戦わなければ勝てない(自由を得られない)」ということである。


サシャの両親とカルラ・イェーガー

 先に挙げたグリシャ、ロッド・レイス、ライナーの母親とは対照的に大人としての責任を認識しているのがサシャの両親である。

「だから過去の罪や憎しみを背負うのは
 我々大人の責任や」
(『進撃の巨人』第28巻 第111話「森の子ら」)

 サシャの父親が、サシャ、ガビ、カヤの因縁を責任もって引き受けたのは、本作屈指の名場面であると私は主張したい。この“大人の役割”こそが、負の連鎖を絶つことができる唯一の術なのかもしれない。

 そのブラウス家と近しい思考を持つのが、エレンの母・カルラである。

「特別じゃなきゃいけないんですか? 絶対に人から認められなければダメですか? 私はそうは思ってませんよ。少なくともこの子は… 偉大になんてならなくてもいい 人より優れていなくたって… だって…見て下さいよ こんなにかわいい だからこの子はもう偉いんです この世界に生まれて来てくれたんだから」
(『進撃の巨人』18巻 第71話「傍観者」)

 サシャの両親やカルラの子供に対する姿勢こそが、子供に対する安全基地の礎ほかならない。子供の存在を承認して彼らに責任を持つこと、そして大人たちの責任や都合を決して子供に背負わせないことこそが真の愛だと私は思うのだ。

 グリシャ、ロッド・レイス、ライナーの母親が少しでも早くその事実に気づけていればと思うところは確かにある。しかし彼らもまた過去を引きずり、不条理を嘆き、葛藤に苦しむ親の姿そのものである。「巨人とは」の項で述べたように、いわゆる毒親という存在も文明や科学の発展および社会や国家というシステムによって生まれてしまったと言える。差別や格差、争いがない世界だったならば、グリシャもロッド・レイスもライナーの母親もそれぞれの子供に責任や都合を押しつけることなく、彼らを正しく愛せたかもしれないからだ。


エレンはなぜ地鳴らしを起こしたのか

 最後にエレンについてだが、これほどまでに意思が一貫した主人公とは存在しただろうかと感じるのは、彼は良くも悪くも終始「巨人を駆逐する」という目標の遂行に徹していたからである。訓練兵および調査兵団時代には壁内に存在した無垢の巨人やアニ、ライナー、ベルトルト、ジークといった知性巨人と凌ぎを削った。海を臨んだ後はマーレ戦士らとの戦闘を重ね、最後はジークと共に地鳴らしを発動させた。その一挙手一投足すべては、「この世から一匹残らず巨人を駆逐するため」ほかならない。

 そして物語の主人公が展開に応じて見せる成長や変化は醍醐味であるが、『進撃の巨人』における成長や変化とは、ミカサ、アルミン、ジャン、コニー、リヴァイ、ライナー、フロックといったエレンを取り巻く人物の方がより仔細に描写されていると私には感じられた。

「オレにはできる …イヤ オレ達ならできる なぜならオレ達は 生まれた時から皆 特別で 自由だからだ」
(『進撃の巨人』18巻 第73話「はじまりの街」)
「多分…生まれた時からこうなんだ」
(『進撃の巨人』25巻 第100話「宣戦布告」)

 エレン進撃の巨人の力を宿す前から「自分自身と仲間の自由のためならば、不条理と戦うという強い意思」を抱いていた。しかしそのエレンの意思とは、凡人には理解しがたいほどに“強過ぎる”のだ。わずか九歳だったエレン少年が強盗を死に至らしめたのは、その“強過ぎる”意思ゆえなのではないか。それらを鑑みるにエレンとは、父・グリシャと対極をなす「超自責型人間」とも表せる。だからエレンは他責思考な人間(グリシャ、ベルトルト)、自由意思を放棄して何かに依存する人間(ウォールマリア教、エルディア復権派、イェレナ、フロック、イェーガー派)、自己犠牲精神にすがる人間(レイス家、ジーク)、そして彼らに共通する“奴隷”という概念を心底憎み、軽蔑したのである。

 しかし人間誰もがそのような強い精神や意思を持つことは難しい。

「俺が…見てきた奴ら…みんなそうだった…酒だったり…女だったり…神様だったりもする 一族…王様…夢…子供…力… みんな何かに酔っぱらってなぇと やってらんなかったんだな…みんな…何かの奴隷だった…あいつでさえも」(『進撃の巨人』17巻 第69話「友人」)

