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毒親と《毒子供》

「毒親が元凶であること」は間違いない

 毒親(毒家族)に育てられることで多数の弊害が起きることを私は日々実感するとともに、毒祖母とかつて毒であった母に対していまだに怒りを覚えることがあります。もっと健全な家庭に生まれていたら、どうしてこんな不憫な思いをしなければならないのか、そもそも生まれたくなかった──そして、そんな“しがらみ”にとらわれている自分自身にも苛立ちを感じます。なぜならば、自分が思い描いていたような人生を歩めていないことを毒祖母や母に責任転嫁していると私は自覚しているからです。

 進学、就職、人間関係において問題に直面した時にはじめて毒親という概念を認識し、その問題や悩みの根源が毒親だと判断するケースは多いです。例えば「毒親のせいで進学、就職がうまくいかなかったのかもしれない」「健全な自己愛を持てなかったから、ハラスメントやブラック企業の被害者になったのだろう」「親が毒だったから恋愛や結婚がうまくいかなかったに違いない」といったことが挙げられます。
 最初の第一歩としては、それで構わないと私は思います。毒親の責任は非常に重く、彼らの言動が子供の人生に大きく影響することは間違いないからです。つまり子供にとっての障壁の多くは、毒親にその一因があると言っても過言ではありません。私も何もかもが行き詰った時期に一時的に自責の念を手放すと、毒祖母や母にその責任を押し付けました。「アンタたちのために私は優等生を演じてきた!」「アンタたちがずっとプレッシャーをかけてきたからだ!」といったように。
 毒親が諸悪の根源であり、そのせいで子供が生きづらさを抱えてしまう因果関係は確実に存在します。その一方で“子供自身の“パーソナリティや言動にまったく問題がないと言い切れるのかという疑問も生じます。事実私は愛着障害や複数のパーソナリティ障害の傾向が見られますが、それもまた毒祖母および母の養育が原因です。しかし果たして“100%”彼女らの責任として片付けていいのかと最近思い始めたのです。「すべての障壁の責任や原因を毒親に転嫁すること」は、毒親が成してきた行為と同等であり、そのような子供は毒親ならぬ《毒子供》と表現できると私は思います。


《毒子供》とは

「娘が……、志乃があんたのような、毒娘にならないように育てる」(ホーリーマザーより引用)

 これは、過去記事で取り上げた『ポイズンドーター・ホーリーマザー』の理穂のセリフですが、「あんた」とは同級生の弓香を指し、理穂は彼女のことを《毒娘》と表現しました。

「弓香は、浅瀬でばしゃばしゃもがいているだけ。本当に溺れていると思い込んでいるんだろうけど、ほんの少し冷静になれば、足が届くことが解るのに、気付こうともしない。」(ホーリーマザーより引用)〕

 弓香は女優を生業としていますが、物語冒頭でうまくいっていないことが示唆されています。親元を離れて一人で生活しているものの結婚、恋人の気配もありません。弓香は自分の現状をすべて過保護な母親の責任と思い込んでおり、その様を「弓香は、浅瀬でばしゃばしゃもがいているだけ」と理穂は指摘したのでしょう。

 つまり≪毒子供≫とは、この弓香のように「失われた子供時代を引きずったまま毒親との《対決》から逃げ続け、自分自身の人生における問題、障害の責任を“すべて”毒親に転嫁している子供自身」を指します。ここで言う《対決》とは、「子供が毒親から傷つけられた事実やその時の心情を毒親に対して包み隠さず伝え、今後の毒親への接し方やスタンスを明示すること」です。(詳細については、『毒親の連鎖~後編~』『愛着スタイルが不安定な毒親』『毒親との《対決》』をご参照ください)
 他人と交流したくない、友達がいない(欲しくない)、恋愛できない(したくない)、結婚したくない、漠然と子供を欲しいと思えない、許されるのならば仕事をしたくない、そもそも生きていたくないなどと思ってしまうのは、《毒子供》のおもな特徴です。健全な自己愛がないゆえに愛着障害やパーソナリティ障害の傾向が現れており、それを引きずると社会生活や対人関係において支障をきたす可能性があります。そういった意味でも毒親への責任転嫁を大義名分に自分自身と向き合うことから逃げてはいけないと私は思うのです。かくいう私も非常に恥ずかしながら、現在《毒子供》真っ只中です。先に挙げた弓香と同じように大人になった今もなお、毒祖母やかつての母に責任を擦りつける節があるからです。


毒親との対決から逃げてはいないか

 毒親とは責任転嫁がお得意であり、そうするのは紛れもなく楽だからです。誰かのせいにして不満や不安を取り除き続ければ、苦痛を伴うまっとうな努力をしなくても気持ちが軽くなります。それと同様に《毒子供》は、毒親との対決をあえて避け続けることで“可哀想な自分”に酔いしれます。
 先に述べたように「毒親が元凶であること」は確かに前提としてありますが、それが親との対決を避ける理由にはなりません。「毒親に育てられたから仕方がない」は、最初こそ“正確”な認識ですが、それは段階的に“不正確”となっていきます。例えば「毒親に育ったから私はこんなに辛い」という話をすれば、周囲の人は傾聴するとともに情けも掛けてくれるでしょう。しかし回を重ねるごとに「分かってるのならば、行動しろよ」と周囲の人は思うことでしょう(その子供自身が未成年や学生の立場ならば、また別の話ですが) 毒親問題とは、「自分自身で認知した上で自分で解決するほかない性質」を多分に孕んでいます。いくら他人に助けを求めても当事者である子供が毒親と対決を試みた上で《解毒》をしない限り、その子供はずっと《毒子供》のままです。
 繰り返しになりますが、私は解毒が完了していない《毒子供》です。しかしかつての母や毒祖母との対決を経て、今の私があります。いつかは毒親と対決を図る──これなくしては真の意味の解毒や問題解決はあり得ず、決して譲れない事柄だと私は思います。


《毒子供》を脱すれば、誰かの役に立てるかもしれない

 毒親から受けた傷が完全に消えることはありませんし、それをつけた毒親は到底許されるはずはありません。しかしその傷を必要以上に見せびらかしたり、それを免罪符して利用することもまた違うと思います。『ポイズンドーター・ホーリーマザー』の弓香はもちろん、理穂自身も「完全に解毒できていない」と私は感じました。弓香は母親にとらわれ続け、理穂は理穂で毒母の次は“毒姑”に捕まってしまいました。 解毒をしなければ、毒親や毒親と同じような人間から被害を受けてしまうと私は常々考えており、未来の自分を守るためにも今一度自分自身を見つめ直す必要があるのです。それを経た上で別の形で自分自身への愛着を築き、健全な自己愛を取り戻していかなくてはなりません。私は現在その過程にありますが、その一環として当noteやtwitterをしたためている次第です。それらを通して毒親問題に悩んだり、生きづらさを抱える方の書き込みからその痛みを察することもあります。その痛みへの理解とは、将来的に万が一パートナーや友人、知人、同僚が同じような問題に直面した時に役に立つかもしれません。
 私自身が《毒子供》を完全に脱する日まで、そしてその経験が僅かでも誰かの助けになると信じながら、これからも何かしら書き続けたいと思います。

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