 ケニーの言うように人間とは弱く、脆い生物である。時として何かに依存しないと生きていけない者も確かに存在する。それは作中の壁内や壁外の世界みならず、今私たちが生きる世界でもまったく同じことが言える。

 その弱さや脆さというものこそが、責任転嫁の根源を成すと私は認識している。以前に私は「他人に都合の良い“役割”を押しつけることは、責任放棄以外の何物でもない」と述べた。その責任放棄の果てが人を“化け物”に変え、その“化け物”の集合体が紛争や戦争、あるいは地鳴らしを引き起こすのである。エレンに本来備わっていた自責的思考、自由に対する強い憧れ、そして始祖の巨人と進撃の巨人の能力が合わさった結果として、世界を崩壊させるほどの「超自責型の“化け物”」が生まれたとも言える。
 
地鳴らしを遂行するには、結果として母・カルラと人類の約八割の命、そして自分自身の命を擲つことにエレンは気がついたはずだが、それでも彼は自らの責任で巨人を駆逐させた(巨人システムという負の連鎖を断ち切った)のだった。

 そしてこの地鳴らしとは、人間の持つ不安定さと発達しすぎた文明や科学、それらに「愛」という不確定な要素が追加されるといつしか世界が滅ぶという「予言」であると私は推察している。
 

 もし私も地鳴らしを起こせるとしたら、エレンと同じような選択をしていたかもしれない。



『進撃の巨人』がヒットする社会

 ここまでに『進撃の巨人』が流行したのは、人々が皆何かに虐げられ、傷つき、不条理に辟易しているからではないか。そして誤解を恐れずに言ってしまえば、何一つ悩みを持たない人、不条理とは無縁な人、つまりその社会における勝者らには、まったく刺さらない作品である。かような方々とは、おそらく巨人の正体が判明した時点やエレンたちが海や壁外の世界を知ったあたりで「え、巨人を倒してみんなハッピーになるんじゃないの?」という“違和感”を覚えてしまうからだ。かくいう私自身も毒祖母という名の不条理を体感していなければ、本作に対して「巨人倒してみんなハッピー☆」という地獄のごとくクソな終幕を求めていたかもしれない。


『進撃の巨人』は単純な勧善懲悪に留まらず、「責任転嫁の連鎖が生み出す不条理」を余すことなく表現してきた。不条理を嘆くだけでも駄目、それから逃げるのもまた違う。自由や自分らしさを勝ち取るには、結局は何かしらの力を付けて他人と争い、ある時には信頼関係を築いた相手すらを裏切らなくてはならないのである。そしてもっとも恐ろしい不条理とは、時と場合によっては自分が誰かを虐げてしまう立場になり得ることほかならない。

「私は…人を何人も殺した …褒めてもらうために それが…私の悪魔」
「そいつは俺の中にもいる カヤの中にも 誰の中にも みんなの中に悪魔がいるから…世界はこうなっちまったんだ」
「…じゃあ どうすればいいの?」
「…… 森から出るんだ 出られなくても…出ようとし続けるんだ…」
(『進撃の巨人』31巻 第124話「氷解」)

 この“悪魔”の正体とは、人が持つ強い自己愛である。強い自己愛が責任転嫁および責任放棄を招く訳だが、その可能性とはニコロの言うとおりすべての人間の中に存在する。つまり誰の胸の内にも“悪魔”という名の自己愛は潜んでいるのだ。皆がその“悪魔”に屈することなく、自分自身や他人を正しく愛せるような世界を目指すことが、「森を出ようとし続ける」ことなのではないか。子供たちや自分の家族を再び森で迷わせないためにも。


『進撃の巨人』が後世に残すべき素晴らしい作品であることは、無論間違いない。しかし本作がこの世に生まれ落ちてこのように大ヒットする社会が終焉を迎える日とは、案外近いのかもしれないと私は感じている。奴隷という概念、差別、格差、過度な競争、そして責任放棄の連鎖の“臨界点”は、いつ何時何処で到達するか誰にも分からないからだ。

 そして地鳴らしとは、何も『進撃の巨人』の世界に限った現象ではないと私は思う。明日、今日、もしかしたらこの数秒後にも“それ”は起きてしまうのかもしれない──この世に生きるすべての迷える人々が、この不条理という名の森から出ようとし続けなければ。

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